1982年のアリゾナ大学研修引率

魁三鉄(永橋続男)

 

(1)

 第一回目のアリゾナ大学研修を引き継ぎ、1982年、今度は引率責任者としての研修旅行なった。前年はただついて行っただけという感じで、自分の好きなように動ける部分があったが、―といっても、これはリーダーのN氏の、部下の失敗は自分の責任、しかし、部下には許される限りの自由裁量を与えるという度量、寛容度の大きさを持った配慮に拠っていた。私にとっては大変ありがたい放任型タイプのリーダーであった。― 引率責任者ともなるとそうも行かない。ただ、私もN氏のようでありたいと望んでいた。

 新学年度の始まる4月からUofACESLスタッフと連絡を取り始めた。その頃はまだインターネット、emailの使える時代ではなく、封書によるやりとり、そして時に電報を使った。いわゆるコレポン(Business Letter)の形式に沿ったやりとりである。手紙は日本語でしか書いたことのなかったので、最初は主観の混じった文章をタイプ打ちして草稿を書いたのだが、完璧なバイリンガルのA.G氏(当時はそのレベルの人はほとんど見た事がなかったので、しかもタレント的な振る舞いの一切ない地味な方であった。

後には学院長となった方)に見せると、全文が真っ赤になって戻されてきた。辞書にある表現を使ったり、
NHKテキストにある文章をまねしたりして、それなりに通じる英語になっていると思って見てもらうのだが、文頭からいきなり赤線が入って末尾まで全部直されていた。これは直すために直しているのだな、と自分のプライドもあったのでおかしいと思ったが、直された文章を読んでみるとこれがすばらしい。形式においてもレトリックに於いても完璧だ。市販されている模範ビジネス・レター教則本の類とは違うのだ。

わたしにとっては大変勉強になった。その前に在籍した職場は伝統と知名度において一応誰もが「優れている」というイメージを持っているところであったが、一部の世界的に「優れている」業績をあげている人たちを除けば、ほとんどはイメージの世界であることがよくわかった。外の方が実力者が揃っている、と強く思った。当時、A.G氏やN氏も含め、この語学専門学校の何人かの人に対して「真に力のあるものは自らの姿を隠す」という意味のイザヤの預言を強く意識したものだ。

 

 さて、そんなこんなでともかくも責任者として行くことになった。この年、前年の私の立場で引率することになったのは、Y,K氏とK,K氏であった。彼らは共に、積極的に私を助けてくれ、英語によるコミュニケーションを苦にせず、CESLメンバーともよくコミュニケーションをとり、私の責任者としての負担をものすごく軽いものにしてくれた。

 

 (2)

 旅程は前年とほとんど同じ、参加者数もほぼ同じということで、なんとなく気も楽であった。

 途中特筆するようなこともなく、サンフランシスコ、ロス・アンゼルスまできた。そしてこの年もディズニーランドへ寄った。まだ東京ディズニーランドもなく、やはり学生へのアピールという点でパサディナ、アナハイムのディズニーランドは憧れの遊び場であった。引率する側から見ても、治安上問題もなく、時間をもてあますことなく丸一日楽しく過ごせる、閉じられた空間というのは魅力的な場所であった。

 私も前年の経験によって「やはり楽しい、健康的な空間」としてのディズニーランドは好きな場所となっていた。前年時もそうであったが学生たちは友達同士、あるいはグループ単位で自由にそれぞれのアトラクションやエンターテインメントを愉しんでいた。私たち引率者もその立場を意識しつつも自由に遊ぶことができた。

 私は立場上、特定の学生たちとだけ一緒に行動することはできなかったので、学生たちと偶然出くわすことを楽しみながら、一人で動き回っていた。行列にも辛抱強く並んだ。ただ、行列は2列とかで並ぶことが多く、大人の私はときどき合い方を失い、一人ぼっちとなることもあった。隣の席には誰もいないで乗り物に乗ったりすることがままあった。そんな時、−実は、明確な記憶がないのだが― ある場所で一人の男に声をかけられた。

