カナダ研修記(ヴァンクーヴァー・ウィスラー)

1992年12月19日〜12月28日&1993年12月18日〜27日

       魁 三鉄(永橋続男

第1回研修

(1)

 どういう経緯でカナダへの研修旅行が初めて企画実行されることになったのかは定かではないが、わたしが引率者という立場でヴァンクーヴァー(ウィスラー)へ行くことになったことに深い理由はなく、ただその当時教務部スタッフの中にわたしよりスキーの心得のある者がいなかったからということであったようだ。

 私自身のスキー歴は学生時代にスキー部に所属したこともなかったし、格別のスキー好きというわけでもなかった。1970年代に大学の仲間たちや知人たちと年に2回くらいのペースで毎年越後湯沢とか苗場や蔵王などのスキー場に滑りに行く程度であった。スキーの腕前(脚前?)も自己流にただ滑るだけというレベルであった。

 

 ともかくも、カナダのヴァンクーヴァーへ短期滞在し、その間にスキーを楽しみ、ホームステイをしようという企画となった。名目上は短期語学研修ホームステイということであったが、学生たちは改めて英語の研修によって英語を上手になろうというよりは、それぞれの家庭でこれまでに学校で習い身につけてきた英語を使って話してみるということに主目的を置いていた。

 

業務報告としての研修レポートは事後もちろん提出したが、それらの報告とは別に私的な時間の中で体験したヴァンクーヴァー(ウィスラー)の想い出を写真を見ながら記してみよう。すでにあれから20年が経っているのだ。あの時一緒に行った学生たちも既に40歳くらいのはずだ。

 

この初めてのヴァンクーヴァー訪問の折に私はカナダ北西海岸インディアン芸術と出会い、それがきっかけとなって後にヒラリー・スチュワートさんの著書を翻訳したり、彼女の家に短日であるがお邪魔させていただいたりして交流することとなった。ホクセイカイガンインディアン芸術探訪の旅についてはまた別の紀行文を用意しよう。ほとんど人跡未踏の地や絶海の孤島ニンステンツを訪れたのもこのときであった。

 

(2)

カナダ研修はいわゆる冬休みの期間を使って企画された。当時のことを記したフォト・アルバムを見ると、第一回目は1992年12月19日に出発している。このアルバムの中には詳しいデータは挟んでいないが、参加学生数は15人くらいであったと記憶している。

 

JAL16便ヴァンクーヴァー行きは21:00発であり、翌日12:40到着である。(現地19日お昼過ぎ) ヴァンクーヴァーへ到着すると空港にはなんと雪がいたるところに積もっており、雪かきの跡や堆積された雪がうず高く積み上げられたりしていた。やはり、寒いカナダだから、当然毎日雪なのだな、と思っていたら、ヴァンクーヴァーにこんなに雪が降るなんてことはここしばらくなかったことだと後になって聞いた。

実際、ウィスラーからヴァンクーヴァー市内へもどってからはいつものヴァンクーヴァーであり、雪などはその後一度として降りはしなかった。

 

われわれは空港から直接ウィスラーへ行くことになっており、空港から乗り込んだバスの車窓からただ街並みを眺めてヴァンクーヴァーを通り過ぎて行った。厳蜜に言えば、カナダはアメリカ・アリゾナ州ツーソンでの研修の帰途旅行でナイアガラ・フォールズ探訪の折に入国したことはあったが、滞在は初めてであったので、街の雰囲気にはそれなりの興味を持っていた。

国際空港からヴァンクーヴァー市内ダウンタウンへ通じるグランヴィル通りの車窓から見えるカナダ市民の住宅などはこざっぱりした感じで、なかなか感じが良い。一戸建ての家はそれほど大きくはないが地下一階付きの2階建てという家が多く、大邸宅という感じはないが、綺麗にまとまっており、個性的な印象であった。

グランヴィル橋を渡ると高層ビル(といっても2,30階くらいだが)が見え、ダウンタウンへ入っていることが分る。ところどころに雪が寄せ上げられているが、全体として雪はほとんどない。ダウンタウンを過ぎてノースヴァンクーヴァーを経て薄暗い海岸線伝いにバスは走り、間もなくして山間部へと走った。人気のない山に入るに連れ、少しづつ雪が目につき始め、ウィスラーの街についたころにはあたりはほとんど雪となっていた。

(3)

 

