1984年のアリゾナ研修

魁三鉄(永橋続男)

 

 (1)

 前年のこともあり、また私が4回目の研修引率者となった。この時は仕事振りはもちろんまじめそのものなのだが、結構私のいい加減さに対して寛容であったH.N氏そしてどちらかというと私に近いタイプの故A氏が引率者として同行を命じられた。

 故A氏はセミ・プロのVTRカメラマンであり、同行取材を兼ねての参加であった。当時のYTR機材は重量もあり、持ち運びはもちろん、アメリカ国内への持ち込みもカルネとかいう届けを出したりする必要があり、面倒であった。

 研修旅行中のめぼしいシーンを撮影し、学内用、学外用の宣伝ビデオとして後に編集するのが彼の役割であった。重い機材を担ぎながら、また学生たちの補助をうまく受けながら、その重責を果たしてくれた。

 まじめ一本のHN氏も学生からは慕われており、全体としてはとてもうまく行った。

 

 (2)

 この年は前年までと同じコースではなく、違ったコースを取りながら行こうという提案をJTBに出し、シアトル経由でツーソンへ入ることとなった。ツーソンも国際空港化へ向けて毎年増改築を進めており、このころには発着便数も大幅に増えていた。

 また帰りもツーソンからシカゴへ飛び、そこからナイアガラの滝を見たりして、ボストン、ニューヨークへ寄るというようなコースを採ることにした。このコース取りは人気が高く、また100人近い参加者となった。

 私もアメリカ北東部への旅は初めてであったので、とても楽しみであった。研修よりも前後の観光旅行部分を楽しみにしていた、という按配であった。

 

 4度目の研修も特に問題や事故もなく終わった。ツーソン滞在中には初めてレンタカーを借りて、ノガーレスまでドライブした。運転は故A氏がした。私は運転免許を持っていなかったので、あまり実感はできなかったのだが、A氏によれば、「えらく燃費の悪い車だ」とぼやいていたのをおぼえている。確かに満タンに容れたガソリンが1時間くらい走るうちに3分の1くらい減っている。「これじゃ、ホンダに敵うわけないよ」としきりにぼやいていた。もっとも、ガソリンを入れた時、その安さに驚いたものだが……。

 

 シアトルではタコマ富士と呼ばれた高山の美しさが印象に残っている。学生はたしか、ヴァンクーヴァーへも日帰りバス旅行をした。私はその時、政治的理由でカナダへ入れなかった北朝鮮籍の学生と飛行機酔いと時差ぼけの関係で体調を崩してしまった学生の面倒をみる役割を引き受け、彼らの体調を見ながら、シアトル市内の主だった観光名所やワシントン大学キャンパスを訪れた。

ワシントン大学もキャンパスは大きかったが、起伏のある丘に建物がけっこうくっついて建っていたような記憶がある。分りやすい建物配置はなんといっても
UofAだった。碁盤の目そのものの配置であったから。
 シアトルの街   機窓よりセントヘレナ火山

 

 (3)

 既述のとおり、研修は前年とは異なり、二人の同伴者の助けもあり、また前年に引き続き3年目の日本人コーディネーターのY.T嬢の献身的な助けのよって恙無く終わった。

 研修後、われわれは北東部へ向かった。最初に着いたのはシカゴである。シカゴは実質的にはトランジット、つまり一時滞在所であった。飛行機の便との関係で、ナイアガラ・フォールズに都合の良い時間帯に到着することができないので、シカゴのホテルで宿泊するということになっていた。

そんな旅程であったから、シカゴに着いたのは夕方であり、空港からバスでホテルまで直行になった。したがって、シカゴの現代的なビルの林立する中を走っただけで、特別の観光名所を訪れたわけでもなかったのでほとんど街の記憶はないところとなった。おそらく学生にとってもシカゴはそんなところであっただろう。

 ただ、我々、引率者たちはこの街の夜を楽しんだ。これはJTBが招待するということで我々を連れて行ってくれたのだが、そこはPLAYBOY Clubであった。今日ではあまり、バニーガールの姿はあまり見かけないし、特別のブランドという感覚はないようだが、当時はプレーボーイ・クラブはある意味ではアメリカ文化を代表するものの一つとして、ちょうどディズニーランドがアメリカの子供用ファンタジーワールドというならば、洗練された大人の癒し場、そして「いい女」のいる夢の場所とでも言うような大人、特に都会的センスの青年から壮年までの「天国」であった。日本にも銀座だか、六本木だかにアメリカの直営店とかのクラブがあったような気がするが、そのあたりは疎いので良くはしらない。

 PLAYBOYはシカゴが発祥の地ということらしく、その発祥第一号店へと招いてくれたというわけである。私はPLAYBOYという雑誌のイメージでかなりきわどいヌード姿の女性がいるのかな、などと期待?していたが、店の中は静かに落ち着いており、背の高い金髪をした黒い網タイツにタキシード姿をしたまさにバニーガール姿の女性たちがサーヴィスしており、なにかきわどさや怪しげな淫靡さはまったくなく、洗練された社交場そのものであった、と記憶している。