男は野球帽のような帽子をかぶり、黒いサングラスを掛けていた。顔はよくわからないがなんとなく輪郭が猿のような感じだった。背格好は私とたいしてかわらなかったと記憶している。― 私の常として客観的には自分と背丈が同じくらいの人物をじぶんより背が低いと認識する傾向がある― 細身で薄茶色の体にぴたっとしたパンツを履き、
Tシャツのようなかるい格好であった。

私は何かのアトラクションの会場から出て、次はどこへ行き何を見ようかな、と思案しながら歩いていた。その時だった。後ろからその男が
Hi, How are you doing? と声をかけてきた。私はあまり愛想良くでもなく、Fine.とくらい返事した(と思う)。すると「どこから来たんだ? 日本人か?」「うん、東京だ」「しごと?」「うん、まぁ、しごと半分、あそび半分」とわざと答えた。「仕事って、何の?」期待していたとおりの次の質問だ。「chaperon(介え添え人、転じて、引率者の意味)」「chaperon?」「学生たちを連れてこれから語学研修にアリゾナ大学まで行くんだよ」とかなんとか二人で肩を並べて歩いているとなんだか数人づつ塊となった若い少女や男の子たちがいくつも小走りについてくる。

そのうちのどこからか「マイク!」とか叫んだりしている。だんだんついてくる塊が多く、大きくなる。私は「マイク」という声が聞こえているのだが、それが誰という連想が全然きかなかった。なんだか「変だ」と思って、「あんた誰?」と尋ねると同時くらいに彼は「
Have a nice day!」と言って私から離れて行った。人の塊は彼の後へと続いて行った。

暫くまた一人でジャングルの中の見張り台みたいな塔のあるところを目指して歩いていると、「先生、いま行ったの、マイケル・ジャクソンだってよ。知ってた?」「え?」「すごいことになってるよ。あっちの方」とか言っている。「先生、マイケル・ジャクソンと話していたんだよ!」などと驚愕の事態が起きたかのように言っている。

 私は、そう言われても、マイケル・ジャクソンが誰なのか、その時は知らなかったから「あ、そうなの?!」という感じだった。

  ちょうど「スリラー」という曲が出始めた頃で、若者たちの間には超絶大な人気が出始めていた頃のことである。まだ日本では「スリラー」が話題に上り始めて間もないか、あがる直前だったかの頃であったようである。

 ということで、私は自覚のないままに「マイケル・ジャクソン」と会い、しかも対話をしていたということになっている。ディズニーランドでのことをきっかけにアリゾナでも日本へ帰ってからもマイケル・ジャクソンの顔を確かめた。サングラスを掛けていたが、多分まちがいなく、本人だったようだ。その後、彼は整形手術によって顔立ちが変わったようだが、それよりもずっと以前の怪奇性のない,すこしのっぺりしたような顔であったような記憶である。

 彼に会い、対話をした、ということは当時20歳前後の子供たちにとっては神様にあってお言葉をいただいた、とういうような感覚であったのかも知れない。

 「知らぬが……」という世界である。世界中の誰もが知る人物に会う、ということがその後も何回か続くことになるが、「マイケル・ジャクソン」に会ったことが機掛けか、学生たちは私を有名人に会える人と思っている節があり、しきりに私の過去のキャリアを尋ねたりしたものだ。ちょっと怖いもの見たさ、という感覚で……。

 

 (3)

 さて、研修そのものとは何の縁もない話となったが、(この紀行報告は私的な世界の話なのでご寛恕を!!)ツーソンは入る時、例の急降下するPSA機を雷が歓迎してダン・ダンと機体を揺さぶった。学生たちはキャーキャーと悲鳴を上げていたが、私も怖いのを我慢して「大丈夫!大丈夫!」などと作り笑顔で応えていた。