 ウィスラーはスキーリゾートの街であり、スキー客をはじめウィンタースポーツのためにくるゲスト用ホテルばかりが目立つ存在である。われわれはリステルという日本資本の経営するスキーロッジに滞在だ。ホテルの格は高くもなく、宿泊設備はごく平均的だ。ホテル内はスキーウエアを来た客たちで夕方もごった返していた。ちょうどリフトなどもクローズする時間であり、スキー場が閉まり、客たちが山の上から帰ってきた頃合のようだ。部屋が決まり、学生たちへの案内もおわった後、さっそく外へ出てみたが、山の雪は見た目にはそう多くはない。12月の下旬としてはいつもこんなものなのか?果たして滑れるほど雪があるの?という感じだ。ホテルの屋根には多少雪が積もったままだが、路上の雪はほとんどかき集められており、道路は普通の靴でも歩けるほどだ。もうすぐクリスマスということでそれぞれのコテッジ風のホテルのイルミネーションがジングル・ベルやトナカイなどを模って飾られ、光のペジェントの趣だ。ホテルによっては樅の木を用意してある。

こういうリゾート地というのは概して地元の業者がすべての商品を管理しており、なにかと高いのが普通だが、ウィスラーは自炊者用のコテッジもたくさんあるらしく、スーパーマーケットがリーゾナブルな値段で酒、肉、野菜、調味料などの飲食物や日用雑貨品の類までを一通り販売しており、それらを買い求める家族連れやグループで賑わっていた。日本はバブル経済が崩壊して間もなく後のことであったが、まだ全体としてはバブル饗宴の余韻があり、ある意味で日本人にはゆとりがあった。アメリカに次ぐ経済大国日本であり、お金持ちの日本人であった。参加学生の家庭もバブルの直撃によって破産の憂き目にあったというこもなく、なお、ある程度のゆとりが全体感じられた。まだまだ良き時代であった。

 

翌日から2日間、ウィスラーでのスキーを楽しむことになった。この研修は旅行社JTBにより万事が整えられており、引率者が自前で企画を立てるという部分はほとんどなかった。それだけ引率者にとっては楽であったが、プログラム・アレンジメントの裏方作業の部分を知ることはほとんどなかった。たとえば、スキー用具については、自分の板や靴などを持参する者は誰もいなかった。ウエアさえ持参すれば、そのほかの厄介な道具はすべて現地で貸与された。私自身も何も道具らしいものは持って行かなかった。普通、靴だけは自分にあったもの(=履きなれたもの)を持って行くのだが、私自身は引率者という立場から、極論すれば、自分は滑る機会がなくても良いというくらいの気持ちでいたので、愛用の道具を持参することにも執着しなかった訳だ。

貸与されるスキー・ブーツや板に対しても期待はしていなかったのだが、当日眼の前に選ぶように出された道具を見て私は驚いた。個体差はあるだろうが、とにかく道具は俗に言うヨーロッパ一流ブランドのものである。靴はサルモンだし、板はロシニョールだ。このころは日本ではこのての靴は安くても5,6万、板も3,4万位はしていた。日本のスキー場ではレンタルスキーは国産の板がほとんどであったし、靴などもサルモンはあまりなく、ノルディカとかコフラックなどが一般的であったから、眼の前にある道具が随分眩しく感じられた。それと同時に妙に安心した。スキーというのはやってみると良く分るが、やはり道具なのだ。道具が良いと力が逃げないし、無駄な力もいらないから疲労度も違ってくる。一日中滑っていても平気なのだ。

そんなスキー用具は一体いくらで借りられるのだろうと翌日は独りでレンタル・ショップへ行ってみた。スキー用具一式2日間で48カナダドルであった。約5,000円であった。日本と比べれば安かったようだ。

 

学生たちの中にはまったくスキーをしたことのない女学生から新潟の高校のスキー部に所属していたという男子学生まで技量の幅は大きかったので、まったくの初心者、ある程度滑れる者、かなりの経験者に分け、それぞれに現地のカナダ人インストラクターをつけた。もちろん指導はすべて英語によるものである。

ウィスラーのスキー・ゲレンデはまったくの初心者用から上はプロスキーヤー用までさまざまなコースがある。規模も大きく、わたしが知る限りでは蔵王の山頂から樹氷コースを経て温泉街までノンストップで降りた距離(約8km)で3分の2くらいに相当する感じの長さであったから、おそらく上から下まで12kmくらいのゲレンデだろう。もちろん途中に各リフト用のゲレンデがたくさんある。スキーヤーはたくさんいるが、なにしろゲレンデが大きいからあまり混雑していると感じない。衝突の心配などしなくて滑れるし、緩斜面から急斜面や瘤斜面まで多彩だからスキー好きにはたまらないコースだ。

 

私はウィスラーで滑るのはもちろん初めてであるし、自分がスキーをしに来たのではないから、とこの年はあまり滑らなかった。一応上から下まで滑ってみようということで、独りで滑ったが、コースはいろいろあるし、それらをすべて経験してみるということはなかった。翌年は引率メンバーも増え、専門家もいたので、ひとりでほぼ全体をすべることができたし、隣り合わせのブラッコム・スキー場へも行き愉快な滑走を楽しんだが、好事魔多し、学生のアクシデントにたまたま遭遇し、その救護で随分心配した。そのことはまた……。

