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東北関東大震災被災労働者人民支援大運動を

進撃する全学連 全国大学で大学祭闘争を闘いぬく
[福井大、関西大、徳島大、九州大、沖縄大](1125号7面)

福井大学〈11月15日〉

 福井大学社会思想研究会はDVD上映会企画を行ない福井大生に革命的学生運動と「障害者」解放運動、反核・反原発運動への決起を呼びかけた。

 企画に先立ち、福井大社思研は企画への参加を呼びかけるべく、福井大学正門前にてビラまき情宣に起ち上がった。福井大は、日帝の原子力政策に寄与することを宣言し、「福島第1原発事故」後も原発輸出のための技術研究と人材育成を推し進めてきた大学である。「福井の地から反核・反原発の声を上げよう」と呼びかけるわれわれの登場は福井大生の圧倒的注目を集めた。

 11月15日、福井大社思研は「福島第一原発事故」後の「障害者」の生活を取材したドキュメンタリー「きらっといきる」と、ドキュメンタリー映画「養護学校はあかんねん!‘79・1・26―31文部省糾弾連続闘争より」のDVD上映会をフェニックスプラザにて行なった。

 ドキュメンタリー「きらっといきる」では、いわゆる「災害弱者」と呼ばれる存在である「障害者」の生活が、「福島第一原発事故」によっていかに破壊されたのか。被災した「障害者」が受けた困難さは「健常者」や他の「災害弱者」とは、どのように違うのか。「原発事故」の、今まで報道されなかった1面が浮き彫りにされた。

 続いて上映された「養護学校はあかんねん!‘79・1・26―31文部省糾弾連続闘争より」は、1979年の養護学校義務化阻止闘争を取材したドキュメンタリー映画だ。養護学校義務化を決定した文部省(当時)に対して、全障連を先頭とする「障害者」たちが養護学校義務化を阻止するために、自らの体を張って文部省を糾弾する闘争に起ち上った。養護学校義務化は「障害児」の普通学校からの排除を進めることで、「障害者」と「健常者」を隔離・分断していく。このドキュメンタリー映画は、差別に怒り、全力で闘う「障害者」の姿の克明な記録である。

 福井県は昨年10月に国際原子力機関(IAEA)と「原子力人材育成に関する覚書」を締結した。原発輸出のための人材育成の研究拠点として福井県を打ち固めようというのだ。それに積極的に関与しようとしているのが福井大である。すでに福井大は、「我が国の原子力立国計画の実現に寄与する」として、附属国際原子力工学研究所を2009年に設立し、2012年3月には同研究所を敦賀市に移転した。福井大は、「国のエネルギー政策はまだ不確定。東南アジアでは原発の建設ラッシュが続き、日本の持つ知識や技術が必要とされている。県や国への提言など使命を果たしていきたい」(学長)として、原発輸出をはじめとした日帝の原子力政策に貢献することを表明し、そのための教育・研究・人材育成を進めているのだ。こんなことを許してはならない。

 福井大社思研は、「原発銀座」といわれる福井の地から反核・反原発闘争に決起する学生の獲得に向けて粘り強く闘い続ける決意だ。大飯原発・高浜原発再稼働阻止の現地実力闘争をかちとろう。日帝の原子力政策、核武装を全力で阻止しよう。



関西大学〈11月14日〉

 11月14日、「『障害者』の解放をめざす会」は関西大学学生に革命的「障害者」解放運動への決起を呼びかけるべくDVD上映企画を行なった。

 企画に先立ち、「『障害者』の解放をめざす会」に結集する「障害者」、学生、労働者は、ビラまき情宣に起ち上がった。連日の情宣活動は、関大前を行き来する労働者、学生の注目を集めた。

 11月14日、吹田市立勤労者会館にてドキュメンタリー映画「養護学校はあかんねん!‘79・1・26―31文部省糾弾連続闘争より」のDVD上映会が行なわれた。1979年、文部省(当時)は養護学校義務化を決定。これに対して、全障連を先頭とする「障害者」たちは、文字通り体を張って文部省を糾弾する闘いにたちあがった。養護学校義務化は、「『障害者』を『健常者』社会にあってはならいもの」として「健常児」から分断する「障害者」差別そのものである。全身で怒りをあらわにして闘う「障害者」たちの映像に参加した学生たちは熱心に見入った。

