ケネス・レクスロス紹介

―アメリカ人の原型をもった20世紀の異端詩人―

お断り:閲覧していただく読者の目の負担を少しでも小さくすべく、行は3〜5行くらいづつに切ってあります。それらは本来の改行位置とは必ずしも一致していない事をあらかじめご承知おきください。



(はじめに)



  ケネス レクスロスという人物名を知る人は果たしてどれくらいいることでしょうか?恐らく、この日本ではよほどアメリカの文芸界の動向に精通した人でなければ、名前すら聞いたことがないという人がほとんどではないかと思います。これまでのところ文学や歴史の教科書に頻繁に登場するいわゆる「有名な」人に名をつらねているわけでもありません。

  しかしながら、生きていた当時は「有名人」でなくても、その後、作品や生き方が(再)評価され、「有名に」なる可能性のある同時代の思想家や作家、詩人は案外存在するものです。

時代よりも主張が先を進んでおり、彼(彼女)が生きていたその時代には世間の人々はあまりにも現実のなかの利害関係に縛られており、真実を公に認めることができなかったり、同時代の関係者が自身(おのがみ)を守るために、主張されている内容に対して眼をつぶるというようなことがあるからです。

たとえば、企業成長過程下における環境破壊(公害)問題などは1960年代から70年代にかけてのその発生初期には経済的豊かさの追求の方が大切であり、少しぐらいの水質汚染や土壌汚染、環境破壊を伴っても何の問題もない、といった事態が黙認されていたということがあります。地球環境保全への世界的な取組みが真剣に図られている今日からすると信じられないことが当時では看過されていたというわけです。

現実の利害関係からは相対的に自由である学生たちが反公害運動を起こしたときには、その主張は「時代の先を行過ぎた主張であるがゆえに」とか「あまりにも深刻な既存秩序破壊の危険があるゆえに」、黙殺されることが多かった訳です。

レクスロスの主張のなかにはこうした「時代を先取りした」主張と「根底から既存秩序を揺さぶる」主張があります。

それらの主張の詳細は後に触れてゆくこととして、まず、ざっと、人物の略歴から始めます。

彼は20世紀の初頭に生まれたアメリカ人です。学校へは行かず、もっぱら母親の教育と読書によってさまざまな知識を吸収しました。しかし、14歳になる直前には両親を相次いで亡くし、孤児となります。その後、彼は自らの体ひとつを頼りに料理人、カウボーイ、森林パトロール、などいろいろな仕事をしながら自活・放浪し、大人たちとの生活の中で多くのことを学んで行きました。

10代後半には自分の感情に素直に従いながら自由奔放に恋愛をして、心のままに愛の詩を綴りました。また大恐慌からの経済復興過程では芸術家の雇用促進事業にも尽力しました。第2次大戦中には良心に基づき兵役に就くことを拒否する立場に立ち、戦争や東洋系移民(特に日系人)に対する戦時下の社会的差別に反対しました。

第2次大戦後は、サンフランシスコで「詩のルネッサンス運動」と呼ばれる詩の朗読会を主唱し、詩を通して既存体制の伝統的価値観に反抗するビート・ジェネレイションと呼ばれる若者たちの活動を後援しますが、まもなく彼らとも袂を分かち、東洋的な自然との調和を説く立場に立ちながら詩作や社会・文明批評を展開すると同時に、また日本、中国、フランス、ギリシャなどの古典的な詩を英語へと翻訳し紹介に努めました。

  1982年サンタバーバラで病没しました。

レクスロスは一言で言えば、アメリカ人の原型となる野性的なたくましさを具え、自然との調和した生活スタイルを重んじ、都会の虚飾に満ちた生活や既存体制派の社会的な欺瞞や戦争に対して怒りを発した詩人でした。しかし、本質的には政治活動家ではなく、自然のなかの庵に思索し、詩を作り、外国の古典詩を翻訳・紹介し、東洋的な自然との調和のとれた生活の大切さを訴えた文芸人でした。

以下ではケネス・レスロスという人物とその作品等について、今日の文明・文化状況に照らして彼の生き方や作品が今の時代に対して示唆に富む豊かな素材であることに触れながら彼の人生と作品について簡単な紹介をしてみます。



