1981年初めての海外旅行はアリゾナ研修引率だった

魁三鉄(永橋続男

 

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 職場を変えて2年目の年の春、私は夏に初めて海外へ出張することを命じられた。1981年のことである。

 私のそれ以前の経歴からすると、ドイツ(当時は西ドイツ)へ行くことが一番海外滞在の可能性としては高かったのだが、K大学所属学部教授から行って来いという「ありがたい」薦めには応ぜず、専門違いの日独官費派遣交換留学の公募では合格することができず、結局私の海外体験はなかった。

 私の周辺では海外旅行は1970年代後半にはそんなに珍しくはなくなっていた。(それでも少数派には違いなかったが)海外への新婚旅行も私たちはすることはなかった。まぁ、二人でいつかのんびりハワイでも行ければ……というのが当時の外国へ行きたいというときの希望であり、なにがなんでも海外生活を送りたいというような気持ちはなかった。

 けれども、意外に早く外国へ出張という命令が下った。その仕事上の命令の内容は、引率者の一人としてK語学専門学校の英語研修の提携先であるアメリカ、アリゾナ州ツーソンにあるアリゾナ大学への英語研修引率担当であった。

 実は、この文は2009年になってから書いているものである。1981年当時の写真や若干残っている記録などを見ながら、想い出をあたかも、今のごとくに書いている次第である。だから、忘れていることもあるし、記憶違いとか、誇張めいた記述もあるかもしれない。

 また、文の途中ところどころに挿し込んだ写真はデジカメで直接撮ったものではなく、当時撮った印画紙写真を初心者用デジカメで接写することによって保存したものである。したがって、写真の写真ということで写りはよくない。それから写真の中に登場する人々の姿は特定できない程度のものしかここには載せていない。

当時のアルバムを観ると、だいたいが記念写真のつもりで撮ったものがほとんどだから、人物が中心にある写真が圧倒的に多い。しかし、それはここには載せていない。ご本人たちの了解が得られていないからである。その点で、状況をもっとよく理解しやすくする写真があるにもかかわらず、ここにはあえて載せていない写真もある、という点を了解していただきたい。

 

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さて、そんな出張命令を受けたということで、英語(会話)の練習を始めた。中学生くらいの日常会話くらいはなんとかなったが、英会話は習ったことがなかったし、英語を道具として専門的に使うということがなかったから、3ヶ月くらいの間にすこしまともにしゃべれるようにならないとまずいな、と思い、職場の夜間部の授業に潜り込ませてもらった。外国人(米英人)に慣れておくためである。そしてNHKの英語会話も聞き始めた。

この年は、準備作業は引率リーダーのN氏がすべてやってくれていたので、私はまぁ、文字通り、介添え人みたいな役目でついて行けばよいのだろうと気が楽だった。当時、学生たちの間でこの研修旅行は人気が高く、(それしかプログラムもなかったが)参加者は100名近くになっていた。引率者はN氏をリーダーとして、M氏と私の3人であった。それにいわゆる研修地に入るまではJTBのスタッフが万事面倒をみてくれることになっていた。はじめての海外体験ではあったが、引率者の一人として私としては気は楽だった。

 

学生たちには遊びに行くのではないから、とあたりまえのことを言って規律の乱れにたいする牽制球を事前説明会などの度にしていたが、私自身規則に縛られるのが好きではないので、あまり、〜するな、というようなことは言わなかった。「命があって戻ってくればそれでいいよ」なんて言っていたものだから、学生の方がかえって心配して、「先生、途中で私たちのこと置いてどっかいっちゃうんじゃない?」などと言われたこともあった。

とかなんとか、事前の顔合わせ集会を何度かやっているうちに、出発の日が来てしまった。100人近い大集団がアメリカ(サンフランシスコ)に向けて出発するのだから結構壮観だ。当時はTCATとかいうところから出国手続きができた。成田からはパンナムのジャンボ機だった。ジャンボ機はその当時はとにかく他の飛行機に比べて桁違いに大きかった。機材も航空各社が導入していたわけでもなく、各社では727型機などが一般的だった。さすが、パンナムと思ったものだが、そのパンナムも経営が下手で後には潰れた。その当時はともかく世界一の航空会社というイメージだった。

 