 この年、UofA側ではY.Tさんという大阪出身の非常に有能なコーディネーターを私たちのプログラムに付けてくれていた。有能な同僚引率者2名がいる上に、現地でさらに状況を熟知している彼女がいてくれた、ということで私は非常に助けられ、名ばかりのリーダーとなっていた。

CESLスタッフと定例の打ち合わせをすること以外、何もやることがなく、実質的には前年と同じようにほとんど拘束されることなく、自由に過ごせた。CESLのスタッフたちと一緒によくおしゃべりをしていたが、それ以外にCESLに関係する多くの人々によるPARTYに招かれた。

 前年、大陸中国からの研究者が来ていることに驚いたが、この年さらに驚いたのは、ソ連邦から英語教育に携わる教員たちが大挙してこのアリゾナ大学に来ていたことである。冷戦はもうとっくに終わっている時代ではあったが、なにかとアメリカとソ連は東西両陣営の親玉としてまだまだ張り合っている時であったから、まさかソ連の人々が各連邦から代表を送り込んで英語教育研修をしているなどとは思わなかった。ただ、世の中というものはマスコミで語られている以上に分らない部分で繋がっているのだなぁ、ということであった。表面上のテーブルでは睨みあっていながら、テーブルの下ではしっかり握手をしている、という姿である。

ソ連が本当にソ連邦なのだなぁと感じたのは、CESL所長のピアロシ氏がわれわれとソ連邦の人たちを自宅の晩餐partyに呼んでくれた時だった。ソ連邦の各連邦からの出身者が招かれていた。今のウズベキスタン、トルキスタンからの人もいたし、リトアニア、エストニアなどの人もいた。リトアニアの人は私がロシアとかロシア人という単語を使うのをとても嫌がり、自分はロシア人ではない、と主張していた。私の政治音痴のため、その時はあまり意味が分らなかったが、後年ソ連邦の崩壊という大事件が発生した時、それなりにマスコミ情報で背景を知り、ああそうだったのだ、などと納得した次第である。

 

(4)

私はだいたいいつも上着に綿のテニスウエア、下には麻の半ズボンをはき、頭に白いお釜帽子をかぶっていた。もちろん暑さ対策である。いつのまにか私のあだ名は「蝉採り坊や」となっていた。そのほか、「今日一緒に〜で話していた女の人は誰?」などとたまに聞かれた。学生たちは見ていないようで見ているものだ、と思った。冷や汗は出なかったが……。

当時の自分の写った写真を見ると、若かったせいもあってとても幸せそうな顔で写っている写真が多い。家庭にはお互いに大好きだった妻がいたし、職場でもみんなに大事にしてもらったし、この異国の地でもとても恵まれた時を過ごしていたからだと思う。学生たちも友達というか、兄貴分みたいな感じで屈託なく伸びやかに接してくれていたように思う。心の中でも嫌な思い出などほとんど出てくる幕もなかったからだろう。

そういえば、キムはその年も教員としてわれわれのグループを教えていたし、スタッフとしてなにかとにぎやかにしてくれていた。一度彼女は自分の住んでいる家に私を招いてくれた。他に彼女の友達やCESLの仲間たちもいたし、気楽にルンルン気分で車に乗せられて行った。彼女は金持ちの一族のお嬢さんと聞いていたので、立派な別荘風の家に住んでいるだろう、などと勝手に空想していたが、着いたところは土壁の家のようなとても簡素な家であった。

そこにジムというほとんど婚約者という立場の
Boyfriendがいた。ジムはCESLの仲間たちとは話もしないで、一人ですこし距離を置いてビール瓶を口にくわえて、時々ラッパ飲みしながら、私たちのことを冷ややかな眼で見ている、変な男だった。ジムはキムを働かせて、自分は働かないでブラブラしているだけの男だ、とキムに聞いていたが、本当にそうだとは思っていなかったので、私には彼が、ジゴロのような感じがして、どうしてこんないい女にこんな変な男がついているんだ、という気になった。

