2018年6月29日、部落解放同盟の西岡智さんが、タイ国内で逝去された。享年87歳であった。心からの哀悼の意を表明する。
西岡さんは、1931年4月28日、大阪・矢田の被差別部落で生まれた。1958年、部落解放同盟矢田支部を結成し初代書記長。大阪府連書記長、副委員長、中央本部執行委員、書記次長など歴任。狭山差別裁判糾弾中央闘争本部事務局長として狭山闘争を牽引し、また組織部長として各地の支部や県連の組織化に奔走する傍ら部落解放研究所の創設にかかわり理事を務める。1982年、「意見書」問題で中執をやめ、矢田に帰り特別執行委員として救対部長、矢田教育共闘会議議長を経て、矢田生活協同組合専務理事として温泉作り、特別養護老人ホームの建設等町づくり、「釜ヶ崎差別と闘う連絡会議」や野宿労働者の就労保障の「NPO釜ヶ崎機構」立ち上げなどに関わった。その後も、部落解放・人権研究所名誉理事、同反差別部会部会長。「従軍慰安婦」問題、水環境問題にも取り組んだ。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものや」(これは西郷隆盛の「南洲翁遺訓」の言葉らしい)と言いながら、その生涯を部落解放に捧げた。
西岡さんは、われわれが、自宅を訪れるといつも快く迎えてくれた。西岡さんには、多くの助言と御教授をいただいた。われわれは、西岡さんの部落解放にかける生きざまを引き継ぎ、労働者の解放を通した普遍的人間解放の道を命尽きるまで、また、代を引き継いで邁進する決意である。
最後に、西岡さんが毎回、部落解放運動活動家名で6・15闘争実行委員会と10・21闘争実行委員会に寄せて下さった連帯メッセージから引用し、追悼とする。
1960年の6月15日、私は、単独行動で安保闘争に参加していました。地下鉄・霞ヶ関駅の出口付近の路上で、機動隊の激しい放水を浴びせられ、立ち上がることもままならない状態でした。その光景を今でもはっきりと覚えています。樺さんが殺されたことは、その後で聞きました。50万を超える人々が国会を包囲し、まるで革命前夜の様相でした。
当時と比べれば、今は、ほとんどの運動が停滞を余儀なくされています。しかし、そういう時ほど、「大衆は闘わないのではない。闘う方法を知らないからだ」というレーニンの言葉を想起する必要があります。要は、リーダーの問題です。差別され圧迫された多くの大衆が心から共感し、連帯し、結集することができる運動を提示するのが、リーダーの仕事です。そのためには、最底辺、最下層の人々の中で、無私無欲で働くリーダー、人に優しく、己に厳しく、モラルとモラール(士気)を高く持ったリーダーを育てなければなりません。「人は石垣、人は城」。社会変革、人間解放の革命事業も人です。
狭山差別裁判糾弾闘争は、反差別・反権力の闘いを通して、このような人材を多く育んできました。「石川の命、わが命」「一人は万人のために、万人は一人のために」という狭山思想を培ってきました。それが一般冤罪事件との大きな違いです。だからこそ敵も、これを潰してしまおうと躍起なのです。
正念場を迎えた狭山第3次再審闘争に、必ず勝利しましょう。狭山勝利を力に、全人民解放の「熱と光」となるような部落解放運動を創りあげていきましょう。私は終生、水平社魂と狭山思想を堅持して闘いぬいていきます。
10・21闘争実行委員会
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