ジャンボ機については、こんなにでかくて重いものを持ち上げてしまう力を出すエンジンにえらく感動したものだ。ドラム缶1本分くらいの燃料を1分間で費消しながら9時間くらいで太平洋を越えると聞いて、みな仰天したものだ。(記憶が正確な自信はない。もしかしたら数字は違うかもしれない)

みんなジャンボ機に乗るのは初めてだったし、もちろん私も初めてだった。スチュワーデスさん(今のCabin Attendant、以下ではSTWと略しておくこととする)も20人くらい乗っていた(ような感じ)が、JTBスタッフのT氏に拠れば、「スチュワーデスは絶対日航機が一番ですよ」ということだった。

パンナムに限らず、アメリカの航空各社は「おばちゃんばっかりだよ」ということだった。話す英語は省略会話ばかり、こちらはフル・センテンスで答えようと思うが、要するに名詞だけの対話で済むのだ。その後、飛行機内では受け答えの要領がわかったので、名詞しか使わないようになった。

パンナムのおばちゃんSTWは私を学生と思ったのか、「15歳か?」とまじめに尋ねた。「ご冗談を。By TwoThirty」と答えたら平謝りしていた。砂糖のついた煎りピーナツの入ったスナックを一つ余分にくれてウィンクして行った。

飛行機の中ではスクリーンの映画を見たり、持って来た本を読んだりしていたが、学生たちも興奮していて、おしゃべりばかりしていた。飛行機は夕方の出発だったかと思うが、機外が暗くてもあまり寝なかった。はじめてのせいだったからだろう、サンフランシスコまで9時間くらいの飛行は苦痛ではなかった。どこから聞きつけてきたのか、そこはプロ、JTBスタッフがアメリカが下に見えるよ、と学生たちに呼びかけるとみな窓際に顔を寄せた。              

 

 

 私もアメリカとはどんな国かと下を見たが、ただ赤茶や褐色の地肌がみえるだけで随分がっくりした。どういう飛び方をしたのかわからないが、(おそらくポートランドの方ら降りてきたのだろう)しばらくすると、金門橋がはっきりと見えた。このときは、ああアメリカに着たんだ、と妙にうれしくなった。 

 

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 サンフランシスコでは一通りの観光コースをバスで巡った。あまり記憶にはないのだが、金門橋公園やTwin Tower Hillsというところで撮った写真が残っている。(当時は36枚撮りフィルムを4本くらいしか持って行かなかった)Fisherman’s Warfや「風と共に去りぬ」に使われたホテルのロビーそれにケーブルカーくらいしか、写真にはない。

サンフランシスコでは筋肉隆々とした黒人の巨漢が無表情に文字通り機械の一部となって転轍機をものすごい力で操作していたのが、印象に残った。傍に子供が興味本位に近づいていっても、お愛想顔をすることもなく、力いっぱい操舵機を引いたり押したりしており、子供はガツーンと男の体の衝撃を受けて面食らっていたが、周りの人も注意しなさいよ!とかも言わず、満員の電車から無事降りることばかりに気が行っている。「精神なき専門人」という語句(ことば)がふとこの肉体労働者にたいしてもふと思い浮かんだ。

 

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 アリゾナまではいろんな飛行機に乗りますよ、と言われていたが、サンフランシスコからロス・アンゼルスまではたしか、ヒューズとかの飛行機だった。ロスはアリゾナへ飛ぶ飛行機の発着地ということで寄っているのだが、せっかく初めてロスに来てディズニー・ランドへ行かないのは東京へ来て浅草へ行かないのと同じみたいな感じで、パサディナにあるディズニーランドへも往復した。

私はもちろん初めてだ。いろいろ乗り物やらアトラクションを見るために並ぶのだが、これがまた初めてのせいか苦にならない。特定の学生とだけいつも一緒というわけには行かないから一人で並ぶことが多かったが、アメリカ人もたいていは友達同士とかで来ているから、ときどきペアが見つからないときがあり、ぺアを待つこともあった。

そんな時にアメリカ人と会話ができた。たわいもない会話ばかりであったが……(翌年も状況は同じであったが、そんな中で「マイケル・ジャクソン」と一緒に並んで話しながら歩いていた、ということになったらしい。「らしい」の意味も含めてこの時のことは82年の旅行記の中で触れよう)