美人というタイプではないが、活発でシャキシャキしていて、機転が利いて、それでいながら北東部文化に対抗しているような反発心も秘めていたキム、今頃どこで何をしているのだろう?一緒に撮った写真を見ながらふと、思う。

 

(5)

予想に反して私の自由時間はたくさんあった。そこで私はグランドキャニオンへみんなで行った時、セスナ機へ乗った。行く前に、「ツグオ。昨日も1ッ機おっこったぞ。2機飛んでナ!」「永久に帰ってこないつもり?」などと半分冗談に脅かされていたが、乗った。

セスナ機は展望ポイントからはすこし離れた飛行場から飛ぶ。6人乗りのセスナ機だ。乗客は私を入れて4人だった。うち二人はアベック。女の方は「怖いから乗るのは嫌だ」と駄々をこねている。「平気だよ。いいから文句言ってねぇで、乗れよ」という感じの男。彼らは私の後ろに座った。

滑走路を飛び立つと眼下は森林ばかりだ。まもなくして峡谷が見えてくる。するとセスナ機がガタガタ揺れだした。パイロットはこれから気流が乱れるよ、といっている間もなく、機はストーンと落ちて行く。急降下エレベータで垂直に落ちて行く感じだ。思わず前の座席シートに手を掛けて強く握ってしまう。胸の中がすーっとする感じ、と思う間もなく、今度は下から突き上げるような力が床から伝わってくる。鋼鉄の棒か何かで床から突き上げられているような感じで、内臓まで押し上げられているような感じだ。

機体は左右にもフラフラ揺れている。上下にはガタン・ガタンだ。2,3分くらい経ったのだろうか、機体が何事もなかったかのようにただエンジン音を響かせながら安定し始めた。窓の下を覗くと凹凸を刻む岩だらけの峡谷が暗い影になった部分と明るい岩肌を見せる部分とで明暗のコントラストを作っている。パイロットはガイドを兼ねており、下に見えるのが〜岩だとか、右の方に〜が見えるとか操縦桿を操りながら説明する。

         

下に赤茶色の濁流の川が見えてくる。コロラド河だ。ところどころでミュル・トリップ(ロバで行く探査旅行)の一行が路行くのが豆粒のように見える。岩肌はだんだんどれを見ても同じような気がしてきて、自分の見ているものがどこのどんな場所なのかサッパリ分らない。1時間の飛行遊覧ではほぼグランドキャニオン全体を空から周遊することになっている。そんな説明をパイロットは客席のわれわれの方を見ながらしている。眼の前に大きな岩が迫ってくる。

オイ、オイ!説明なんかいいから、前を見てしっかり操縦してくれよ、という気持ち。そんな気持ちを承知の上でパイロットのアンちゃんはわざとこちらを向きっぱなしだ。「アー、ぶつかっちゃう!!」なんていう声が聞こえるのを待っているようだ。「ああ、本当にぶつかる!」などという絶叫のような声が出た途端、機体は岩肌をかすめるようにしてその岩の横をすり抜けていった。

後ろではゲー、ゲーと変な声だか、音がしている。前方の広い空間に出たとき後ろの席を振りかえって見たら、アベックの男が下を向いて横たわっている。女はそれを見て、私と眼が会ったら、笑っている。それから後も男は横になったままであったようだ。女は機体が揺れるたびに声を出して笑っていた。男はそれに合わせて、ゲー、ゲーだ。

そんなこんなの飛行遊覧であった。結局、眼で一通り見たグランドキャニオンには違いないが、どこをどう見て飛んだかが分らないままであったので、同じ岩肌を何度も見ただけのような印象しか残らなかった。それに私は途中からアベックの方に興味が移ってしまったからだ。