(1)略歴伝




  
レクスロスは1905年、インディアナ州のサウスベントに生まれました。父親は実業家、母親は病弱でした。

1905年という年の意味を考えて見ますと、19世紀中頃から20世紀の初頭にかけて、ヨーロッパではこれまでのキリスト教に代表される価値観が至る所で疑問視され、否定され始め、その文明の翳りが語られていた一方、内戦(南北戦争)を終えたアメリカは新興国として、イギリスに代わって「世界の工場」となるべく、産業資本主義の歩みを着々と整えつつありました。

レクスロスは幼少時から文芸活動を愛好する母親によってさまざまな読書体験や芸術鑑賞の機会を与えられ、育てられていました。

アメリカは1910年代には鉄鋼、化学、鉄道、自動車に代表される産業が活況を呈し始め、シカゴなどの都市は人口の増大を呼び、ヨーロッパ各国からの移民も大量に流れ込んでいました。

レクスロスは、いわゆる「学校の優等生」ではありませんでした。学校へはあまり行かず、早熟な、かなり「変わり者」に近い少年であったようです。彼にとっての学校は母親との会話であり、読書でありました。知的な刺激はほとんど母から得ていたのです。

母は肺結核を患っており、寝たり起きたりの生活を繰り返しながら1916年に死亡します。11歳の時のことです。その後オハイオ州トレドの祖母のもとで育てられます。まもなくして父親も病死してしまいます。レクスロスは14歳になる直前に孤児となってしまいました。

彼は学校へもほとんど行かず、社会主義者が運営する農場で働く中で次第に社会に対する知的な興味を持つようになりました。またアングロ・カトリック(英国国教会)への関心も抱きました。

その後1919年シカゴの叔母の下で生活を始めますが、正規の高等学校の授業にはほとんど出ませんでした。シカゴでは大学附属の絵画教室や音楽教室や博物館へ出入りし、いわゆるヨーロッパの伝統にとらわれないアフリカの仮面芸術やピカソ、ブラック等のキュビズム作品などを独学で学んだのです。

ラテン語とフランス語だけを学びに行っていた高校では校長先生と喧嘩をして学校を辞めてしまいます。彼は学校へ行く代わりに、シカゴの街頭演説家の(たむろ)する公園や社会主義者の主唱するクラブ、カフェ、酒場、また個人の主催するサロンといったところで、大人たちに混じり、社会主義や無政府主義、神秘主義宇宙論やスコラ哲学といった思想に触れて行きます。

また日本やインドの宗教などについても知識を増して行きました。当時、シカゴは一方で経済的繁栄と文化風俗の保守的伝統からの解放の、いわゆる「Roaring Twenties」(狂乱の20年代)と呼ばれた1920年代を経験していますが、他方では工場労働者の間に労働条件の過酷さや報酬をめぐる不平等感から社会主義思想や無政府主義思想などが、1917年のロシア革命の影響もあり、かなり浸透していました。

ケネスはまた公立図書館を利用して、ヨーロッパのマラルメ、ランボー、アポリネール、ジャン・コクトー、ルイ・アラゴンなどの詩や文芸活動にも刺激を受けていました。彼の「自伝」の中にはヨーロッパ哲学史や思想史などに必ず取り上げられている古代から現代に至るまでの「有名な」哲学者や思想家、宗教家、政治思想家、芸術家、詩人などが、そしてまた中国、インド、日本などの宗教家、政治家、詩人、歌人がきら星のごとく出てきます。

このように彼は学校で体系的に学ぶということではなく、その場その場で刺激を受けるままに貪欲に知的好奇心を充足して行ったようです。

1920年代初期には、レクスロスはIWW(世界産業労働者組合)のメンバーとして社会主義労働運動の実践に参加していますが、彼は本能的にレーニンのヴォルシェヴィズム路線(いわゆるソ連邦の正統派路線とされたもの)に合わない自分を感じています。

無政府主義という政治権力の存在を一切認めない政治思想に、より強い共感を示している点で、彼は本質的に、冷徹に政治組織の機械の一部になることを肯定する「政治的人間」というよりは、ほころびもあり、矛盾もある、血の通った、人間好きの、(特に女性好きの)直感的に真実を捉まえる「詩人」であったと言えそうです。

ここですこし、時代背景から離れて、この「人間らしさ」という面をもう少し覗いて見ますと、彼の「女性関係」の多様さという問題が浮かび上がってきます。

女性の権利の強くなっている現代の視点からみると、かなり傲慢な振る舞いも見られ、女性の立場を(ないがしろ)にしているような面もあるのですが、少し寛容な立場で、人間というものにより深い理解を求め、少し丁寧に見る視線をあてて見ると、彼の苦悩への理解もより深くなり、男女の愛情生活への眼も豊かなものになるかもしれません。