私がディズニーランドで一番良かったと思ったのは「潜水艦」だった。水の底へと入って行くのがはじめてであったということもあるが、ビックリしたり、感心したのは、なにしろ魚や怪魚などの模型が実によくできており、まるで生きているような動きをしていたことだ。大蛸か烏賊などがおもしろかった。

 

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こんなことでアリゾナ州ツーソン(Tucson)へ入る前に準備運動みたいな感じでサンフランシスコとロスアンゼルスに2日づつ滞在した後、いよいよアリゾナ大学ヘ向かった。たしかPSAという小さな飛行機会社?の727機であった。当時は、いまのようなテロとか大掛かりなアメリカ軍出動の戦争もなく、飛行機はいたってsecurity checkものんびりいしていたし、のどかなものだった。

運行規定上は乗員室と客室との間の扉は閉鎖されているべきであったろうが、乗る飛行機は9割くらいをわれわれ研修生一行が占めていたせいか、貸切機みたいなこともあり、飛行中も乗務員室へ自由に出入りできた。学生たちも入れ替わり立ち代り、記念写真などをとっていた。私もパイロット室に入れてもらった。

航空機関士が見るからに複雑そうな計器のたくさんある装置に囲まれて、ヘッドセットをかぶりながら一生懸命業務をしているのを見たが、女性機関士だった。やっぱりアメリカだな、と思った。

そうこうしているうちに着陸態勢に入るからということで乗務員室ドアが閉められた。ツーソンの上空は乱気流が出るからベルトを締めろという注意が案内ランプと共にSTWによっても告げられた。この年は特に乱れはなかったが、翌年は雷の中に機は突っ込み、機体ガタガタ上下に激しく揺れ、怖い思いをした。

もともと727機は、特にアメリカでは空軍退役パイロットが操縦している時は、急上昇、急降下するから結構怖いものがあるけれど、腕は確かだから大丈夫ですよ、などと
JTB現地ガイドさんから聞いていたが、なるほど機首の下げ方が結構きつかった。

さて、ツーソンへ着陸したが、そこは田舎(今では国際線ターミナルがある大空港になっている)の空港で、アスファルトが敷かれているだけの空港であった。タラップが付けられ、機の扉が開けられるとブワーっと外の空気が機内に入ってきた。最初はエンジンの運ぶ熱気かと思ったら、タラップを降りてから空港ロビーへ歩いて行くあいだ中、鼻の穴の中が暑い空気の出入りのままだ。これはえらいところへ来た、と思ったものだ。夏の日中のコンクリート滑走路の上だから余計に暑かったのだろう。

この暑さはしかし、本物だった。

 

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出迎えてくれたCESLCenter for English as Second Language)の担当者5人くらいが出迎えに来てくれていた。型通りの挨拶を済ませると、すぐに仲良しになれた。みんな大学の教員だがジーパンにTシャツとか女性も肌丸出しのラフな格好だ。私はいよいよオレの英会話力の学生にばれる時が来た、などと思いながらも、もう昔からの知り合いのような感じでツグオ、ツグオと呼びかけるスタッフによって、妙な警戒心のようなものがすぐに消えてしまった。

格好を付けて虚勢をはる必要がないという体感はすごく楽だった。こちらの英語力もちゃんと調べがついている、という感じでゆっくりはっきりした英語でよく聞き取れる。こちらは
NHKの講座や夜間部で覚えたフレーズなどを基本に単語を入れ替えながら適当に話しているうちに、私の使うvocabularyがかなり非日常的なものであることに気づかれ、そんな単語をどこで覚えたのだ、などと言われた。

特に経済用語などは専門ではなかったにせよ「原論」でサミュエルソンや本場アメリカの
Management書などを多少は読んでいたから、それらを適当に使っていたというわけである。言ってみれば「お堅い学術用語」の方が的確に表現できる、というメリットがあり、第2外国語として日常的な会話を教育している彼らからすると、彼らも知らない「単語」が私の口からはときどき出ていたようだ。

あとあと、より仲良しになってからそのことをお世辞半分としても褒められた。

 

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私たちはアリゾナ大学(University of Arizona、 Arizona State Universityとは別の州立大学、通称 Wild CatUof ACORONADO HALLという学生寮にひと月ほど寝泊りしながら、夏季英語講座に出て学ぶという生活である。学生たちはみなまじめに授業に出て、(女学生が9割以上を占め、男子学生はごく少数であり、その分管理は楽だった)学生たちはまじめに授業に出て、午後は同じ教室で知り合った主にメキシコからの学生たちと大学キャンパスやツーソンの街のどこかへ出かけて交流を深めていた。