飛行場に戻った時、女はニコニコしながら、男に「楽しかったわ。また是非乗りたいわ!」とはしゃぎながら話しかけていた。男はまだ涎のようなものを口に付けたまま、青い顔をしたまま、座席から起き上がると「テリブル!」と呻くように呟いていた。

 

(6)

グランドキャニオンのほかには、乗用車がないゆえに、一日がかりとなってしまうが「OK牧場の決闘」で有名なツームストンへ行ってみた。ツーソンから一日往復一便のグレイラインに乗っての小旅行である。

前年、私はツーソン滞在中に時間が取れれば、グレイハウンドのバスでどこかへ行ってみたい、とN氏に話したことがあった。その時N氏の体験話として長距離バス旅行をした時、乗っているのは黒人ばかりで、しかも麻薬の類を善意で勧められて閉口した、という話を聞いていた。

そんな先入観もあって、長距離バスには油断なく乗らねば、などと思っていた。ツーソンのダウンタウンにあるバス乗り場へ行くと行先はともかく、なるほど乗客とおぼしき黒人たちが大きな荷物を曳いたり、脇に置いてバスを待っている。1,000km単位の長さで動く定期バスだ。バスは飛行機に比べて圧倒的に安い。もちろん列車などより遥かに安い。そこで低所得層の人々、当時は黒人とヒスパニック系の人ばかりが乗る移動手段であった。

たしか、ベンソンとかいうメキシコに近い街を経由してからツームストンへ行った。朝の出発便であったためか、確かに黒人の乗客ばかりであったが、悪人が乗っている気配などはなかった。ただ、私はいつものテニスウエアに半ズボンの例の「蝉採り坊や」スタイルでバスに乗ってしまった。ところが、乗って30分もしないうちに体がどんどん冷えてくる。

冷房の効き方が半端でない。すこし弱くしてくれるよう頼んだが、それでも寒い。黒人の乗客たちは半袖シャツですまし顔で乗っている。途中の休憩地で外気に当たって体を温めながらなんとか無事ツームストンに着いた。一本しかない帰りのバスの時間を確認してから「
OK牧場」へ行った。ほかにも何人かが降りたがみなここが目的地だった。

ツームストンはオールドツーソンと同様、街の姿を観光客用に19世紀後半の姿にして、保安官ワイアットアープ組VS不良グループ、クラントン兄弟との銃撃対決を再現する街である。人形が当時の銃撃戦をした人物ごとに建っている。                                         
それ以外には何もない、といっても過言ではない。この銃撃戦が単なる活劇であったのか、それともなにか重い意味を持つことになったのか、歴史上どのような意味を持っていたのか、それは疑問のままである。

銃撃戦劇が終わると、あとは買い物の誘いと劇団員たちによるサーヴィス(一緒に写真に納まる)などで時間をつぶす。小一時間もあれば、だいたい見るべきものを見てしまえるところであった。

 帰りのバスも逃すことなく無事予定の時間通りに来た。

 

 (7)

 ツーソンはアリゾナ州のなかでも下の方に位置している。つまり、メキシコとの国境に近い。車で1時間ほどの距離である。ツーソンからも国境の町ノガーレス行きのバスが一日に何本も出ていた。そこでノガーレスまで行ってみることにした。(後年、乗用車で再度訪れることになった)その町はバスで1時間ほどのところにあった。国境の町ということでアメリカ側のノガーレスとメキシコ側のノガーレスがある。国境には頑丈なフェンスが張られており、アメリカ側からメキシコ側には自由に出ることができるが、メキシコ側からアメリカ側への入国の審査は厳重を極める。日本人である私はpassport必携であり、それを示す限り何の問題もなくアメリカへの再入国ができる。

 