 さて、このようにスキー場としては恵まれた環境の中で学生たちはスキーをそれなりに楽しんだ後、22日午前中ヴァンクーヴァー市内に入った。短いのだが、一応ホームステイ滞在のためである。この日ウィスラーは少し雪模様であったが、ヴァンクーヴァーは曇天ではあったが、雪はまったくなかった。到着日に見えた、かき集められた街角の雪もすっかりなくなっていた。そしてその後1週間ほど街の中にいる中で分ったのは、お天気は毎日、小雨か曇りということであった。

 

(4)

 

 ヴァンクーヴァーは緯度からみれば北海道の北端くらいの位置にある。ところが太平洋の暖流のせいで沿岸部は冬でも氷点下になることはほとんどない。だいたい摂氏5〜10度くらいはある。ただし、雲が多く発生し、朝晩は小雨混じりの毎日である。春から晩秋までは街全体が自然の緑豊かな穏やかなすごしやすい街である。

その年の訪問は初めてのことであったので、観光客という視線で一通り街の様子をうかがうことにした。観光ガイドブックには必ず掲載されている街の史跡とか名所巡りである。

 

22日はヴァンクーヴァーへ到着すると、JTB側でアレンジされたホームステイの現地担当者ジムが学生たちをノース・ヴァンクーヴァー地区の一般家庭に二人一組づつ送り込んだ。わたしはこの約1週間の短期滞在の間は学生からは離れて独りでホテル住いの身である。英語学校のようなところに学生一同が集まるという機会もないため、学生たちといっしょになってなにかをするということもなく、独りで街の中を歩き回ることができた。

わたしの滞在したホテルはシェラトン・ランドマーク・ホテル、商業街やウォーター・フロント地域からは少し離れていたが、スタンレー公園を眼下に見下ろす快適なホテルであった。

 

街路は碁盤の目状であるからまず迷うことはない。交通量もそんなには多くないから歩きやすい。しかし、多少距離はあるから私は翌日23日からの市内見学ではレンタル・バイスクルを使うことにした。ホテルの近くにレンタルショップがあり、丸一日借りて約1,500円だから特に高いというわけでもない。それを借りてライオンズ・ゲート・ブリッジやスタンレー公園を周遊することにした。ヴァンクーヴァーの街は見所はダウンタウンに集中しており、歴史的に見ても史跡に恵まれているという場所でもない。ガスタウンという地区がそもそも街の発祥地ということでギャシー・ジャックという人物の銅像が建っている。路の両脇に建つ建物は少し古めかしいが、せいぜい100年くらいしか経っていないからローマやパリを歩くのとは訳が違う。ガスタウン一帯にはいわゆるお土産屋さんが林立しているだけである。土産物品としては北西海岸インディアンの質の低いお土産用工芸品(まがい物のトーテムポール、仮面など)やプリントTシャツ、動物の毛皮製品、イヌイットのカウチン・セーターなどである。どの店も皆同じようなものしか扱っていない。北西海岸インディアン諸部族の博物館収蔵レベルの芸術作品は本格的なギャラリーに行かなければ観ることもできないということは翌年になってわかった。

蒸気時計のある旧市街の古い建物は高さも3,4階程度にそろっており、シンプルなつくりのものが多い。ウォーター・フロントと呼ばれる海に面した新開地にはモダンなデザインの建物があり、高層ビルもある。ビジネス・商業地域である。いわゆる中心街は完全にウォーター・フロント地区にある。ヴァンクーヴァーは太平洋に面してはいるが、直接荒海に面しているのではなく、間にヴァンクーバー島というとてつもなく大きな島がちょうど堤防のような形で存在しているので、波はほとんど立たず穏やかな港町となっている。

 

観光客にとってスタンレー公園はある意味でヴァンクーヴァーを代表する訪問地である。ほかには訪れるような価値のある史跡はほとんどない。スタンレー公園は都市に隣接する自然公園としていかにもカナダらしいという公園であるが、公園の散策などに興味を感じない人にとってはまったく何もない街ということになるだろう。公園の中にはトーテムポールの実物が立っている。おもしろかったのはナインノクロックガン(9時になる大砲)だ。カメラノフラッシュに反応して鳴ってしまうかもしれないから注意と記されていた。それは市制100年記念に修復展示されたものということだ。他には水着姿の女性像が海の中にマーメイド像のように建てられたりしているが、外国人観光客としては一回見学してしまえばもうたくさんというのが正直なとこだ。

 