 この年、私は授業に出ることもなく、次年度の打ち合わせを引き継ぐというプログラム終了3日前くらいまで、大学のキャンパスや街の中を一人でぶらついていた。また、当時いそしんだテニスを文字通り炎天下で相手を探してはPLAYしていた。

リーダーの
N氏はそんな私に対しても実に寛容であり、−平素の職場においてもそうであったが―、特に何をしろということもなく、その日その日の最低の協調業務以外は好きなようにほって置いてくれた。私は次年度はCAPとして引率するということになっていたので、むしろ来年に備えていろいろ見て回っていた。

 





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 アリゾナという名前で思い浮かんだのは昔、小学校の頃、動物の生態を映した映画があり、そこにサボテンと豹のような動物とガラガラ蛇が映っていたのを覚えており、砂漠の地というイメージでいた。そして砂漠というのは砂だけのエジプトとかゴビ砂漠のようなものをイメージしていた。砂漠については後で記すが、天候はまさに灼熱の地であった。

このように記すとそんなひどいところにどうして人が住むのか、ということになるが、これが不思議なもので、私はツーソンの暑さになれてしまってからは夏バテがなくなり、食欲が増進し、夏が大好きになってしまったのだ。30歳以前は暑さを避けて、冬ウインタースポーツ(スキー)が好きで、その後温泉に入るというのが大好きだったのだが……

ツーソンは華氏100度をめどに今日は暑いとかそうでもなさそうなどと判断していた。寮の部屋から中心街(ダウンタウン)の高層ビルに気温表示が出るのだが、それを見て「98か、なら今日はそうでもないな」とか「わぁ、103だ。こりゃ暑くなるわ」などとその日を判断したものだ。

たしかに、日中は摂氏37,8度くらいになる。飛行場のようなアスファルト・コンクリート上は40度以上だ。自動車のボンネットで玉子の目玉焼きができるというのは冗談ではない、という感じの暑さだ。だが、至るところが40度以上ということなら、人が昔から住むはずがない。人が昔から(といっても鉱山町として開拓された、たかだか100年くらいのことらしいが)住めるのはそれなりの理由があるからだ。

確かに、直射日光下は暑い。しかし、そう!湿度が低いのだ。だからパームトゥリーなどの木陰や建物の陰、あるいは中に入るとひんやりとさえ感じる快適さがある。室内はもちろん冷房が効いているが、概して寒いくらいに効いている。

そしてもうひとつ、住める条件をつくっているのが、夕方のスコールだ。夕方4時頃になるとほとんど毎日のように澄んだ青空が一転にわかにどす黒い雲で覆われ始める。すると大粒の雨がまもなく落ちだす。しばらくすると滝のように降る。文字通りバケツをひっくり返したような水量で降る。

あっという間に下水溝があふれ出し、道路の両側は水びだしとなってしまう。1時間くらい降り続くと黒い雲の合間から澄んだ青空が再び輝き出す。気温は一気に下がって30度以下くらいまでになる。これが砂漠にも動植物の生存を可能にしている理由のようだ。街の溢れた水はいつのまにか地下へと吸い込まれてしまうらしく長い間水溜りになっていることはない。その繰り返しである。 

 

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 アリゾナ大学はでかかった。全米で一番キャンパスが大きな(敷地が広い)大学がどれくらいの敷地面積を有しているか知らないが、私の勘で測るところ縦横1,5kmx2,5kmくらいのメインキャンパスだ。正確な数字はUofAのWebでも覗いてみればきっと分るだろう。建物が平地に建っているから余計にだだっぴろく感じられる。寮からテニスコートまで30分くらい歩いていたから3kmくらいはあったということだろう。

 学生たちも都心の狭い校舎に日頃いるからだろうか、かえって動くのが億劫という感じも人もいた。授業で忘れ物をしたりすると大変だ。なんどかあわてて寮の自分の部屋へ走って戻ってくる学生をみた。体中に汗をにじませハァーハァーしながら。

 UofAで一番古い校舎は鉱山学部のそれであった。キャンパスの中心に二階建ての校舎があった。大学自体は創立発展の一途を辿り、私たちが滞在した頃にはもう総合大学となってだいぶ時が経っていた。