ともかく、彼は少年時代から女性への関心が強く、その時その時で情熱的に女性に接近し、彼らと恋愛沙汰、愛憎劇の数々を引き起こして行きます。生涯において、正式な結婚は4度しています。

画家ピカソが絵画創作においてそうであったように、多くの恋人たちとの出会いから別れまでの一つ一つや結婚生活、家庭生活での出来事、二人の娘への愛情等が彼の詩作へとかなり投影されています。

1920年代にはこうしてIWWの労働運動への参加をする傍ら、シカゴのグリーンマスクというボヘミアンの溜まり場(ナイトクラブ)で詩の朗読を黒人のジャズ演奏にあわせて行ったり、ローレライ一座の一員となり、道化芝居役者を演じたり、また新聞記者となって糊口をしのいでいました。グリーンマスク劇場での芝居が公然猥褻補助罪で摘発されるというようなことも経験しています。

1920年代半ばになると、彼は労働運動がらみで北西海岸のシアトルへ行ったり、友人とテキサス州を旅行したり、ニュー・メキシコ州のタオスやコロラド南部のサンタフェなどを訪れます。またニューヨークとシカゴの間をなんどか行ったり来たりする中で、聖十字架修道会で洗礼を受け、修道会に2ヶ月ほど起居しています。

こうした10歳代後半から20代前半の体験をベースに処女詩集「ダマスカスと呼ばれたお屋敷」が作られました。

この後しばらくして彼はアンドレ・ダッチャーという商業デザイナーとシカゴで知り合い、意気投合し結婚します。そして二人は西海岸へ出ることを決意します。

二人は陸路、ロッキー山岳地帯を越え、ヒッチハイク、キャンプ生活をしながらサンフランシスコを目指して行きました。こうした自然の中での移動生活の体験が、彼の宇宙との一体感の感得や自然への態度や詩作への影響をもたらしたことは言うまでもありません。

二人はサンフランシスコに到着し、モンゴメリー地区に定住することになります。1927年の夏のことでした。当時、生活は主にレクスロスの執筆とアンドレの商業デザイナーとしての報酬に依っていました。
1929年10月大恐慌が起こるとサンフランシスコの街にも失業者が街に溢れ出しました。もともと生活基盤の弱い作家や芸術家たちのために、彼は1930年代に入ると西海岸ジョン・リード クラブ(文芸作家・芸術家たちのための共産党系のクラブ組織)を結成したり、30年代半ばにはフランクリン・ローズベルト大統領(FDR)の経済復興、雇用促進政策の一環としての芸術家救済措置に呼応し、芸術家たちに公共施設や建物などの壁画制作、装飾、音楽公演などをアレンジする世話役をしました。

こうした活動は政治的な立場が微妙に投影され、難しくなってしまうことが多いのですが、彼は現場の制作者の立場にたって活動したということです。そして彼は芸術家たちのための組織化だけでなく、西海岸地区の公立病院の看護師たちの組織化にも尽力し始めます。

私生活面では、最初の妻アンドレが持病に由来する精神的に不安定な状況に陥り、自殺を企てるということが起こり、レクスロスも精神的に消耗してしまいます。その間に2番目の妻となる看護師マリー・カースと出会うことになります。

概して、ニューヨーク、ワシントン、ボストンに代表される東海岸部には既存体制肯定的な立場から諸社会政策を立てて行く保守派層がいるのに対して、西海岸部には批判的な立場から諸策を対抗的に考えて行く立場の人々が集まっていました。

1930年代の後半に入るとヨーロッパではドイツのナチスやスペインのフランコ、イタリアのムッソリーニなどが台頭し、戦争への緊張が高まっていました。

39年ドイツがポーランドに侵攻することで第2次大戦は始まりましたが、このとき、レクスロスはクェーカー、メノナイト教徒の「良心にもとづいて兵役につくことを拒否・忌避する」人々と共に、アメリカに住むカトリック教徒の中の「良心的兵役忌避者」の支援組織を結成・支援し、兵役の代わりに社会福祉活動に励みます。

