1983年のアリゾナ研修

魁三鉄(永橋続男)

 (1)

 82年の研修リーダーを務めたあと、私は次年度は82年に同行したK.K氏がリーダーを引き継ぐことになり、私の同行はなくなると思っていた。それが諸般の事情から、私がまた引率するということになった。なんとなく耳にした一つの理由として、UofACESL側から「受けが良い」ということであった。あんまり、学生を管理しようという意識が強くない、のが教育的に良い、ということだった。それだけが理由ということでもなかったようだが……。

 私は、家庭でも、大学でも自由放牧型に育っていたので、徒弟的な上下関係は苦手で嫌だった。だから、若い女学生の多い職場でも「いい加減な奴」で通していた。

 同僚たちからは、いい加減と思われていても、あまり露骨に非難されなかった。それを良いことに、私は83年の時もそういう方針で行った。

 だが、この年の同伴者たちは対CESL側も含め、外国人と積極的にコミュニケーションを図ろうとするよりは、事故なく無事に帰ってくることが大事という思いの強い人たちであった。日本を恋しがるタイプの同行者であった。

 ツーソンへ入るまでの間にJTBの添乗員さんになにかと小言を言ったり、文句をつけたりしていたので、私としてはちょっと余計な心配をしていた。根がまじめな人たちだったので、「いい加減」が許せない、らしいのだ。

 

 (2)

 大学での研修が始まった。私は最低必要な管理業務以外はしないし、自由放任型のスタイルでいたが、そのうち、なかなか授業に溶け込めない学生たちが普段ならあまり気にならないようなことにも神経質になり始め、不満やフラストレーションが溜まりだし、引率者の二人に不平を言い始めた。

 私は夕方になると決まって学生たちを一緒にテニスをしたり、おしゃべりをしたりして遊んでいた。管理者という意識などほっぽらかして、である。

 プログラムが半分も過ぎた頃である。暗くなった寮のロビーに10数人の学生と同僚2名が私を眼を三角にして取り囲むようにして、「プログラムの途中だが、オレは学生をつれて帰るから、飛行機の手配をしてくれ」という。緊張して興奮しているから顔も青い。暗いから蛍光灯で余計そう見えたのかもしれない。そして学生たちがみんな不平不満だらけだ、と例を挙げて文句を言っている。聞けばいちいち尤もなことも多い。要するにもう少し、うまくやれていない学生たちの面倒を手取り足取りみてやらなければならない、という主張だ。学生たちもそうして欲しい、という希望だ。そういう主張だから、そういえば言いのだが、「オレタチは帰国する」などと結構な剣幕で言うから、売り言葉に買い言葉、「そうか、なら、すぐ帰れ。あとはオレが全部責任とってやるから……」と、強く言い返した。すこし、しらっとして、静かになった。しかし、緊張した空気はあった。すると同僚のF氏は突然「いいよなぁ!喧嘩のつええのは……。何でも言えちゃう。オレはケツの穴がちいせいから駄目だ。帰れないよ」と声を落として私に言った。

 学生たちには、不満な部分はCESL側とも連絡を取って少なくなるように努力するから、と言って引き上げてもらった。学生たちがいなくなってから、F氏は「ごめんな。学生たちの前で……」とお詫びの言葉をくれた。K氏は黙っていた。

 この後もそこに集まった学生たちは満足はできない研修であったようだ。私の前では「よくなった」とか「楽しくなってきた」といってくれた学生もいたのだが……。多分、私に気を使ってのお世辞かバツの悪さを繕うごまかしだったのかもしれない。私は全員を満足させることなどとてもできないとおもっていたから、来年もこの調子なら、頼まれても断ろうと思っていた。

 それから後、万事がうまく行くことになればよかったが、F氏は「ロシアの連中が気にくわねぇ」などと交流会のときも露骨に日本語で言っていたのを、ソ連の研修団の一人が「わたし、にほんごわかります」と一言、私に言った。その時、やっぱり世界は繋がっているな、と密かにおののいた。 

 F氏は研修旅行そのものに意味を見出せない、という意見を率直に私には話してくれた。彼の意見は社会人として受ける英語研修という視点で考えるならば、もっともなレベルとしてもハイブラウの正論であったが、現実の20歳前後の学生たちにはちょっと無理があったように思われた。

 そんなこともあり、F氏が翌年のプログラムを引き継ぐことは無理だ、ということがその時点でCESL側とも話されていた。そのことは東京の学院側にも伝わっていた。それは帰国してからの報告の折、すでに伝えられていたことでわかった。

 

 (3)

 さて、そんなアリゾナ研修も表面上は無事終了した。来年をどうするか、という課題を残しながら……。

 3度目ともなると、いわゆる研修中の旅行の場所もだいたいわかり、飽きてしまった。毎年、UofAの研修の後、ハワイのホノルルに寄っていた。以前にも書いたが、ハワイは日本人観光客も多く、なんとなく気分も緩み、ぜんたい観光に来た、という気分しかない。いまさら何を研修、という感じだ。学生も勉強からは解放されて、羽を伸ばしたがっていた。

 私自身、ハワイこそ研修としては無意味だと思っていたが、気候の良い快適さにすっかり観光客となっていた。

 前年まではおとなしくワイキキからは出ずに、優等生をしていたが、この年3度目のワイキキとなるとなんともおもしろくない。当時は多分まだ「地球の歩き方」というガイドブックは出ていなかったかもしれない。私は公共バスを使ってオアフ島一周をしてみようと思いついた。どうも路線バスの運行地図と時刻表を調べてみると1回か2回乗り継ぎ、うまくトランスファー紙片をもらえば、1ドルで一周ができるということに気がついたからだ。

 学生たちが泳ぎに行っている間、(管理者としては失格!)さっそく、ホノルル市内から反時計回りに一周してみることにした。ひたすらバスで動くだけの旅であるから場所の確認などは当時はできなかった。(後に妻とハワイ旅行をした時に役立った)それでも、いわゆる観光客のメッカ、ワイキキ・ビーチ、ダイヤモンドヘッドの世界とは別の静かなハワイを見ることができた。

    
      

 今、地図を見ると、ホノルル→ハナウマ・ベイ→カネオヘベイ→ポリネシア文化センター→ノース・ショア→ワヒアワ→パイナップル畑→パールハーヴァー→ホノルル という路線であったと思う。写真がどこであるかはわからないが、参考までに付けておこう。

 研修の報告書はそれなりのものを提出するのが常であったが、私的な旅行記という視点からは回を重ねるにつれて見所がなくなった。

<了> 

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