 大学の天文学、光学と関係の深いキット・ピークの天文台も訪ねた。空気が一番きれいな場所ということで、さほど高くはない山であったが、そこには大きな天体望遠鏡を備えた天文台があった。CESLのスタッフからは中国からの派遣研究者であるとジョンという光学、天文学者を紹介されたが、私の疎い世界であったためか、あまり交流は深まらなかった。

ただ、当時はまだ大陸中国とアメリカの国交は良好とはいえない時期であったにもかかわらず、台湾・中華民国ではなく、大陸・中華人民共和国から人が来ているということには少々驚いた。そして翌年はもっとビックリするような一団が来ていた。そのことは、そこでまた触れよう。

 

 ツーソンの街は当時発展途上の最中にあり、街のいたるところで大規模な建設工事やらが行われていた。鉱山町としてできた町は南西部にダウンタウンがあったが、私が行った頃は町全体が北東へと新しい街づくりを始めていた。話に聞いたところでは、冬になるとニューヨークや北東部に住む「Snow Birds」と呼ばれる金持ちや年金生活者たちが土地が安く、気候の暮らしやすいアリゾナやニューメキシコなどに押しかけ始めていたのである。

 ツーソンのダウンタウンのある南西側は建物も古く、レンガづくりの崩れかけたままの建物の入り口の陰に黒人たちが黙って、行く人の流れを眼で追っている、というようなところが結構あった。映画の中に出てくるギャングののさばる地域のような感じがしてアメリカらしいなとも逆に思った。ただ、油断なく歩かないと……という意識を常に喚起された。

北東部は南仏のコートダジュールのような(ということが分ったのはずっと後になってからのことなのだが)オレンジ色や赤屋根のモダンな邸宅が広い敷地に建っていた。

 

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学生たちはいわゆる語学研修のほかに、同じ研修講座に他国から参加している学生たちとの交流機会をもっていた。日本人のわれわれは、いけばな、お茶、空手、日本舞踊などを披露してアメリカ人やメキシコ人などに喜ばれたが、一番驚かれ、喜ばれたのは折り紙だったようだ。

学生の中にとても器用に小さく的確な折り紙のできる人がいて、子供たちの英単語で発する動物や昆虫などを実に巧みに即興的に折ってしまい、出来上がったものをプレゼントしていた。まさに彼女の手は
magic handsに見えたようだ。私もどうしてそんなに上手に折ることができるのか不思議で仕方がなかった。

 

 研修に参加しているのはわれわれのグループのほかではメキシコからの学生が一番多く、南米、フランス、イタリア、台湾、アフリカなどから2,3人くらいづつの参加者がいた。ヨーロッパからの学生はともかく、メキシコや南米、それにアフリカからの参加者は家庭がとても豊かな学生たちだったようだ。アフリカ(国がどこかは聞かなかった)からの女学生はピアジュの宝飾時計を机の上に置きっぱなしにしたまま、座席を離れてすましていた。

メキシコから毎年父親を残して一家をあげて研修に参加しているという一家もいた。何人かの教室が同じであったわがグループの学生がツーソンにある彼らの家に招かれたと言っていた。学生同士もだんだん仲良しになり、夜11:00の寮の門限時刻になってもお互いに帰ろうとせず、「明日があるんだから……また明日にしなさいな」といっても、なかなか別れようとしない学生などもいて、少し手を焼いた。

当時は、特に外国人の友達を持つということがなんとなく「格好よい」というような風潮があり、それができる人は得意になり、できない人は少々僻んでけなしたりしていた。そういうのを英語被れ小児病というんだ、などと言っていたが、私自身、CESLスタッフととても仲良くできたことはうれしかったので、ひがみっぽい学生にははやく友達人なるコツ、積極的にアプローチする方法みたいなものを話したりしてあげた。それがよかったかどうかはわからない。しかし、友達(Boy friend)ができたとたん、もう日本へ帰りたくない、などと言って駄々をこねたりする学生もいたりしたのも、今となっては良い想い出だ。

 

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そして私にとっては一つのドラマとなる交流がこうしたactivitiesの中に一つあった。これは創作の材料にも使えるな、と思ったくらいの話である。