公園は海に囲まれており、サイクリングロードや遊歩道が整っているからこの街に住み、健康維持のためにサイクリングやジョッギングをする健康志向の人には使い勝手の良い公園だ。公園の中には杉(レッドシダーやヒマラヤ杉)の大木が林立している。またビーバー湖と名付けられた天然池(湖にしては小さすぎる)もあり、景色は自然のままであるところが「売り」の公園だ。この公園にはリゾート・マンション風の高層マンションもあり、住居環境としてはかなり恵まれたところだ。東京で云えば、新宿御苑公園とか明治神宮公園のなかに住居があるというところだ。

スタンレー公園だけでは物足りなくなり、バラード橋を渡ってブリティッシュ・コロンビア大学(U.B.C.)へも行ってみた。UBCへ向かう途中は日本流に言えば第1種低層住宅地区のような感じの住宅街がつらなっており、とても住居環境は落ち着いた感じで、それぞれの邸宅が個性的な家であり、ゆったりとしたスペースを持っていた。家の前には20m幅くらいの芝生の緑地帯があり、その先に自動車道路が走っているという街づくりでなんともうらやましい限りであった。

ヴァンクーバーの良さというのはこの自然環境に恵まれた住宅環境なのではないかと思った。

 

UBCは西海岸(太平洋岸)ではもっとも大きな公(州)立大学である。カナダには大学は少なく、その希少性は高い。この時期クリスマス直前ということもあってか、キャンパスは閑散としていた。道路が広く、3,4階くらいまでの低層校舎の建物と建物の間が広く、とにかくだだっ広い。キャンパス内を市バスが通っており、このあたりの環境はアメリカの州立大学とよくにている。ゴルフ場も付設されているということだった。

キャンパス内には文化人類学博物館もあったが、この年は中にははいらないままであった。まだ文化人類学には関心はなかった。ただ、そのデザインに興味を感じていたので、大学の生協で北西海岸インディアン芸術にかんするパンフレットや書籍を見つけ、それらを購入し、学生の交流プログラムが終えるまでの間に読んでみることにした。そうしたことがきっかけとなって、後年インディアン木工芸術作品に対する関心を深めていくことになったのだ。

 

(5)

 

ヴァンクーヴァーの冬の夜は早く、夕方4時を過ぎると暗くなり、4時半を回る頃には真っ暗になってしまう。季節柄街の中にはクリスマスのイルミネーションが建物のいたるところに電飾として飾り立てられていた。  

その日、夜、JTBのベテラン女性添乗員のTさんと一緒にノース・ヴァンクーヴァーにある海鮮レストランに行くことにした。水上バス(Seabus)と呼ばれる市民の足となっているフェリーボートに乗って行った。それなりの評判のあるお店であるということであった目指す海鮮レストランはイタリアン・レストランであった。私は中華的な海鮮料理のレストランを期待していたが、出てきた料理は小海老(シュリンプ)とフライの魚が入っているだけで後は普通のソーセージとかポテトそれに青野菜といった感じで味付けはすべて同じという「ハズレ」の料理店だった。量はたくさんあったが、二人ではとても食べきれないほどだった。おまけに私は魚の骨(多分)が喉に刺さったらしく、痛いので不機嫌になってしまった。そこへ行くとTさんは偉い。「こんなハズレがあったり、思いもかけない『あたり』があったりするから旅はおもしろいのよ」と全然気にしていない。200回以上も海外添乗をしているという彼女はやはりすごい。

食事が終わった後はスカイ・トレインに乗ってみた。別に特別の乗り物というわけではなく、郊外は地上高架を市内は地下鉄で走っている電車である。駆動装置が車体の真中で回転し、2本のレイルの真中に敷かれたコンクリート製の軌道上を回転しながら走る電車である。

地下鉄駅は結構深いところにあるらしく、エスカレーターがすごいきつい斜度で動いていた。

24日はこの旅行中唯一の晴れとなったので、ひとりでスカイ・トレインを端から端まで乗ってみることにした。市内の地下を走っている時は景色などは全然見えないが、郊外へ出ると高架式になるので比較的高い目線から街の様子を眺めることができるのである。郊外の住宅はいわゆる日本の家屋と同様のポストアンドビーム式のものが多い。お天気も良かったせいか、曇り日には全然見えなかった山々が白銀を被って姿を見せていた。ウエストミンスター駅のあたりなども綺麗な街並みが繰り広げられていた。

 

郊外の景色を眺めてから市内のショッピングセンターに行ってみた。ちょうどクリスマス・イヴということで食料品マーケットなどはかなり混雑していた。ヴァンクーヴァーは港町であるから中華街があるはずだと思っていたが、その通り中華街が旧市街の一角にあった。魚、カニやエビや貝類を生のまま売っている屋台風のお店や漢方薬の瓶詰めなどを並べている姿は世界各地にあるまさに中華街の特色である。