また、時間ができると、詩の朗読運動をしたり、山小屋に篭って宗教書を耽読していました。この時に始めた詩の朗読運動は実質的に後に「サンフランシスコ 詩のルネッサンス(運動)」と呼ばれるものの源となったとレクスロスは後に語っています。

国家総力を挙げて戦争に取り組むときに戦争には協力しない旨を宣言しましたし、もともと弱い立場にある側への共感を示すことの多い彼でしたから、彼はFBIの「ファイル」では「共産党員」という扱いを受けました。

彼の考え方が果たして「共産党員」であったのか、それとも反(非)体制的立場を取るものを国家権力が十把一絡げに「共産党員」としてくくってしまったのかは不明です。

彼は弱い立場にあった「東洋系の移民」、とりわけ「日系アメリカ人」の市民権剥奪行為であるキャンプ地への強制収容に反対しますが、かなわず、周辺活動として、収容された日系人の文化財を保護したり、かれらへの本の貸出サービスをしたりしながら日系アメリカ人を支援しました。

このように第二次大戦中は総じて、良心的兵役拒否・忌避者たちの立場に立ちながら、サンフランシスコ地域病院の精神科の雑役係りをし、精神病患者たちの面倒をみながら、自由な時間ができると郊外の山間地にある山小屋へこもり、哲学、宗教書を耽読し、街へ戻ると詩の朗読会をしたり、演劇や文化活動をし、また平和主義者たちとの交流に努めていました。

第二次大戦が終了すると、次第に彼は政治に対して関心が薄くなり始めます。というのはソ連の非人道的な全体主義的な官僚主義、スターリン独裁体制の大戦前後の現実を目の当たりにし始めたからです。

以後、彼は詩の創作、朗読会に打ち込みます。それとともに彼の詩人としての評価が高まり始めます。1948年一連の詩の朗読会や創作詩活動に対してグッゲンハイム記念財団より奨励金をもらったのを機に、49年5月彼はアメリカ東海岸を経て、ヨーロッパ旅行を企てます。

フランス旅行の途中、サンフランシスコの詩の朗読会への参加者メンバーであったミルズ・カレッジで哲学専攻の女性マーサ ラッセンを呼び出します。二人は合流し、2番目の正妻のマリーとは離婚していないにもかかわらず、フランスのエクス・アン・プロヴァンスで結婚式を挙げてしまいます。

2人の間には子供ができており、サンフランシスコへ戻ると1950年には長女メアリーが生まれます。52年には次女キャサリーンが生まれます。

1950年代に入ると世界の各地で米ソ間の東西冷戦がはっきりと対立構造として現れ、アメリカ国内においても今となっては悪名高き「マッカーシ旋風」と呼ばれるヒステリックな共産主義者狩りが全米を覆い、体制に批判的な学者や芸術家、作家などが社会的指弾を受けました。

こうした状況の中で、資本主義体制に順応し、より豊かな富と名声を求めて社会的エリートを目指す中産階級の大学生がいる一方、他方では逆に、アメリカの伝統的な価値観や道徳・規律、既存秩序維持を説く大人たちに反発する若者たちが、心の中にもやもやしたものを持ちながら、増えて行きます。大人たちの間にも「理由なき反抗」を繰り広げる若者を支持する人々が次第に増えて行きます。

こうした若者たちの間に鬱屈した精神がたまっている中、1955年10月7日(*)サンフランシスコ シックスギャラリーで後にビート詩人を代表する一人となるアレン ギンズバーグが「吠える」を朗読します。

この日の6人の出演者のうち4人はみな20歳台の若者たちでした。レクスロスは戦後機会あるごとに「詩の朗読会」を主催しており、この日は「司会」を勤めていました。大人たちが求める「いい子」ぶった若者像に対する反抗が詩の世界でも爆発したのです。

こうして、文学史に名を残すジャック・ケルアック、ゲイリー・シュナイダーなど、いわゆる「ビート・ジェネレイション」と呼ばれる若者たちが活躍して行きます。アメリカ文学史などの教科書を見るとこの詩の朗読運動を「サンフランシスコ 詩のルネッサンス運動」と呼んでいます。

詩の世界における「既存体制」の位置を占めていたものが何であったのか、あるいは詩学の観点から見た時の「詩のルネッサンス運動」の彼らの作品の評価はどのようなものなのか、この時、いわば「演出家」的役割を果たしたレクスロスはの評価はどのようなものか?目下のところ、レクスロスはこのビート ジェネレイションとの関わりで文学史にちょっと顔を出す程度の扱いとなっています。が、果たしてそれだけでしょうか?