 頑丈な逆回転防止ドアを押して越えるとそこはもうメキシコそのものだ。正直な感想を述べれば、不潔なゴミだらけの街だった。万事が1世紀前の世界という感じだ。家は傾き、看板は汚れたまま、壊れかけているし、道路はぼこぼこだ。人間の数がやたら多い。そのぶん喧騒だ。

古びた長屋根の下にお土産屋が続いている。売っているものは本物かどうかは別として、オパールのついたネックレスやペンダントやアズテカ帝国の太陽神を銅版にかたどり刻んだものや原色の色で鮮やかに編んだスカーフやら衣装の類だ。そのほか、お土産屋さん定番のキーホルダーとかが無数にならべられていた。

観光客の服装はみだしなみにおいてきれいでさっぱりしているが、メキシコの人々は汚れたままのシャツを着て平然としているからすぐに区別がつく。  

 そういう姿には別に驚くことはなかった。

 しかし、異様な光景として私に残ったのは、高さが3m以上もあるようなアルミとステンレスの合金のような丈夫なフェンスの網に手を掛けてアメリカ側の景色を終日眺めている人々の群れであった。そこには行きたくても行けない貧しい人々が、まさに網一枚の壁によって、見えている夢の国への通過を妨げられている姿であった。積極的にフェンス破りを図る者たちはけしてそこにはいなかった。フェンスの倒壊を期待して脱出のチャンスを狙っている人々ではなかった。ただなんとなく、することのない時間を、現実の眼で網一枚向こうの世界を夢の世界として見ている人々がそこにいた。

 1980年代初頭のそのころにも、国境を流れるリオ・グランデ川の渡河に失敗し、溺れ死ぬ人たちのニュースがときどきアメリカの新聞にもニュースとして取り上げられていた。逮捕や溺死のリスクがあっても、潜り込めば救われる!という思いで人々は貧困からの脱出と仕事を求めていた。生きる意欲のあるものだけが非合法に挑戦することで生きながらえた。

国境壁のより頑丈になった今でもメキシコ側からの密入国者は絶え間なく続いているということだ。メキシコ国内で意欲ある人々を吸収できるだけの経済力がもたらされない限り、この動きは停まることがない、という現実だ。

 こういう時、私たちは現実に体で「国の力」というものの効力を感じるものだ。passport一枚の示す国際的な信用力、これを与えるものが国家であることを。

 

 (8)

 研修は万事がスムースに行った。同僚にも恵まれ、CESL側の仲間にも恵まれ、とりわけ、前述の日本人コーディネーターのY.Tさんには助けてもらった。内助の功という言葉があるが、表向きの才女の内側にある献身的なアシストぶりには本当に感謝した。彼女は後にメキシコ人男性と結婚し、大阪にいたご家族をアメリカに招いてアメリカ人としての生活に入ったようである。

インターネットの使える時代になってから一度メイルをして消息を確認して、幸せに暮らしていることを知ることが出来たが、それ以後連絡を取り合うこともなく、20年近くが経とうとしている。きっと今頃は豊かなアメリカンライフを送っていることだろうと思う。是非そうあって欲しいものだ。

表面上何のトラブルもなく済んでいたのは、実は彼女のトラブルめいたことも見えないようにする努力の結果であったのかも知れない。普段の自分の間抜け具合からするとどうみてもそう万事がうまく行くはずがないからだ。

 研修の間のある時の雑談で、「もし日本に帰ることがあったら就職のお世話お願いしますね」と軽い乗りで言われていたので、「もちろん、喜んで」と返事をしたことがあった。日本へ帰ってきてから妻にそのことを話したら、「そんなこと必要ないわよ」とすこし怒ったように言われた。しばらく日が経って「理事長に研修報告がてらそんなときが来た折には是非採用してくださいね、と頼んだらふたつ返事だったよ」とそんな話をしたら、「そんなに優秀な人なら日本には帰らないわよ」と言われた。妻の予言は当たっていた。

 ともかくこうして、1982年のアリゾナ研修も無事に済んだ。

<了>

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