全体清潔な街ではあるが、旧市街を歩いていたら、若者が二人酔いつぶれて路上に寝ていた。ニューヨークなどであれば、地下鉄の換気口の上に暖を取って寝ている姿なのだが、ヴァンクーヴァーは氷点下にまでは気温が下がらないからかジーパンにジャケットといったいでたちでそのまま寝ていても凍死はしないで済むらしい。ごく例外的な若者のくづれた姿であった。

 

25日のクリスマス。街は静まり返っており、店舗もほとんどが閉店であった。私はUBCで購入した西海岸インディアン芸術の本を読んだりしながら、一日のほとんどをシェラトン・ランドマークで過ごした。そこで少しづつインディアン芸術への素養を身につけ始めるようになっていた。そのせいで、私は26日旧市街のあるところで臨時的に貸し店舗のようなかたちでインディアンの自立化支援策の一環という作品展に出くわした。(関心が行くようになっていた)そこで、うろ覚えの図案にあったような図柄の入ったカヌーの木製パドルを見つけた。芸術作品の理解には現物を手にしてみるのが一番の早道だ、と思って1万円くらいだしたが、本物のカヌー用パドルを買ってみた。その時、店にいた人はこれはオルカ(シャチ)と鷲と狼を組み合わせた模様であり、有名な誰かの(聞いた当時はすぐに忘れてしまっていたが、後に研究して分ったのはロバート・ディビッドソン)作であると説明してくれた。私はその時は何も知らなかったのでその説明に対して何の疑問も感じないままであったが、後に分り始めるにしたがって、それはいわゆるディビッドソンの作品の「写し」(模倣品)であるということが分った。本来ならば著作権侵害にもなりかねないところなのだろうが、当時はインディアンの自立的生活支援ということが優先されていたようだ。このパドルは実用品として使えるものであったから、大きさもそれなりであり、運ぶのに少々邪魔であったが、自宅まで記念のお土産として手に持って運んできた。

 

(6)

 

27日午前中に各ホームステイ先に滞在していた学生たちがコーディネータのジムに引き連れられて戻って来た。誰も問題もなく家庭滞在を楽しんだということであった。もし、不都合が生じたときには随時わたしの方へ連絡が入ることになっていたが、ジムからは何もなかったので、あまり心配はしていなかった。

一同全員が無事再会した後、空港までのバスの間、友達同士お互いに滞在していた各ホームステイの状況を確かめ合っていた話を聞いても、悪い話はなかったので安心した。

 

公務ということを離れてみたとき、この最初のカナダ訪問でUBCの生協で北西海岸インディアン芸術にかんする小冊子や本を目にしたことが、レヴィ・ストロースの西洋中心主義への懐疑、野生の思考などへの関心と共に、後の翻訳作業や一通りの博物館学芸員的な研究を生むこととなった。それからの5年間、私のカナダ北西海岸インディアン芸術の研究が集中された。

 

<了>

 

 

第2回研修

 

(1)

 当初は、第2回目の様子を独立した稿として記述しようと考えていたが、どういうわけか、この時の資料はただ1冊の写真アルバムだけがあるにすぎない。本宅の方を探せば当時の資料となるものが出てくるのかもしれないが、記憶に於いても、ただ一つのことばかりが頭に残っているだけで、ほかの事は写真を見てもあまり鮮明に覚えていない。

 

写真も、成田の空港チェック・イン・カウンターの一枚の写真の次はもうウィスラーのスキー・レンタル・ショップの料金表が写るところへととんでしまっている。ヴァンク^ヴァーへ入ったときの様子とか、前年と比較しての感想とかも記されてもいない。記憶もない。多分、あまりにも変化がなく、前年と同じような姿であった故にすーっと何気なく万事が過ぎていったのだろう。

 

写真として残っているのはウィスラー・スキー場のものだけではなく、対を成すスキー場のブラッコム(Blackcomb)のものである。スキー場としてはブラッコムのほうがおもしろかったからかもしれない。

 

さて、一日目はウィスラー・スキー場で滑った。学生たちはこの年も前年同様カナダ人インストラクターにつき、初心者と経験者に分けてすべりを楽しんだ。前年の経験でウィスラーの様子もある程度つかんでいたので、午前中は独りで中腹に位置するいくつかのゲレンデを滑って楽しんでいた。この年のほうが前年よりも降雪量は多かった。学生たちが午前中のスキー・レッスンを終えた後、みんなで一緒にお昼ご飯をとった後、希望する学生たちとウィスラーの山頂から滑ることにしてリフトに乗って山頂に向かった時、その事故は起きた。