大学には語学研修のほかにもさまざまなグループが研修や交流に来ていた。その中の一つとしていわゆるインディアン・リザベーション(居留地)からさまざまな種族の主に女性たちが看護医療研修を受けに来ていた研修グループがいた。ナバホ、ズニ、アパッチなどと、いつかどこかでテレビや映画の中で一度くらいは聞いたことのあるような部族から派遣された研修生たちである。彼らの一部が同じドム(寮)に宿泊していたのだった。

ある日、インディアンとの交流会を寮のロビーを使ってやろうということになった。その日彼らは、特に女性たちは、部族の伝統衣装を着てロビーに集まり、ダンスをしたり、祭礼儀式をデモンストレーションで演じ見せてくれた。

インディアン(今日ではそう呼ばず、ファースト・ピープルと呼ぶのが一般的)は約2万年位前にアジアの人種がユーラシア大陸を経て、北米へ渡り、南米まで進出していったといういわば、アメリカ原人とも言うべき人々の末裔である。

よく言われるようにわれわれ日本人のお尻には蒙古判とよばれる青あざのような部分があるが、彼らにもそれがあるということで、それに髪の毛、肌もよく似ているので、彼らにはなんとなく親しみがある。ちょっと色黒の日本人という感じだ。

彼らの中にキャロルという体躯のしっかりした娘がいた。ほかにキャシー、名前を忘れたもう一人、3人が私にとっても積極的に話しかける。仲間たちが太鼓をたたいたり、パフォーマンスをしている間にもダンスを一緒に踊ろうとか、一緒に席に座れなどと誘ってくれる。

どこでどう知ったのか、「お前はリーダとして100人もの学生をよくまとめている。すごい」などと言っている。「いや、ぼくはリーダーではなく、
chaperonとして付いてきただけだ、Mr.Nがリーダーだから彼と間違えているのでは?」と事実を言うが、彼らはmodestとか言ってなにかと褒める。中の一人が「うちに遊びに来い」というとキャロルもキャシィも「来い」といってくれる。

彼らはみな帰属する部族が異なっており、「行きたいのはやまやまだが、今回は学生を連れてきているから一人で勝手に行くことはできない」と答えるととても残念がっている。あとで地図をみると彼らの居留地区はとても1日2日で行っ帰ってこられるようなところではなかった。

その日はパフォーマンスを終えて、解散した。

それから1週間くらいした頃、私にプレゼントしたいものがあるので会いたい、とキャロルから連絡があった。夕方、他の二人とキャロルとロビーで会うと「研修が終了し、明日、みんな自分の土地へ帰るから」とキャロルはいきなり私の左手をとり、自分の右手に隠すように持っていた何かを私の左手首に押し込むように付けた。

ちょっと、ずきっとしたが、悲鳴を上げるほどの痛さではない、手首を見ると青緑色のトルコ石がたくさん嵌め込まれたブレスレットである。「これは自分のオバがつくったもので大切なものだが、あげる」と言う。他の二人がニコニコ笑いながら「良いものだからもらっておけ」と言う。

そんなに貴重なものだったら「もらえない」「いや、あげる」「もらっておけ」と少しやっていたが、とりあえず、いただく事にした。別れ際に今夜「自分の部屋で待っている」とキャロルが言った。

私は自分の部屋へ戻ると気が一遍に重くなってしまった。うれしいのだが、その意味を考え始めると、いろいろ展開がsituationを変えて頭の中を駆け巡る。時間はもう夜だし、CESLのスタッフに相談に行こう、と思うが誰ももうオフィスにはいないことは目に見えているので、行きようがない。

はてさて、どうしよう、どんどん夜は進んで行く。もう9時だ。行った時の妄想が頭の中を駆け巡る。そのうち10時になり、11時になり、と夜中が過ぎてしまった。結局、行かないまま、自分のベッドから朝6時に起きた。外はもうとっくに日が出て明るくなっている。そこで、私は6時頃キャロルの部屋を訪れた。

ドアをノックした。返事はない。すこし経ってまたノックした。すると
Tシャツ姿の誰か(女性)が後ろを通りかかって、「彼女は待っていたわ。寝ているからそうっとしておいて」と言って過ぎて行った。救われたような気になって部屋のドアの前をすぐに離れて自分の部屋に戻った。

9時頃CESLの事務所に行き、グレン・マイナース氏に昨晩のことを話し、左手につけたブレスレットを見せた。「彼女はツグオに好意を持ってプレゼントしたのだと思う。ありがたくもらっておけばいいよ」とアドヴァイスをくれた。