さて、レクスロスはこうして、若者たちに登場の機会を作ったり、機会を与えて行く良き指導者(メンター)としての役割を果たした訳ですが、彼自身は間もなくしてビート族の彼らと袂を分かって行きます。その原因・理由は若者たちの無礼さに愛想が尽きたということが挙げられていますが、果たしてそれだけだったのでしょうか?

彼はその後も詩の創作を続けて行きます。1950年代後半には宇宙や自然の美しさ、豊かさを称える詩集や中国、日本、ギリシャ、スペイン等の英語への翻訳詩集を立て続けに刊行します。

1960年代アメリカはキューバ危機やヴェトナム戦争により、東西冷戦の緊張を高めて行きました。ヴェトナムでは戦争が泥沼化して行き、激しさを増すにつれ、アメリカ国内では一般市民の身近な友人や知人それに家族の一員がどんどん戦死して行きます。

若者たちはいつ終わるとも知れぬ国外での自由のための「正義」の戦争に疑問を持ち始めます。若者たちに限らず、人々は、核戦争の脅威を感じ、戦争が厭になって行きます。アメリカ的な価値観に疑問を呈する若者は増して行きます。

その一部は物質的には豊かさを一層もたらしながら、心に飢餓感や社会的な閉塞感や疎外感を与えて行くアメリカの産業化、工業化、物質文化の発展にノーを言い始めました。体制支配層からは50年代に「ビートニク」と蔑称された若者たちはさらに、60年代後半に入ると反文明的な生活や宇宙・自然との一体感を求め始めます。いわゆるヒッピーと呼ばれる若者たちです。

彼らは社会から逃避し、麻薬や音楽的熱狂による陶酔感に酔いしれ、そこに人間性の回復を求めたのです。彼らは極端に言えば、言葉を捨てて「人間らしさ」を追い求めたのでした。

これに対して、レクスロスは若者たちを支援しながらも、自らの道は「言葉を通して」追い求めて行きました。宇宙や自然との一体感を求めながら、愛の価値を言葉で語る方向に進んで行ったのでした。

1950年代以降の活躍に対して、1960年代に入ると詩人、文芸批評家としての彼の精力的な活躍に対してアメリカ国内はもとより外国からも奨励金が賞として与えられます。また海外からの学術交換プログラムに招待され、ドイツ、イギリス、イタリア、スペインなどヨーロッパ各国を家族と共に訪れました。彼らはさらにインドへ短期滞在し、インドの飢饉にあえぐ貧民層の生活をまじかに見ることになります。

当時、インド大使であったメキシコの詩人、オクタビア・パソにもその地で会っています。次いで、タイ、シンガポール、オーストアリア、香港、台北そして日本を訪れます。日本では東京はもちろんですが、京都を訪れ、当時、修行滞在をしていたビート詩人を代表する一人ゲイリー・スナイダーとも会います。後に(1974−5)彼は京都で暮らすことになります。

1960年代から70年代には詩の創作とともに文芸批評や文明、社会批評の大著を10冊近く刊行しています。現在のところ、それらの内容はほとんど日本では紹介されていません。

ヨーロッパや日本の古典的な詩歌や文学作品、作家、詩人にたいする批評、絵画作品や画家そして宗教思想、共同体論を中心とする社会思想などに関する論説などが豊富に展開されています。

1974年、4番目の妻であるキャロル・ティンカーと共に彼は日本を訪れ、京都東山に居を構えて長期に滞在し、詩作に励みました。

1980年12月下旬、レクスロスは何度かの心臓発作に襲われました。一旦回復しますが、翌年には脳卒中に2度襲われ、寝たり起きたりの状態でした。そして1982年6月6日77歳の生涯を終えることになりました。その葬儀ではカソリックの頌徳辞、サンスクリット語による頌栄歌、彼の詩の朗読で送られたということです。