 続いて行なわれた「障害者」からの話を聞く会では、今もなお、「障害者」を社会から排除しようとする攻撃がかけられていること、「障害児」の普通学校への進学がますます困難になっていること、政府の進める「介護の商品化」の攻撃の中で「障害者」の〈自立と解放〉に向けた条件が奪われていること、安倍極右政府の戦争政策のもとで、優生思想の強化と「尊厳死法」の制定が狙われていることが話し合われた。

 最後に、12月21日に行なわれる全国「障害者」解放運動共闘会議第二回大会への結集が「障害者」より企画に参加した学生に呼びかけられて、企画は成功裏に終了した。

 安倍極右政府の朝鮮反革命戦争突撃の下で、ファシズム優生思想の強化が目論まれている。「尊厳死法」制定の攻撃をはじめとした、ファシズム優生思想の強化と対決し、「障害者」差別―抹殺攻撃を粉砕しなければならない。

 闘う条件さえあれば、学生は必ず決起する。学生に闘う場所と手段、方針を指し示すことこそが革命的学生運動の責務だ。〈戦時下の新たな革命的学生運動〉の全面展開で、爆発寸前のマグマのような学生の怒りを、革命的学生運動の隊列へと組織していかねばならない。



徳島大学〈11月1日〜3日〉

 徳島大学では、11月1日〜3日の3日間に大学祭が行なわれた。

 新聞会の学生は、11月2日・3日、「『他国防衛』で戦争に向かう日本」と題して、自主制作の反戦・反核パネル展を開催した。日帝・安倍極右政府は、「積極的平和主義」を唱え、日米安保の「ガイドライン」再改定―「集団的自衛権」関連法制定へと突撃している。パネル展では、「他国防衛」や「邦人救出」を掲げ、日・米帝軍が一体となり、「グローバルな平和と安全」と称し世界中に出撃していこうとしていること、日帝・自衛隊は、米海兵隊をモデルに、オスプレイと水陸両用車を装備した「水陸機動団」の新設や沖縄・名護新基地建設の強行を狙っていること、周辺諸国の「脅威」を煽り、日・米・韓による朝鮮反革命戦争へ向けた最後の突撃を開始していること、年明け早々にも狙われている原発再稼働は核武装に向けたものであることを暴露し、革命的反戦闘争への決起が呼びかけられた。「集団的自衛権行使」容認とは、自衛隊が野放図な海外派兵を強行するということだ。日米安保が強化される中、自衛隊は、ますます労働者人民虐殺の軍隊へと変貌を遂げようとしているのだ。企画には、例年同様、多くの学生が訪れ、盛況であった。「集団的自衛権の閣議決定は許せない」、「イラクやアフガニスタンで起きたことを見て、米国などの戦争に正義はないと分かった」と、活発な討論が起こり、企画を通して、新たな学生が結集している。

 部落解放研究会の学生は、同じく11月2日・3日、狭山パネル展を開催した。再審請求から8年が経過しているが、1度の事実調べも行われないまま時間だけが経過し、東京高裁は、担当の裁判長を次々に替え、再審棄却を虎視眈々と狙っている。石川氏が、24歳で逮捕されてから、すでに51年が経過している。石川氏の怒りと無念をわがものとして、〈差別裁判糾弾・階級裁判粉砕・国家権力糾弾・打倒〉を掲げ、再審棄却策動を粉砕し、狭山闘争の歴史的勝利に向けて闘っていくことが呼びかけられ、企画を訪れた学生からは、「部落差別を利用した警察は許せない」との声が寄せられた。

 〈東北大、徳島大の全国拠点化〉に向け闘い抜き、伊方原発再稼働阻止の現地実力闘争をはじめとする革命的反戦闘争を闘い抜く決意である。ともに闘わん。



九州大学〈11月18日〉

「『障害者』解放をめざす会」が公開学習会を開催

 九州大学では、8度目の御用「九大祭」が、11月22日から2日間にわたって行なわれた。六本松キャンパスの機能が伊都キャンパスに移転してからは、6度目となる。御用「九大祭」を粉砕し、九大祭を学生の手に取り戻さねばならない。「『障害者』解放をめざす会(以下、めざす会)」は、その熱意のもとに、御用「九大祭」に対抗して独自企画に取り組んだ。