スキー場の設備は全体としてよくできているのだが、つまり、大量のスキー客に待ち時間でストレスを与えないようにしているせいか、スキーリフトは二人用でもゆったり大きく、スピードも速く動く。日本のスキー場のリフトは乗降場へ来るとリフトは空回りをしながらスピードがゆっくりと落ちて乗り易くなるし、座席が体に当たることもなく手でつかまりながらスムースに乗ることができる。降りるときにも座席と着地点との高さの差はほとんどなく自然に降りられるのが普通だ。

ところが、ウィスラーでは違った。乗るときも降りるときもスピードが大して変わらなく、リフトは動いている。バーの部分が体にぶつかったら痛いしなぁ、などと乗るときも身構えてしまう。リフトへ乗ってしまえばあとは快適そのものだが、慣れない人には結構怖い高さを動く。雪の積もった斜面ではなく、雪のない岩場の瓦礫がむき出しになっている、下を見るとちょっとスクムような高さのところも超えてリフトは動いている。風が吹いたりするとユラユラと前後に座席が揺れたりする。慣れない初心者は体が硬くなってしまうところだ。そして山頂部の降車台へ来た時に戸惑うのは、座ったまま静かにリフトから離れることができず、着地点が狭く、そこで降りたあと、ゆっくりとゲレンデへ滑り降りることができなくて、飛び降りるように降りないといけない造りになっていることだった。あらかじめそういうものだと思っていれば、身構えて降りればよいので、別にどうと言うことはないが、目の前が休に何メートルも落ちて行くように見える降車台では、一瞬降りることを逡巡する人がいても不思議ではない。

このとき降りるのを躊躇ってしまうとスピードの変わらないリフトに乗ったまま下まで戻ってしまうということになる。そこであわてて降りようとするとバランスを崩して降りるというよりは落っこちるという体勢になってしまう。

降りるときには少し大袈裟に言えば、3mくらいスキー板を履いたまま飛び降りるような心づもりが必要になるのだ。慣れてしまえば、要領がわかっているから、対応できるが、突然眼の前の斜面が消えるような景色に遭遇した時には慌てる。

私は自分がウィスラー山の山頂に立って遥か遠くに太平洋が見えているような絶景を味わってリフト乗降場へ戻ってきたときのことだった。そのリフトから降りる心の準備ができていない女子学生がキャーっと悲鳴をあげながら、どすんと前のめりの姿勢で体をくづし斜面に落ちて行くのを目撃した。斜面はみんなが滑り降りているから踏み固められてアイスバーン化している。彼女は7,8m滑り落ちて行った後、独りで立ち上がった。最初は姿勢はくづれてどこかぶつけたくらいで済んだかな?!という感じだったが、立ち上がってからの体の動きと言動がおかしい。よろめくような動きもあり、傍によっていって大丈夫か?と問うたところ、口の利き方がおかしい。目の焦点も合っていない。「大丈夫!大丈夫!すいません!すいません!」と言う、というよりはわめいている。早口すぎる。それに意味不明の前後のつじつまの合わないことを続けて言っている。問われないことに何かを言っている。顔を見るとやはり視線がノーマルではない。すぐに医者を呼ばなければ、と思ったが、そこには係員が一人いるだけで救護室も何もない。とりあえず、安静にするように言って、スキーをはずし、体を抑えていたが、なにか独り言を言い続けている。どうも前から転び落ちた時に前頭部をアイスバーン化した斜面に打ちつけたらしい。意識が数秒間でも飛んだようだ。「私どうしてここにいるんですか?」などとも言っている。「ここがどこか判る?」とか尋ねても返事に要領がない。頭を打っているようだからここのまま放置しては置けない。10分くらいだろうか、少し安静にしていたら早口でしゃべることは止まりだした。「すいません」とかは繰り返している。

 周りにいた学生たちにわたしは、彼女を連れて中腹にある救護室に行くからと告げ、彼女のスキー板や持ち物を分担して持ってくれるように頼んだ。乗降場の係員に彼女を下りのリフトに乗せるからリフトを止めてくれと指示するように頼んだ。彼女の動きは一応普通のようではあったが、なんとなく一人で歩くには心もとないから手を肩に回すようにさせ、リフト乗り場まで運んだ。リフトへ乗ってから静かに乗っていれば良いが、正気を失っていることで途中の岩場の上空で暴れたりしたらどうしようと心配になったが、良い塩梅にリフトの足元を見ないようにして、私のスキーポールを使って彼女の体を囲むように抑えて、下のリフト乗り場まで降りた。

 