ただ、その時、カメラを持たずにいったのか、写真はない。写真があったとすれば、きっとでれっとした顔をして「美女たち」と顔を並べており、それを帰国してから自慢げに見せたら、「たるんでるわ!」とその写真でビンタを食らっていたか、それとも「私も負けないわ」と口では言いながら、お化粧と姿態を艶にして身をにじり寄せたか、どちらだったろうかな、などとふと思う。私は妻の中に
M.モンローの姿をみることがあったから。

 

 (4)

 ナイアガラフォールズへはシカゴから飛行機でんだと思う。

 ナイアガラの滝はやはり迫力があった。滝の上からも、下からも(マーメイドオブミスト号)見たが、私にとって魅力があったのは滝の落ち際の岸壁から落ちて行く青緑色(エメラルドグリーン)がかった水流の美しさだった。滝の下は水爆の水煙によりほとんど見えないので恐怖感はなく、その水流が岸壁の縁をはっきり、くっきりと見せながら水平のエスカレータのようにスムースに流れ落ちてゆくのが眼の前5mくらいのところで見える。

なんとも美しく魅力的で、思わずその水流の上にふっと飛び乗りたくなるような衝動につよく襲われた。終日見ていても飽きない光景であったが、それだけ見入ってしまうと、周囲がまったく眼と頭から消えてしまって、本当にそのまま水の「上」に乗ってしまうかも知れないところだった。

           

 滝のある場所はカナダとの国境であり、私はカナダ側へも入ってみた。来る時にヴァンクーヴァーには入れなかったので、ここで初めてちょっとだけカナダに入った。そのときの印象は路から街の造りに至るまで一回りアメリカとは小さい快適さであった。日本よりは広く、大きいが、アメリカほどのだだっ広さとはちがう感覚に快適さを感じた。カナダといってもそこは都市部であったからそうなのであって、人の少ない地帯へ行くとカナダもまただだっ広いことは後年知ることになったが……。

 ナイアガラフォールズに行けたこの年の学生たちは短日ではあったが、ともかくも自分の眼でこの世界を代表する巨大なる光景を眼にすることができた。

 一行はそれからボストンへと向かった。

 

 (5)

 この紀行文を整理している今、ボストンといえば、思いつくのは日本野球界の代表松坂大輔投手とその所属するチーム、ボストン・レッドソックスを思い浮かべることが多いが、我々にとってはともかくも「語学研修旅行」ということもあり、また将来、アメリカへの留学を希望する学生への刺激という狙いもあって、ボストンを宿泊地にしたのは、ハーバード大学、ボストン大学、そしてMITなどと、錚々たるアメリカを代表する大学があることが理由であった。もっとも、学生たちにとってこれらの大学への進学希望者は皆無であったのだが。
                   

 それでも学生たちは各大学のキャンパスに行って、学生購買店へ入り、カレッジ・グッヅであるロゴ入りのTシャツや文房具などを買って青春の記念品としていた。語学系学部の大学設立に向けて学校全体が準備に入っているころであり、それだけ「大学」へのあこがれ、思いが学校を挙げて盛り上がり始めた頃のことであった。

 

 (6)

 こうして学生たちがボストン市内をめぐっている間に私はひとり学校からの指示を受けて、ニューハンプシャー大学というニューハンプシャー州にあるこじんまりした大学を表敬訪問した。その大学(college)とは語学プログラムの交換提携をしており、また交換学生の派遣なども始めていた。大学の要求する英語力を有する学生は極めて少なかったが、数人の学生が在学していた。

 私は、自分のいる専門学校を代表して学長一族への表敬訪問をしに行った訳である。当時、ニューハンプシャー州は消費税率がニューヨーク州よりも低いということで、多くの買い物客が乗用車で買出しに来ている姿があった。車の後部トランクをロープで押さえながらたくさんの荷物を運んでいる自家用車を何台も見た。

 ニューハンプシャー大学はこじんまりした大学であったが、一応文系・理系のある大学という位置づけであった。(WEBではUniversity of NH が検索によってニューハンプシャー大学として出てくるが、これらの建物とはちがう大学であったような気がする。現存しているのだろうか?)