 「めざす会」は11月17日、伊都キャンパスの最寄り駅にある市民会場において、「優生思想と保安処分〜その歴史と今〜」をテーマに公開学習会を行なった。これに先立ち、伊都キャンパスや駅頭で学生たちに参加を呼びかけた。

 学習会は、新たな九大生や、地域で自立生活を送る「障害者」の参加を得て始まった。「めざす会」の仲間が、最初に優生思想について報告する。優生思想は、人の生命を「生まれてくる(生きる)価値のある生命」と「価値のないもの」とに選別するものであり、「障害者」の抹殺に直接結び付くものであること、これに基づき日本においては、戦前の「断種法」である「国民優生法」と戦後の「優生保護法」に象徴される優生政策が行なわれてきたこと、それらが現在も「母体保護法」という名で形を変えて生き続けていることが、資料をもとに提起された。また、医療技術の発達を背景に、「出生前診断」による「ダウン症」をはじめとした「障害児」の特定と「命の選別」がより頻繁に行なわれるようになっていること、それを「親の自己決定」の名のもとに正当化する動きがあることへの批判が述べられた。参加した学生からは「とてもショックだ」と率直な感想があった。

 次に、保安処分についての報告が行なわれた。前半では、保安処分の定義について、保安処分の手段としての「予防拘禁」や「特別予防」について、刑法理論における「古典学派」と「近代学派」の論争について解説が行なわれ、「近代学派」の「社会防衛論」が保安処分の大きな論拠となっていることなどが明らかにされた。後半では、ナチスの刑法理論と保安処分の実態、日本における戦前天皇制ファシズム下、そして戦後における保安処分の歴史と現状について説明がなされ、最後に「『社会防衛論』に基づく『精神障害者』隔離・収容政策を許さず、保安処分を打ち砕こう」と提起された。

 「九大祭実行委員会」は、2007年度以降、学生による選出ではなく、大学当局によって担い手が指定されて結成されている。その「実行委員会」が3年前に「授業時間の確保のため」という当局の意向をそのまま呑んだため、「九大祭」は実施期間が丸1日以上短縮されて、2日間だけの開催に切り縮められ、現在に至っている。「期間延長」(従来の日数の維持)を望む文化系サークルを中心とした学生たちの声は、「実行委員会」にも当局にも、聞き入れられなかった。

 この御用「九大祭」の実態は、「ミスコン」、「ミスターコン」が今や「恒例」となってしまったことに象徴されるように、学生の視点から社会の不正・矛盾を批判するどころか、むしろこれらを再生産するものとして、ますます腐臭を放つものとなっている。学生の承認なしに結成された「実行委員会」に、学生の総意に立つことなどできはしない。学生を統制し、腐敗を満開させるだけだ。

御用「九大祭」を打ち砕け

 その堕落ぶりは、「企画参加資格」や「罰則」に、特に如実に現れている。「実行委員会」は大学当局に成り代わり、事細かに規制基準を設け、運営における管理・統制を強めている。企画参加団体向けに行なわれた説明会の資料によると、「企画参加資格」とは、「公平・公正かつ厳格な九大祭運営のため」に設けられ、「実行委員会が資格を満たしていると判断した場合のみ企画登録を許可する」というもので、その「要件」には、「九大祭基本方針に従うこと」や「法令やその他規則を遵守すること」などの5項目が挙げられている。さらに「企画代表者資格」として「日本語に堪能な日本人であること」などの要件を設けている。平然と「国籍条項」を設けて、代表者から留学生を排除しているのだ。許しがたい差別だ。