救護室はリフト乗り場に隣接はしておらず、そこからさらに3,400m降りなければならなかった。係員は連絡を取って下で救護隊員が待っていてくれると思ったが、誰もいなかったので、再度連絡依頼をしたあと、わたしは彼女を背負って救護室まで滑り降りて行くことにした。斜度はそんなになかったが、重い人間を一人背負って滑り降りる経験はしたことがなかったので、結構きつかった。一挙に滑り降りることができるほどのスキー力はなかったので、斜滑降を入れながら少しづつ少しづつ降りて行った。彼女は「先生、スイマセン、スイマセン!」ばかり言っていた。そんな姿で100mくらい降りて行ったら、下の向こうからスノー・バイクに跨った救助隊員が上がって来た。彼女を後部座席に座らせるとそのまま救護室に降りて行った。その後を私はスキーで追って降りた。

救護室に入ったら日本人の医療担当者がいたので、状況を説明した。しばらく待つように言われたので、救護室の一室で待った。結構、脚をくじいたとかいう客がいた。2,3分くらいしたら、日本人スタッフと一緒に彼女も戻ってきた。軽い脳震盪を起こしていたようだが、目の検査などでも異常はないし、安静にして今晩一寝すればノーマルに戻るから大丈夫でしょうとのことだった。本人も大分落ち着いたらしく、うわごとを繰り返すようなことはすっかりなくなっていた。

 

そこで、麓のホテルまで戻り、部屋で静養させた後、わたしはまたゲレンデへと戻った。結局その日はあまり滑ることもなく、終えた。

幸い、その学生は翌日にはすっかり元通りになったが、大事を取ってスキーはしないことにさせた。

 

翌日は昨日は行けなかったブラッコム側へ経験者グループの学生たちを連れて行ってみることにした。ソーラー・コースター・エクスプレスの到着点であるランデヴー地点からは、天気も良く空は青く、下には雲海が広がるのが見えた。グレーシャー・クリークなども滑り、さらに7thヘヴン・エクスプレスへ乗りホーストマン・ハットという地点まで上がり、さらにTバーとういリフトで断崖絶壁のあるグレーシャー・コースへとあがり、稜線伝いに滑っていった。このグレーシャー・コースは稜線のどこからでも滑り降りることができる。つまり、ほとんど垂直の崖を飛び降りる感じのスキーもできる上級者コースであったが、稜線に沿って滑って行く限りは特別高度のテクニックも要らずに、滑り降りることのできる、日本にはないコースという感じの楽しいコースであった。

わたし個人の感想としてはウィスラーよりもブラッコムのほうが楽しいという感じがした。

 

(2)

さて、そんなスキー場でのヒヤッと体験があったが、ホームステイは前年と同じように学生たちはそれぞれの滞在先の家庭でカナダのクリスマス・シーズンを楽しんだ。私はまたシェラトン・ランドマーク・ホテルの一室に滞在し、ヴァンクーヴァー市内を見学していたが、昨年の訪問の際いわゆる観光地は大体見てしまったという感じでいたので、この年は自分の関心に沿って市内のインディアン芸術作品を扱うギャラリーをもっぱら巡回していた。つまり、前年、ブリティッシュ・コロンビア大学のブック・ストアーで購入した何冊かの北西海岸インディアン・アートに関する関心に沿って、それらの現物を見ることに関心を抱いていたのである。

 

このインディアン・アートについては別稿で詳述するが、わたしが訪れた当時のカナダの北西インディアンたちの様子は次のようなものであった。

 

まず、インディアンという言葉についてであるが、今日ではその呼び名をFirst people ファースト・ピープル=先住民と呼ぶようになっている。U.S.A.においてもそうであるが、インディアンという呼び方はある種の差別的な響きを持って使われており、いわゆる西欧人の価値観から一方的に見た呼び方である。

このインディアンという呼び方はこの1990年代初期に於いてもまだ使われていたが、徐々にファースト・ピープルという言葉が広がり始めていた。

 

われわれ日本人はカナダ人インディアンというとエスキモーという言葉を思い浮かべるが、これも今日ではイヌイットと呼びかえられている。こちらは1990年代初頭にもすでに定着していたようであり、ヴァンクーヴァー市内でもイヌイットという言葉が一般的に使われていた。 

一口にインディアンといってもそれはあまりにも多くの種族を含んでおり、部族的にも、人種的にも多様すぎてその語一語で表せるものは何もない。イギリスからの移民入植以前にユーラシア大陸から2万年から1,5万年前に渡って来ていた人々をヨーロッパ人がインド人と思ってそう読んだというだけのことである。住んでいる地域によって文化、生活習慣は異なるし、気質も多様であり、北米大陸の東側、中央部、西側それに北部、南部によってそれぞれの特徴がある。

そのうち、カナダ太平洋岸、つまりアメリカから見て北西部に位置する地域に先住していた人々を北西インディアンと呼んだ訳である。

 

便宜上、しばらく北西海岸インディアンと呼ばれる人々、部族も一様ではなく、主にノトカ、湾岸セイリッシュ、クワギウル、ハイダ、ツィムシアン、トリンギットという6つの部族から成り立っている。

