去る7月16日(推定)、「反戦・反失業を闘う釜ヶ崎労働者の会」の代表・岡本暢夫氏が死去した。突然体の変調をきたし、自宅の布団の上で横になったまま息を引き取った。享年73歳であった。
氏は、1937年に東京で生まれた。疎開で大阪に移り住み、1957年に電電公社(現NTT)に入社後、全国電気通信労働組合(全電通)で活動を開始した。三井・三池闘争では、闘争支援のため二年間にわたり現地入りし、右翼・ヤクザや警察権力との激しい実力攻防を闘いぬいた。1964年に計画された「4・1ゼネスト」のオルグでは、全電通の東大阪組織におけるオルグを担ったが、日共の党員でもあった氏は、日共による突然の「スト中止方針」を受け、民同に責められ居場所を失うなかで、電電公社を去ることになった。その後も東大阪で日共の地区活動を担うが、日共の方針に反発して除名される。以後、職を転々としたのちに釜ヶ崎で日雇い労働者となり、全港湾建設支部西成分会で活動するなど、釜ヶ崎で寄せ場労働運動を取り組むことになる。
「釜ヶ崎労働者の会」結成の翌年である1996年以降は、阪神大震災で被災した労働者人民支援のための神戸市長田区での炊き出しを精力的に取り組むなど、「釜ヶ崎労働者の会」の中心メンバーとして、釜ヶ崎や全国の寄せ場労働運動の先頭で闘いぬいてきた。「釜ヶ崎労働者の会」や全国寄せ場交流会を代表して、全国の様々な集会で決意表明や連帯あいさつを行なう姿は、全国の労働者人民の記憶に新しいだろう。
氏は、常に釜ヶ崎労働者の立場に立ち、労働運動の豊富な経験と鋭い感性で的確な方針を指し示し、われわれの闘いをリードした。寄せ場労働運動の基調である「仕事よこせ」の要求にトコトンこだわり、あらゆる機会をとらえて仕事の獲得を追求した。国の予算を使っての「公的就労事業」の重要性をくり返し強調し、寄せ場春闘では厚労省や日建連との交渉の先頭に立った。「緊急雇用創出事業」を活用した仕事出しを大阪府や大阪市にもねばり強く要求し、釜ヶ崎で仕事を増やすなどの成果をかちとってきた。闘いの結果として仕事が増えた成果を誰よりも喜ぶ姿は、われわれをはじめ釜ヶ崎労働者を勇気づけた。
「社会党」(旧ハザマ私兵グループ)による寄せ場労働運動への敵対、福岡・築港日雇労働組合への破壊に対しても、断固として闘いぬいた。1999年12月から2002年1月まで福岡に支援に駆けつけ、脳梗塞で入院しながらも、福日労再建大会の成功まで闘いぬいた。2000年、「社会党」の襲撃を撃退したことに対して国家権力がデッチ上げ弾圧を強行し、多くの仲間が獄中に捕らわれるなかでも、氏はニセ「福日労」=ゴロツキ組合の敵対や国家権力の弾圧をものともせず、福日労事務所に常駐し、福日労の再建に尽力し、福岡における寄せ場労働運動の拠点を守りぬいた。
氏は、全電通を去らざるを得なかった悔しさと怒りを原点に、労働者を裏切り資本家と手を結ぶ「連合」などの御用組合を踏み越えるべく、国鉄闘争やパナソニック争議など、労働運動の真価が問われる闘いにも積極的に参加した。その豊かな労働運動の経験を生かし、階級的革命的全国統一センター建設のため、反安保労研運動の発展にも貢献した。「資本制生産様式の変革と諸階級の最終的廃止」のなかに寄せ場労働者解放の展望をみいだし、階級闘争全般に深い関心を持ち、闘いの発展に情熱を燃やし続けた。反戦闘争への情熱も深く、釜ヶ崎労働者として常に先頭に立って闘いぬいてきた。また、部落解放運動を闘う人士とも積極的に交流し、意見を交わし合ってきた。
氏は、情勢の分析に対する努力を惜しまなかった。われわれが直面する課題と正面から向き合い、日頃から集めた情報をもとに、闘いの方針をめぐって意見を提起し続けた。そのあふれんばかりの闘いに対する熱意のもと、氏はしばしばわれわれを叱責した。その叱責の一つ一つが、運動の正しい方向を模索させた。まさに、情熱の人であった。
高齢により体力が落ちて生活保護を受給しはじめて以降も、また、闘争参加のための長時間の移動が困難となって以降も、寄せ場にトコトン執着し、自分ができることを追い求め、「生涯現役」を貫いた。越年・越冬闘争では、歩行が多少困難となってからも、野宿している仲間のもとにおにぎりやカイロなどを手渡し、自らが野宿した苦しい経験から仲間を思いやり、元気づけた。「派遣切り」や「雇い止め」に遭った「非正規雇用」労働者の闘いにも共感―連帯し、毎月のパナソニック包囲デモや裁判闘争の支援を、体調が許す限り闘いぬいた。7・20「パナソニック&関電抗議デモ」にも結集し闘う決意の最中の死であった。まさに、死の直前まで闘いぬいた。闘いに生き、闘いのなかで逝った。
われわれは、釜ヶ崎労働運動、そして、全国の寄せ場労働運動にとって、かけがえのない仲間を失った。心から哀悼の意を表するとともに、氏の遺志を引き継ぎ、氏から学んだすべてを闘いに生かし、釜ヶ崎労働者の解放、寄せ場労働者の解放、プロレタリア解放まで闘いぬくことを、ここに決意し、追悼する。 |