西成市民館で集会
1976年2月16日に大阪拘置所で鈴木国男氏(デカパン)が虐殺されてから、41ヵ年を迎えた。鈴木国男氏を知っている釜ヶ崎の労働者も少なくなっているが、「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議(釜共闘)」で闘い、全国「精神病」者集団で闘っていた鈴木国男氏が主張し闘った内容を消してはいけないという思いで、「反戦・反失業を闘う釜ヶ崎労働者の会(釜ヶ崎労働者の会)」は、2007年から糾弾集会を開催してきた。鈴木国男氏が寄せ場労働者として、また「精神病者」として、釜ヶ崎で闘った歴史や、闘いの渦中で国家権力により大阪拘置所で殺されたという事実は、単なる「歴史」ではなく、寄せ場―釜ヶ崎での闘いの中味の問題、団結の中味の問題として、今日もわれわれに問われているのだ。
本年も2月16日、「釜ヶ崎労働者の会」は、「鈴木国男氏虐殺41ヵ年糾弾集会」を西成市民館で開催し、成功をかちとった。
午後0時半、まず全体のシュプレヒコールから集会が開始される。「鈴木国男さん虐殺を糾弾するぞ!」「大阪拘置所による虐殺を糾弾するぞ!」「『障害者』差別を許さないぞ!」「『精神病者』差別を許さないぞ!」「『障害者』解放闘争の前進をかちとるぞ」「3者共闘で闘うぞ!」「団結して闘うぞ!」。つづいて「釜ヶ崎労働者の会」の仲間が、「1976年2月16日、『釜共闘』で闘い、全国『精神病』者集団で闘いぬいていた鈴木国男さん(デカパン)が、大阪拘置所で保護房に叩き込まれ、体温を下げる注射を打たれて虐殺されました。国家権力による鈴木さん虐殺を決して許さず、41ヵ年糾弾を闘いぬいていきましょう」と、開会を宣言する。
「釜ヶ崎労働者の会」の仲間からの基調が提起される。
鈴木国男氏が虐殺されたときの状況について「1976年の冬、デカパンは、『傷害』で逮捕され、大阪拘置所に勾留された。彼は、『精神病』の最中にあり、着衣を脱ぎ捨てているにもかかわらず、暖房もなく換気扇で外の寒気にさらされる中で放置された。さらに、体温を下げる注射をうたれ、凍死へと追い込まれた」とし、「デカパン虐殺41ヵ年にあたって、私たちは次のことを確認し、これからの釜ヶ崎の闘いの基調としていきたいと思います」として、以下3点にわたって提起していった。
「釜ヶ崎労働者の会」が基調提起
「(1)デカパンの虐殺は、国家権力の暴力装置である監獄内での虐殺であり、寄せ場労働者解放・『精神病者』解放の戦士であったデカパンに対する、徹底した『精神病者』差別による目的意識的虐殺であった。
(2)デカパンの虐殺は決して『過去の問題』ではない。昨年、7月神奈川県相模原市の『障害者』施設・『津久井やまゆり園』で元職員によって引き起こされた『障害者』大量殺傷事件は、このことを示している。日帝は、1940年の『国民優生法』を引き継ぐ戦後の『優生保護法』、『母子健康法』と『優生政策』を継続しており、『心神喪失者等医療観察法』、『刑法等の一部を改正する法律』と『薬物等の罪を犯した者に対する刑の一部の執行猶予に関する法律』(『刑の一部執行猶予』『社会貢献活動』)、『精神保健福祉法』改悪、『障害者差別解消法』、『成年後見制度利用促進法』と『改正民法及び家事事件手続法』、そして、超党派の議員連盟による『安楽死、尊厳死の法制化』攻撃、『病棟転換型居住系施設』構想と矢継ぎ早の戦時『障害者』差別―抹殺攻撃を仕掛けてきているのであり、その中で『津久井やまゆり園』の『大量殺傷事件』が起きているのである。
政府―国家権力は、寄せ場労働者に対してアブレ(失業)地獄―野垂れ死に攻撃を強めており、闘う労働者には弾圧を強めている。安倍極右政府による本格的戦争突撃―改憲攻撃が激しくなる中で、『在日特権を許さない市民の会(在特会)』などといった反共ファシストどもが街頭で『ヘイト・スピーチ』をがなり立て、インターネット上では差別書き込みがあふれ、差別主義・排外主義煽動の嵐が吹き荒れているのだ。これらのことを断じて許してはならない。『心神喪失者等医療観察法』撤廃をかちとり保安処分施設解体の闘いに釜ヶ崎労働者が最先頭で闘いぬこう。『精神病者』差別―抹殺攻撃を打ち破ろう。
(3)当時、寄せ場・釜ヶ崎労働運動内部でデカパンを孤立させ排除・追放する中で彼の『病状』が悪化した。『精神病者』差別ゆえに、獄中のデカパンに対する救援活動に取り組まず放置し、国家権力の差別による虐殺を許してしまった。それは、寄せ場労働運動内部で『精神病者』に対する差別があったからであり、このことを痛苦にうけとめなければならない。釜ヶ崎―寄せ場労働運動を推し進め、『精神病者』解放の闘いを強化していく上で、デカパン虐殺糾弾の闘いを避けて通る事なぞ決してできないということだ」。
以上の集会基調を全体の拍手で確認していった。
「人間を取り戻せ!―大久保製壜闘争の記録」を上映
基調提起に続いて、ドキュメンタリー映画・「人間を取り戻せ! ―大久保製壜闘争の記録」が上映された。これは1994年に「全国一般東京東部労組」が制作したドキュメンタリー映画・「大久保製壜闘争の記録」をもとに、追加取材映像を加えて2009年にリメイクされたものである。東京・墨田にある大久保製壜資本は、1970年代に「身体障害者」や「知的障害者」を半数以上雇い入れ、国や行政から多額の助成金を得ていた。大久保製壜は、国や行政から何度も表彰される「福祉モデル工場」という名前とは裏腹に、実際には、「障害者」への差別賃金、職制による暴言・暴行が横行していた。女性「知的障害者」への「セクハラ」なども行なわれ、20日間連続夜勤などもあたりまえという劣悪な労働条件だった。1975年、大久保製壜の「障害者」労働者はついに怒りを爆発させ闘いに起ち上がった。「障害者」と「健常者」は、固く団結し労働組合を結成し、大久保製壜資本の執拗な組合つぶし攻撃を、当該の固い団結と地域の労働者人民との共同闘争で粉砕し、22年にわたる争議に勝利していった。大久保製壜闘争は、労働組合運動にとって問われる団結の質において、労働者への一切の差別は絶対に許さないという原則を貫いた争議だ。参加した労働者は、迫力のある闘いの映像に熱心に観入った。絶対に敵を許さず仲間を信じ団結して闘うことの素晴らしさをあらためて実感していった。
「大久保製壜闘争の記録」上映後、参加した労働者から「『障害者』差別は絶対したらあかん」「『津久井やまゆり園』で19人も『障害者』が殺されたのは本当にひどい。どうしてそんなことをやるんや」という発言があった。その発言について「『津久井やまゆり園』の事件の背景には、『障害者』を『価値なきもの』とする優生思想があるのではないか。『障害者』19人を殺害した実行者自身はもちろん許しがたいが、優生思想の問題は自分自身も常に問われることなのではないか」と討論を深めていった。
最後に、「釜ヶ崎労働者の会」よりまとめと寄せ場春闘にむけた行動提起があり、「団結ガンバロー!」で集会を終了した。
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