この北西海岸地域は暖流の影響で、また大きな島の地形的な構造上、海の幸と森林に恵まれ、飢えを知らない比較的住みやすい地域である。海には豊富な魚がおり、特に鮭が河を遡上し、産卵する地域である。また暖流の影響で多雨地帯であり、杉の大木が大森林をなしている。こうした自然環境が独特の文化や生活様式、用品を作り出すこととなった。その芸術品の典型がトーテムポールである。トテームポールの祭儀的な意味は専門的になるが、杉の大木に彫られた熊、カラス、ビーバー、カエルなどには部族の霊とのつながりが見られる。各部族は熊族とかカラス族というようにクランを持っている。そして木彫は原則左右対称に彫られており、これが平面芸術に於いても図案の特徴を作っているのである。またsの図案の文様には独特の形、オーボイド(樽型)、U字型、縦割りU字型、S型などの一定の部品的なデザインの組合せによって動物や昆虫、鳥、などが描かれている。それらは今日では絵画や版画作品として販売されてもいる。

また、それらのデザインは日用品の中に描かれたり、彫られたり、家の壁に描かれたりもしていた。あるいはまた木工品(皿、箱、スプーン、赤子用のお守りおもちゃなど)にも彫りこまれていた。現在ではそれらはジュエリー(銀製ブレスレットやペンダントなど)にも応用され、工芸作品やお土産品となっている。

部族の住処に建てられていた祭礼上の意味を持つトーテムポールは今日ではほとんど制作されていないが、世界的な企業の注文に応じてミュージアム・ピースとして制作されることはある。

 

というようなことを前年購入していた何冊の書籍を介して知っていた私はこの年、その書籍の中で比較的初心者にもわかりやすいガイドブックであるヒラリー・スチュワート著「北西海岸インディアン芸術を観る」ダグラス・マッキンタイヤー社刊行をもっと知らしめる必要があると考えていた。

それは単純に、カナダの人々の芸術作品が日本では全然知られていないし、もと知られてよいと思ったことにも理由はあったが、少し、深く考えると、ヨーロッパ中心的な絵画観以外にも芸術作品として扱える工芸品や絵画は世界中にあり、特にある意味で西洋絵画の最先端を行く巨匠ピカソの絵画観を、遅れている人種と偏見視されているインディアンの人々が無意識に先取りしている、ということが言えるのではないか、そのことに気がついているのは西洋人ではレヴィ=ストロースだけではないのか、という問題意識、即ち、西洋中心主義から文化相対主義へという関心をこの1年間の間にもつようになっていたからであった。

 

そんな背景意識の下に私は2年目のヴァンクーヴァーでは本物の北西海岸インディアン芸術作品の見学と出版社ダグラス・マッキンタイヤー社訪問を自己課題としていた。

 

ヴァンクーヴァー市内にはトーテムポールのお土産屋さんはたくさんあったが、本格的な芸術作品として作られている作品は画廊(ギャラリー)にあることが分って来ていたし、いわゆる高名な作家の作品はそうしたところにしかないことが分りはじめていたので、それらの場所をできるだけ訪問してみることにした。

 

日本でいえば、銀座の日本画画廊巡りのようなことをした訳である。といっても1990年代のカナダは日本のバブル経済などと違って、絵画を商売している画廊などはほとんどなかった。しかし、カナダの国宝級作品の扱いを受けている作家、たとえば、ビル・リード(Bill Reid)、ロバート・ディヴィッドソン(Robert Davidson)などを扱っている画廊がいくつかあった。後から知ったことだが、1990年代あたりからこうした北西海岸芸術を商売として扱うことが文化政策、生活支援運動としても推進され始めた時期であった。

 

そんな訳で私はいくつかの市内の名門ギャラリーを訪れては彼らの作品を見せてもらっていた。その時に自分で書きとめた資料として記した値段をみると太鼓や仮面などの木工品は50万円くらい、版画などは20万円くらいとメモってある。果たしていまではそれらはどれ位しているのだろうか?トーテムポールは直径1mくらいの木に彫刻して彩色して行くのだが、ごく平均な作家の場合、高さが1m伸びて行くに連れ、大体10万円/1mだということだった。だから高さが15mくらいのトーテムポールは150万円くらいということになる。しかし、ものがものだけに送料などのほうが高くつくのでは、などと思ったものだ。 

 

私はさらに個人的に研究を進めるために一人でカヌー職人のビリーさんを訪ねたり、ニンステンツの棄村にある18世紀のトーテムポールを訪れたりしたが、これについては別稿に譲ろう。

 

ということで、この2年目の研修旅行も無事終了した。

 

<了>

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