そして「日本に帰ったら、日本の何かをお礼にプレゼントとして送ってあげたら良いと思うよ」と言ってくれた。ブレスレットをよくみたグレンは「これは商業用に作られたものではなくて、銀製のアンティークに属する伝統的なズニの作品だよ。今はなかなかない、良いものだよ」と教えてくれた。

そんなわけでそのブレスレットは日本に持ち帰ってきた。私はときどき家の中で手首に付けてみたが、他人(友人とか親戚)に見せびらかす時以外は使わなかった。時々、妻が「借りてもいい?」というから「あげる」と言って管理は任せた。そのブレスレットはいまでも着け手のないまま、私の時計箱の中で寝ている。  

 

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私自身はCESLスタッフに親切にされたので、自ずと仲良し仲間ができた。年齢的にもほぼ同じくらいの人たちであった。その当時は私はアメリカの北東海岸部(体制側)への西海岸側の対抗文化運動にたいして無知であり、彼らが積極的に非北東部的であることに反応できなかった。ただ、ヒッピーとか自然愛好家なのだなぁ、というくらいの感覚で彼らを見ていた。

Extra Curricula Activities(課外活動)としてグランドキャニオンに行った時、スタッフの中のキム(女性)が夕陽の落ちてゆく荘厳な雰囲気の中で一人岩場の陰にこもって座禅を組んでいた。彼女はある高名なパルプ会社を経営する一族の娘ということだった。鼻が短く上を向いた、ちょっといたずらっぽく、愛嬌があり、なにかと私をからかうので私もとても好きな感じの女性だった。(ただし、彼女にはジムという変人の、きまったBoy friendがいた。私には彼女がなぜそんな奴に大切な位置を占めさせているのかがわからなかったので、少々ジムにはやきもちを焼いた。もっとも、私にも日本には一日も早く帰ってきて欲しいと待っている大事な最愛の妻がいたから、神様はうまく図っていたという訳である)後年、彼女は当時紛争地域となっていたサライエボから手紙をくれたのを最後に音信が途絶えた。その時はなんでそんなところへと思ったものだ。いまごろどうしているかな?単純に懐かしく、そして彼女が幸せに生きていればよいと思う。

 

グランドキャニオンは想像以上にスケールが大きく、神秘的な感じがした。この年はキムに気をとられていたせいもあってか?グランドキャニオンそのものに対する記憶は薄い。

             

 グランドキャニオンについては翌年、セスナ機で上から覗いた。

ひとつグランドキャニオンで注意しておいた方が良いことがある。場合によっては命に関わることだから知っておいた方が良いことだ。

 そこには野生動物が一杯いる。人気のないところには珍獣を含め、ガラガラヘビなどもいるが、怖いのは人に慣れた野生動物のリスである。特に愛くるしい仕草などで女子学生には人気のある動物だが、これは野生動物であって、愛玩ペットではない。

野生のリスには破傷風菌とペスト菌がついていると言う。私はその場に居合わせず、離れたポイントを散策していたが、今回の旅行でもひとりかわいいと抱き上げようとして手を咬まれた。幸い
CESLのスタッフが近くにいたので、ケアを受け、念のためということで、血清注射をグランドキャニオン付設の診療所で打たれた。注射は痛いらしい。

 (13)

 アメリカ制作の西部劇が昔ははやった頃、その頃は白人は善であり、インディアンは残虐で野蛮というような設定でつくられた映画が多かった。また、西部劇というのは概して勧善懲悪的な単純なものがはやった。そのロケ舞台として使われたのがオールド・ツーソンと呼ばれた19世紀的映画村である。サグアロ(サボテン)の林立する荒野の中を馬にまたがる英雄が悠然と歩む……なんていうシーンのロケ地だ。

 われわれが訪れた1980年代初にはもはや西部劇の時代は終わっており、映画のロケ地として使われることはほとんどなかったようだ。替わりに観光客用にご当地のエンターテイナーが扮する西部劇の一シーンが演じられ、客をもてなした。

 学生たちにとってもなんだか子供じみた印象だったらしく、あまり好評ではなかった。

 

