センターデモ・決起集会をうちぬく
「反戦・反失業を闘う釜ヶ崎労働者の会」は5・1メーデーを、早朝のセンターデモと決起集会、午前9時半からの上映集会として闘いぬいた。
午前4時半、赤ハチマキとゼッケンをつけた「釜ヶ崎労働者の会」の仲間は、まだ開館していない釜ヶ崎のセンター周辺に結集する。赤旗をひるがえし、センター周辺を練り歩き、開館を待つ労働者にビラを配っていく。
午前5時、シャッターが開くと同時にセンターに突入し、センター内をワッショイデモで一周する。「ワッショイ!」の掛け声や笛の音がセンター内に響き渡り、労働者からの圧倒的な注目を浴びる。一周した後、センターのど真ん中に陣取った仲間たちは、決起集会を開始する。「一人の野垂れ死にも許さんぞ!」「生きて奴らにやりかえすぞ!」「釜ヶ崎メーデーを闘うぞ!」「54歳以下の労働者も働ける仕事を出せ!」「高齢者特掃の予算を増やせ!」「被曝労働などによる使い捨てを許さんぞ!」「『労働者派遣法』撤廃!」「中東反革命戦争粉砕!」「朝鮮反革命戦争粉砕!」。シュプレヒコールがセンター内に響き渡り、注目する労働者が決起集会に参加してくる。すぐさま、基調提起に移る。「アブレ(失業)と野垂れ死にを押しつけ、朝鮮反革命戦争へと突き進む安倍連合政府を打ち倒すべく、本日のメーデーの闘いをやりぬこう!」「寄せ場春闘で俺たち『釜ヶ崎労働者の会』は、釜ヶ崎で唯一、業者(資本)に対して『春闘要求書』をつきつけて闘い、大阪府と大阪市に対しても『仕事よこせ』と要求し闘ってきた。そして、3月25日には、全国の日雇い・野宿労働者とともに『反戦・仕事よこせ』をかかげて寄せ場春闘集中行動を東京で闘った」「全世界の労働者の闘いとガッチリと結びつき、国境を越えた団結をつくりあげていこう!」。基調は圧倒的な拍手で確認されていった。次は連帯メッセージの紹介だ。沖縄・首里日雇労働組合、福岡・築港日雇労働組合、東京・山谷日雇労働組合の連帯メッセージに盛大な拍手が送られた。最後にもう一度シュプレヒコールだ。「すべての原発の廃止をかちとろう!」「日帝の核武装を阻止しよう!」「失業と戦争を押しつける安倍連合政府を打ち倒そう!」「全世界の労働者と連帯して闘うぞ!」。「釜ヶ崎労働者の会」のセンターデモと決起集会は、センター内で情宣をしていた他の釜ヶ崎の団体と比べて、圧倒的な存在感と絶大な注目を集め、大成功をかちとった。決起集会を終えた仲間たちはその後、ビラまきに移り、午前9時半からのメーデー上映集会への呼びかけを行なっていった。
西成市民館で上映集会を開催
「釜ヶ崎労働者の会」は西成市民館で午前9時半からメーデー上映集会を開催した。開始前から多くの仲間が結集してくる。集会のはじめに、早朝にセンター一周デモと決起集会をうちぬいたことが報告される。次に、釜ヶ崎メーデーのスローガンを読み上げ、基調が提起され、参加した仲間の大きな拍手で確認される。寄せられた連帯メッセージの紹介にも大きな拍手が送られた。
続いて、『フツーの仕事がしたい』というドキュメンタリーが上映される。トラック運転手が月552時間(1日18時間以上)にも及ぶ労働時間ゆえ、家にも帰れない日々が続き、心身ともにボロボロな状態におちいる。「会社が赤字だから」と賃金も一方的にカットされ、燃料代も自腹を切らされるようになる。精神的にトコトン追いつめられ、生活に限界を感じた労働者は、藁にもすがる思いで労働組合の扉を叩き、生きるための闘いを開始していく。会社の横暴と何度も体を張って対決し、ついに自らの権利をかちとる。
2本目は、『原発はいま』(1982年制作)だ。歴史的に唯一、原発下請労働者を組織して活動した労働組合があった。1981年の敦賀原発の事故隠しを契機に結成された組合である。(「全日本運輸一般労働組合関西地区生コン支部原子力発電所分会」(斉藤征二分会長)。この組合は、労働条件の改善として20項目の要求を事業所・日本原電と元請・関電興業に突きつけていく。匿名の証言、極秘資料、隠し撮りなどによって、「被曝要員」と呼ばれる下請け労働者たちの恐るべき労働実態が明らかにされていく。
参加した仲間は、2本の上映作品を自分自身のことと重ねあわせ、食い入るように見入っていた。労働者の命の犠牲なしには1日たりとも動かぬ原発、核武装のための原発は、廃止しなければならない。労働者人民の生命と現場での安全を守るのは、闘う労働組合であり労働者の団結・連帯した闘いであることを、参加した仲間は改めて確認していった。
最後に、「これからも『反戦・仕事よこせ』の闘いを団結して闘っていくこう!」と提起し、「団結ガンバロウ!」三唱で集会を締めくくった。 |