 大学の理事長と学長がキャンパスを案内してくれた。業務としてはあくまでも交換プログラムを開始した後のことで、「今後も相互に友好的にプログラムの発展に努めましょう」という挨拶交換であった。

 その後この大学との提携はいつのまにか立ち消えになったようである。詳しいことはよくわからない。

 

 (6)

さて、ボストンからニューヨークへはあえてバスで行くことになっていた。北東部海岸沿いにアメリカの建国史にちなんだ名所旧跡があるのでそれらに立ち寄りつつ、ニューヘブン経由でニューヨークへと入った。

メイフラワー号で初めて上陸、入植したプリマスではメイフラワー号(レプリカ)を見たが、私は初めて大西洋の海に手を浸して、太平洋とは異なる海に触れた、と妙な感激の仕方をしたものだった。
        

 ニューヨークには夕方到着した。学生たちに治安上の注意をした後、翌日のバスによるニューヨーク市内観光までの間を自由時間として、束の間のニューヨークを楽しむことにした。団体客の宿泊するホテルは大体がミッド・タウンと呼ばれる地域にある。タイムズ・スクウエアなどの繁華街にも歩いて5分もかからないようなロケーションであるから、夜遅くまで遊んでいても人通りのある路を歩いている限りは問題ないと判断して、深夜まで自由行動を許していた。

わたしは何人かの学生たちからミュージカルを見たいので切符を買いたいが、どうしてよいかわからない、とのリクエストを受け、タイムズスクゥエアの当日券売り場へ案内し、当時大人気の「キャッツ」を見た。幸い、人数分切符も手に入ったが、なにしろ「席」のロケーションが悪い。それでも40ドルくらい払ったと思う。約一万円であった。

座席は悪かったが、本場でキャッツを見ることができたというのはやはり、良い思い出となった。満員の客席の一番遠い片隅の席であったが、ニューヨークで見ることができた、というだけでなにかすごいものを見た様に言われる時代であった。一緒に切符を買うことができたときには学生たちは小躍りして喜んだし、実際の舞台を見てからも、とても興奮していた。

私は筋立てとかを事前に調べていなかったし、「メモリー」以外は曲も知らないものばかりでちょっと苦しかった。英語もところどころしか分らなかったし……。でも雰囲気はなかなかのものだったから満足はした。

結局ニューヨークでの自由時間は「キャッツ」でほとんど終わったが、一区間だけでも地下鉄に乗ってみようと試みた。

なるほど、うわさに違わず、電車内は深夜にもかかわらず混んでおり、車体にはペイント・スプレーで殴り書きしたグラフィティ満載という状況であった。乗客は黒人も多かったが、結構金髪女性も乗っていた。車体もこわれかかったシートなどそのままの状態で、要するに「荒れた」感じがすべてにした。一区間だけ乗って帰りはその上の路上を歩いてタイムズスクエアまで戻り、ホテルに戻った。しかし、その時はタイムズスクゥエア付近しか地図が頭に入っていなかったので、後では自分はいったいどこへ行ったのか分からなかった。

翌日のバスでマンハッタン島内を一周した時もほとんどは車窓からの眺めであったので、一つ一つの名所は覚えていなかった。覚えていたのは、国連本部とウォールストリート界隈、そしてあの9・11で攻撃された世界貿易センタービルだけである。WTCからニューヨークを一望すればそれでニューヨークの全体が見えたような気になったものであった。(もちろん錯覚なのだが)

しかし、現実にWTCビルがなくなってしまった2009年の現在からみれば、そこからの景色は一つの記録としての意味を持つことになるから貴重な写真となった。
            

 

その日の朝、―私はどこへ行っても朝早く繁華街を歩いてみるのだが― ホテル近くのわき道を歩いていると甘く身を惹くような匂いが路上のどこからか、漂っている。香りが強い方へと身を寄せて行くとほとんど浮浪者体の姿の男女が2,3人かたまって路上に寝転んで線香のようなものを焚いたり、口の中を紅くしている。はは、これが麻薬なんだと見極めながら急いでそこを立ち去ったが、その頃はいたるところとまでは言わないが、結構こうした男女が俗にいうヒッピースタイルで平然と麻薬を吸っていた。恐らくニューヨーク全体が腐敗していた頃のことではないかと思う。

2009年10月に行った時の今は全体としてニューヨークの治安はよくなっているし、地下鉄車両にもいたずら書きはないし、きれいで安全である。そのかわり、人種と言語の多様さとに度肝を抜かれる、という感じである。今のことはさておき、ニューヨークは2泊3日の短い滞在であった。

当時は私は美術にはほとんど関心もなく、MOMAやグッゲンハイムなどにも行くこともなかった。

 

 (7)

 ニューヨークからはロスアンゼルス経由で帰国した。ハワイの替わりにアメリカ北東部を訪れたそのアリゾナ大学英語研修はアメリカ研修という性格をより強く持つこととなった。私としては帰国後の報告でアリゾナ大学と並んでアメリカ北東部への語学研修プログラムを開発することも提案するつもりでいた。

そしてその1,2年前くらいからアメリカも良いがイギリスやニュージィランドといったより落ち着いた国への研修プログラムが実施され、参加者が徐々に増えて行った。

結局、アリゾナ研修は私の引継ぎ終了後、プログラムを終了し、メインは英国研修ということになっていった。 

 

<了>

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