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 ツーソンにはいわゆる世界中の誰もが知っており訪れてみたくなるというような名所旧跡などはない。だから観光客の来るところではない。そんな中で、一箇所信者たちには巡礼地のひとつとして崇められているとか聴いた教会があるので行ってみた。行き方は忘れたが、バスに乗って2,30分かかった砂漠の真中にあるサン・ザビエル教会である。

この手のものは中南米にはいくらでもある、という教会であるが、当時の私には遥かこんな遠くにまでスペイン人たちはザビエル神父を崇めて教会を建てていたのか、とそれなりに感心したものである。教会の中でいろいろ資料をもらったが、いつのまにか紛失してしまったのか、ない。だからこれ以上のことは記せない。

 










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 そんなこんなで学生たちが研修を受けているひと月はあっという間に過ぎてしまった。始まって2,3週間もすると学生たちはすっかり快適な生活ペースを覚えてしまい、口にするのは「帰りたくない。もっといたい」と言う言葉である。私もツーソンの暑い快適さにすっかり慣れてしまい、日本のことなどすっかり頭から消えていた。妻からはこちらの書く手紙の5分の1くらいのペースで返事が来たが、こちらで鼻の下を長く伸ばしている生活ぶりを正直に書いていたこともあって、たるんだ生活ぶりですね、などとやり込められていた。

 それでもプログラム終了の3日くらい前からは来年の打ち合わせとかをCESL側とするようになった。帰国してから今回のプログラムの反省点とか学生の声を来年に反映させようとか、Farewell Partyの下準備とか、帰国日当日の飛行場までの車の手配とか、飛行機のReconfirmationと名簿確認とか、コミュニケーションの取り方などを話し合っていった。

 いよいよ出発日となると早朝5時には大学を出て、飛行場へ行かねばならぬ、という行程であるが、朝早いのは辛いが、それが幸いしていることもあった。「別れと見送り」である。メキシコ人を始め同じクラスの人たちと別離を惜しんで出発日前夜は大変だったが、当日はもっと大変かもしれない、とおそれていたが、朝が早いのでそんなにたくさんの見送りはないだろうという見込みでいた。

 しかし、数は多くなかったが、やはり熱心に見送りに来てくれる学生たちはいた。後ろ髪を曳かれる思い、という気持ちそのままに学生たちは涙、涙で肩を抱き合いなかなかバスに乗らない。そんな中(仲と掛けて)を割くのが私たち引率者の仕事、飛行機は待っていてくれない、この情熱を持ち続今度はアリゾナ大学生となってくるように励めば良い、などと言いながら、割いたものである。

 100名近い参加者の中にはその後Arizona大学だけでなく、各地の短大や大学に留学した人たちが毎年何人かづついることになった。

 研修旅行もこの研修が大盛況となり、以後、1980年代後半にはアメリカだけでなく、イギリス、ニュージーランド、カナダなどと行き先も多様になった。

 

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 日本への帰国途中、ハワイに寄った。同じアメリカの一部とはいえ、まったく気候の違う、常夏の島ハワイであった。日本人の新婚旅行の行き先として当時は人気No.1というのは分る気がした。ホノルルの位置するオアフ島にしか行かなかったが、われわれはワイキキビーチではなくカイルワ・ビーチとかいう裏側の人の少ない浜辺で泳いだり、水遊びをした。カイルワ・ビーチの方が景色もよく、ワイキキ海岸には日本人が多く、誘惑が多いということからの対策も兼ねていた。

 研修旅行は大過もなく無事に終わった。初めての海外旅行が40日以上のものとなったのはその後の個人旅行にも良い意味でいろいろヒント(Tips)を与えることとなったように振り返ってみれば思える。

 

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 この旅で、私はアメリカによって外国を初めて経験した。初めて体験する国がアメリカであったということは意外に、外国というものを日常的な親しみやすい世界にしたと思う。日本での普段の生活がアメリカナイズされており、生活上の違和感があまりなかったことと、他人と気安く交流機会を持てた旅行であったこと、アメリカの歴史とか文化的な背景とか、要するにたいした予備知識がなくても(高校の世界史で習ったこと程度の知識で足りたと言う意味)ほとんど苦痛を感じるようなことがなかったことが、とても外国旅行や滞在を楽なものにしていた、と思う。一言でまとめてみれば、いわゆるショックのほとんどない海外滞在経験であった、ということである。違うことより似たような感じでものごとを見ていたことはやはりその後の海外旅行への取り組みに影響していったようである。

<了> 

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