*     開催日は実際には10月7日という説が一般的となっているが、Hamalianの著作では10月13日説を採っている。

参考文献

1.An Autobiographical Novel, Edited by Linda Hamalian, New Directions, 19

2.A Life of Kenneth Rexroth, Linda Hamalian, W・W・Norton & Company, 1991

3.”Kenneth Rexroth: Poet of East-West Wisdom”, Morgan Gibson, on KUIS site

  上記訳:「ケネス・レクスロス−東洋と西洋の叡智をあわせもつ詩人」松井佳子 訳

4.『アメリカ文学史 3』 亀井俊介  南雲堂

5.“求道者たちの系譜 ビートゼネレーションへのオマージュ”、西井一夫

    『シリーズ20世紀の記憶 冷戦・第3次世界大戦』所収  毎日新聞社、

6.『講座アメリカの文化 別巻1 総合アメリカ年表』 亀井俊介、平野孝 編 南雲堂                      

 

なお、インターネット上では、Ken Knabb氏のWEBサイトhttp://www.bopsecrets.org にはさまざまなレクスロスの著作やレクスロスに関する論稿があります。   

ケネス・レクスロス コレクションの蔵書内容など詳しい事を知りたい人は神田外語大学付属図書館ホームページ(http://www.kandagaigo.ac.jp/kuis )をご参照ください。


(2)ケネス・レクスロスの主な著作


日本語訳は定訳がないものについては、筆者による仮訳という意味で*をつけてある。

 Poetry

 1.In what hour, New York: Macmillan, 1940. *『折々の詩』

 2.The phoenix and the tortoise, New York:New Directions, 1944. *『不死鳥と亀』         

 3.The art of worldly wisdom,Decker Press, 1949.*『世渡り上手の方法』

 4.The signature of all things : poems, song, elegies, translation, New York: New directions,1950. *『万物の署名』 

 5.The dragon and the unicorn, New Directions, 1952. *『龍と一角獣』             

 6.In defense of the earth, New Directions, 1956 *『地球を守るために』

 7.The Homestead called Damascus, New Directions, 1963. *『ダマスカスと呼ばれたお屋敷』

 8.Natural numbers : new and selected poems, New Directions, 1963. *『自然数』       

 9.The collected shorter poems, New Directions1966. *『短編詩集』                            

10.The heart’s garden, the garden heart, Cambridge,MA: Pym-Randoll press,1967. 『心の庭、庭の心』

11.The collected longer poems, New Directions,1968.  *『長編詩集』               

12.The silver swans : poems written in Kyoto, Copper Canyon Press, 1976. *『銀色をした白鳥』  

13.On Flower Wreath Hill, Blackfish Press, 1976.*『花輪の丘の上にて』             

14.The Morning star, New Directions, 1979.  *『明星』                   

Verse Plays

1.Beyond the Mountains, New Directions, 1951. *『山々を越えて』

Translated poetry

1.One hundred poems from the French, Jargon Society,1955.  *『フランス詩100選』       

2.One hundred poems from the Japanese, New Directions, 1955. *『日本詩100選』       

3.One hundred poems from the Chinese,New Directions,1956. *『中国詩100選』         

4.Thirty Spanish poems of love and exile, City Light,1956.  *『愛と流浪のスペイン詩 30』   

5.Poems from the Greek anthology,University of MichiganPress,1962. *『ギリシャ詩歌選』     

6.The orchid boat : women poet of China,Herder & Herder,McGraw-Hill,1972. *『蘭の船』 

8.The Burning Heart :Women poets of Japan, with Itsuko Atsumi, Seabury Press, 1977.  *『燃え上がる心』

Essays

1 Bird in the bush: obvious essays,New York: New Directions,1959. *『藪の中の鳥』    

2.Assays, New Directions,1961. *『試金物』 

3.Classical Revisited, Quadrangle Books,1968. *『古典再訪』

4.The Alternative Society: essays from the other world , Herder & Herder,1970. *『もう一つの社会』  

5.With Eye and Ear,Herder & Herder,1970. *『目と耳を使って』                                  

6.American poetry in the twentieth century, Herder & Herder,1971.『20世紀のアメリカ詩』   

7.The Elastic Retort: essays in literature and ideas, Seabury Press,1973. *『しなやかな反論』    

8.Communalism: from its origins to the twentieth century, Seabury Press, 1974. *『共同体論』  

9.More Classical Revisited,Bradford Morrow ed., New Directions, 1989. *『続古典再訪』



Autobiography

    1An autobiographical novel, Linda Hamallian ed.,New Directions,1991. *『自伝風小説』


2010年以降、Rexroth の詩、文芸・社会批評について少しずつ概略紹介をして行く予定です。             

                                
                                             
 総合目次へ戻