革労協中四国地方委員会
1月6日、日本原闘争を地元反対派農民として頑強に闘いぬかれてきた奥鉄男氏が急性心不全で急逝された。享年96歳であった。
奥鉄男氏は1916年、岡山県勝田郡奈義町広岡で生まれ、1938年、軍隊に召集され、「満州」に送られた。ノモンハン事件ではソ連軍との交戦を体験し、九死に一生を得る。戦争の悲惨さを体験し、戦後、日本原基地反対闘争に起ち上がり、生涯貫き闘いぬいてこられた。
1961年、奈義町議会は地元の反対を押し切り、自衛隊誘致を強行決議、氏は町長に抗議し、「暴行」のデッチ上げを受ける。1969年には奈義町議会の「帝国憲法復元決議」が強行され、1970年、2・11日本原現地闘争が開始されていく。同年四月、自衛隊は着弾地に農民が座り込んでいるにもかかわらず、3発の榴弾砲を撃ち込んだ。この暴挙に怒りが拡大する中、1971年には実射阻止・日本原基地撤去を求めて「日本原行政訴訟」が提訴され、氏は原告団として裁判闘争を闘われた。
1976年5月16日、実射阻止を闘う反対派に対して自衛隊が「弾込め! 撃て!」の号令の下、組織的投石。まさに、労働者人民に銃口を向ける自衛隊の正体をさらけ出したその時、氏は自衛隊の木銃に突かれ負傷しながらも最先頭で闘いぬかれた。
1978年12月、基地全面使用と反対運動の破壊を狙い軍用道路建設が強行された際には、重機を積んだトラックの前に座り込み、不当逮捕をものともせずに闘いぬかれた。
実射阻止、日本原基地解体の実力闘争が高揚する中、自衛隊は演習場内の自主耕作に対し「明け渡し訴訟」をおこし、氏と反対派農民・内藤氏一家を告訴。自主耕作の闘いを叩きつぶし、氏をはじめとする反対派農民の闘いを封じ込めようと損害賠償まで求めたのだ。このような攻撃に起ち向かい、氏は実力阻止闘争、演習場内自主耕作、裁判闘争と、日本原闘争を不退転に闘いつづけ、その闘いは西地区から東地区への実射=基地全面使用を今なお阻止している。
頑固ながらも気さくな人柄で、常に「戦争に行ってみて、戦争がどんなに酷いものかよくわかった」と、自らの戦争体験を労働者、学生に語りかけ反戦を訴え続けた。
2002年、2・11「建国記念の日」粉砕、日本原現地闘争での発言を最後に、体調悪化のため施設入所を余儀なくされながらも、面会に伺うたびに満面の笑顔で迎えてくださり、「墓に入るまで戦争反対を訴え続ける」と決意を語られていた。昨年の2・11闘争には「天皇制と戦争に絶対反対。自衛隊と基地はいらない。共に頑張りましょう」と熱いアピールを寄せられていた。
また、氏は、6・15安保粉砕・政府打倒全国統一行動や8・6広島反戦闘争、10・21反帝―国際連帯全国統一行動にも心を寄せ、「『お国のため』とは資本家のためということ。そのために血を流すのは労働者人民だ」「自分のためだけに生きるのではなく、世の中を変えるために、反戦の闘いをがんばってください」とわれわれの闘いに常に檄を飛ばしていただいた。
昨年10・19―21反帝―国際連帯全国統一行動に寄せていただいた「また戦争の匂いがしている。国を批判しただけで警察に引っ張られるような世の中を二度と許してはいけない。皆さんの闘いに期待しています」が氏の最後のアピールとなった。
われわれは、日本原闘争を体を張って切り拓いてきたかけがえのない先達を失った。心から哀悼の意を表するとともに、奥鉄男氏の遺志を引き継ぎ、日本原基地解体・自衛隊解体に向けて闘いぬくことを決意し、追悼とする。
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