 「九大祭基本方針」には、「酒類取扱い禁止」の他、「企画団体の義務の厳正な履行」などと書かれている。この「基本方針」や様々な諸注意・規定を「九大祭上位規定」とし、これらに違反した団体や事故などを起こした団体などには厳しい「罰則」が科される。しかも、「違反行為の認定や適用する罰則の決定は実行委員会が行う」、「違反行為が外部に及ぶ場合、罰則は上記に囚われない」などとある。「罰則」は、適用団体への罰金(保証金の一部または全額没収)から「九大祭そのものの中止」まで、「程度に応じて」4つに分けられている。「酒類取扱い禁止」について言えば、調理のために「みりん」を持ち込むことさえ禁止し、「違反」すれば保証金1万円を没収するというデタラメぶりだ。しかも、「実行委員会」から「再注意を受けた際、再注意を受けた回数だけ罰則が適用され、その回数分の罰金が発生する」という。これではもはや、大学当局による統制の範囲をも逸脱して、御用「実行委員会」による独裁政治、恐怖政治だ。許されざる有り様だ。

 こんなことまでしておきながら、驚くべきことに、「九大祭基本方針」には「学生主体の九大祭をつくる」と謳っている。完全なる言葉の誤用だ。「実行委員会」は、「個人情報(名前・住所等)の収集」、「カンパの募集」、「署名活動の実施」を「特殊行為」として規定し、これらを行なう際の事前の許可申請を課している。立て看板の設置についても事前申請と抽選によって許可することになっている。「通則」なるものをわざわざ設けて、「構外における看板等の設置、住宅へのビラの配布等」や「公開時間後の夜間、構内に常駐すること」なども禁止し、「大学本部との連絡・質問・要望等は実行委員会が代表して行います」なる文言まで盛り込んでいる。こんなもののどこが「学生主体」なのか。学生の主体性を完全に蹂躙するものではないか。

 「めざす会」は、九大生に「障害者」解放運動への決起、「障害者」と「健常者」の〈共闘・共生〉を訴えつつ、御用「九大祭」の突破、九大学生運動の革命的再生に向かってさらに奮闘していく決意を固めている。



沖縄大学〈11月2日〉

 11月2日と3日、「第55回沖大祭」が開催された。「キモチをカタチに」とのテーマで行なわれたが、とくに見るべきものは何もなかった。例年通りといえば例年通り、「身内で楽しむ」企画だけが軒を並べていた。沖縄では辺野古闘争が未来をかけた一大闘争として闘われている。実行委員会を結成した時期には辺野古闘争の様子は連日報道され、多くの労働者人民の大きな関心事となっていた。にもかかわらず、「沖大祭」は辺野古闘争について問題提起するどころかまったく触れることもなかった。これで労働者人民は「楽しむ」ことができるだろうか。

 身内とその家族にしか相手にされない、沖大生自身が「開催日を知らない」、そういった「沖大祭」に何かを期待することはできない。だが、辺野古闘争に共感を寄せ、現場を注視する学生は確かに存在する。そのような学生に生の情報を提供し、問題解決に向けて行動を促していくことはわれわれの責務である。11月2日、沖縄大学社会思想研究会は市民会場において公開学習会「辺野古〜テント村に座り込んで〜」を開催した。学習会では、新聞やブログ記事など資料を使いながら、現場の状況が説明された。参加者が注目したのは新基地建設にともなう経済問題である。「辺野古で漁獲量が87パーセントも減っている。防衛局がカネで漁師を手なずけ工事に協力させた結果だ。漁業を殺してどうして『経済振興』といえるのだろうか」「知事選では主要な経済団体が現職の仲井真を推薦する。だが『基地を撤去した方が経済的にプラスになる』という主張から仲井真を批判する声も根強いように思う」など意見が出された。社思研メンバーは、「政府や御用マスコミが流布する『沖縄は基地がなければ経済的に成り立たない』はウソである」と解説し、「お互いが顔の見える関係の中で団結を強化することが、経済的にも社会的にも閉塞感が漂う沖縄を根底から変革する契機となる。そこに現場の闘いの可能性があるのではないか」と提起する。討論は熱を帯び、時間ギリギリまで続いた。

 辺野古闘争の勝利にとって、闘う学生の現場への決起は死活的に重要な課題である。われわれは学生の組織化によりいっそう傾注していかねばならない。何としても、沖大学生運動の再建をかちとっていく決意である。