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東北関東大震災被災労働者人民支援大運動を

東北・関東大震災下の越年・越冬闘争をやりぬく
(1003号4面)

 「力を合わせて寒さと失業をはね返し、闘って仕事をかちとろう」越年・越冬闘争をやりぬく
12・31―1・4 福岡・築港

 2011-2012年福岡日雇い越年・越冬闘争は、「力を合わせて寒さと失業をはね返し、闘って仕事をかちとろう」をスローガンに、市内博多区の明治公園を拠点にして闘われた。

 福岡では、日雇い・野宿の労働者が、朝の暗いうちから築港の寄せ場に立って仕事を探しても、求人業者がまったく来ない日が続く。福岡市行政は、生活保護の受給条件を緩和して、この3年間弱で3100人余りの日雇い・野宿の労働者に生活保護を支給した。ところが今度は「生活保護費が財政を圧迫している」と称して、急激な生活保護の締めつけに入っている。この越年・越冬闘争におけるアンケート調査にも九割近くの仲間たちが「生活保護より仕事がほしい」と回答しているが、行政はこうした声に一向に応えようとはしていない。このような厳しい状況をはね返し、ともにやり返すべく、福岡・築港日雇労働組合が先頭になって、越年・越冬闘争が取り組まれたのだ。

 事前に積み重ねられた実行委員会の会議には、多くの日雇い・野宿の仲間が参加した。越年・越冬闘争を初めて経験する仲間たちや、生活保護をとった仲間たちの参加もあった。会場の明治公園には、常時100人を超える仲間たちの顔があった。「会場内でのケンカや宴会の禁止」という、実行委員会で取り決めたルールによって、会場内には、常に和気あいあいとした雰囲気がただよっていた。仲間たちは、テントの設営をはじめ、本部、炊事、洗い場、警備などの各班で、朝早くから夜遅くまでの炊事作業、冷たい水を使った食器等の洗い物、寒風のなかでの不寝番、薪作りや薪運び、企画・ゲームの進行などの仕事を懸命にやりぬいた。この取り組みを成功させるために、支援物資の収集や整理の作業、カンパ活動や集中的な準備作業、さらには後片付けにも、たくさんの仲間たちの積極的な参加があった。

 東北・関東大震災や福島第一原発の事故を経て、多くの労働者・市民が、政府や行政に依存せず、自らの力で助け合って生きぬくことの重要さを肌身に感じている。厳しい時代だからこそ、力を合わせて生きぬこうという実行委員会の闘う姿勢は、これまで以上に多くの労働者・市民の共感を呼んだ。ビラを読んで「自分で何かをしたい」と、エプロン持参で会場にかけつけ、炊事の仕事を担ってくれた人もいる。こうした支援の人たちで、いつになく炊事場はにぎわった。洗い場でずっと洗い物をしてくれた支援もいる。衣類や布団や食料品などの支援物資も、これまでにも増して寄せられた。会場まで直接届けてくれる人も後を絶たなかった。「労働・生活・医療の大相談会」には、司法書士や看護師、歯科医師をはじめとした人びとが、仲間たちの相談に丁寧に向き合ってくれた。多くの人々に支えられて、越年・越冬闘争の成功はかちとられた。

12月31日

 朝も暗いうちから、多くの日雇い・野宿の労働者が集まった。会場の設営に手慣れた仲間も初めての仲間も、力を合わせて作業を進めていく。炊事班が用意した温かい炊き出しの頃には、ほとんどのテントが建て終わっている。さらに寝床やステージを完成させ、会場が形を整えていく。

 昼の炊き出しの後は突入集会だ。「越年・越冬闘争をやりぬくぞ」「一人の野垂れ死にも許さないぞ」というシュプレヒコールが響き渡る。実行委員会からは、「力を合わせて、野垂れ死に攻撃をはねかえそう」「餓死・凍死・病死から仲間を守りぬこう」という、越年・越冬闘争の目的が明らかにされる。続いて、支援の仲間からの連帯あいさつだ。「今年は東北・関東大震災などがあって大変な年だったが、皆で力を合わせて新しい年を迎えましょう」と、洗い場でがんばっている支援の労働者からのあいさつがあった。「今回、初めて参加した。反原発の取り組みでこの催しを知った。炊事班で頑張りたい」という支援の仲間のあいさつに拍手が飛んだ。九州大学社会科学研究部の仲間は、「越年・越冬闘争の成功をかちとり、来年の『仕事よこせ』の闘いに向かっていくために、ともに頑張りたい」とあいさつした。続いて、各班を担う仲間たちからの決意表明だ。「温かくておいしい食事をお腹一杯食べてください」は炊事班。「どんどん洗い物をするので任せてください」は洗い場班。本部からは、「皆が楽しく有意義に過ごせるように」と様々な注意事項、要望事項が述べられる。警備班からは、会場を守りぬく決意をひと言に込めて「昼も夜も頑張ります」。労働・医療・生活相談班からは、「1月2日には大相談会をやります。いつでも気軽に相談に来てください」。最後に実行委員長が。「団結ガンバロー」で集会を締めくくった。

 午後3時からは、「笑福・望年演芸披露」と銘打ったお笑い芸の数々だ。「博多にわか」や歌謡ショー、マジックやかけ合い漫談、さらには即興の一人芝居などに、仲間たちはステージ前で腹を抱えて大笑いだ。

 午後5時からは、人民パトロール隊の出発だ。越年・越冬闘争を知らずに一人で寒さにふるえている仲間がいないか、また病気などによって会場までたどり着けない仲間はいないかと、市内をパトロールして回るのだ。人パト隊員募集の呼びかけに応えた多くの仲間たちが、仲間たちに配る毛布やカイロ、防寒着や食料品、飲み物などを携え、会場全体の拍手に送られて出発する。

 夜の炊き出しの後には、お馴染みとなった「大みそか抱腹絶倒ライブ」だ。女性アーティストの唄と三味線によるパフォーマンスが、仲間たちを笑いの渦に引き込む。

 ライブの後は集会だ。「仕事がほしい」という仲間たちの切実な声を市役所に対してぶつけようと、1月4日のデモと「対市役所木曜行動」が呼びかけられた。その後もカラオケ大会が続けられ、年越しそばが振舞われるなど、皆が夜の更けるまで楽しんだ。

1月1日

 朝の炊き出しは雑煮とみかん。「今年もみんなで頑張りぬこう」と、実行委員長の音頭でお屠蘇のカンパイだ。皆が無事に新年を迎えた安堵が広がる。新年の幕開けだ。

 会場がゲームで盛り上がっている最中に、ニセ「福日労」=ゴロツキ組合がデモで向かって来たという報が入る。明治公園の盛況をねたみ、妨害することだけを目的とした下らぬデモだ。行政が窓口を閉ざすからこそ、この時期に越年・越冬闘争をやるのであって、「行政糾弾」などというスローガンを並べようとも、それがつけ足しにすぎないことは誰にでも分かる。みんなでハチマキをしめて、組合旗を先頭に表通りに打って出る。30人そこそこのショボクレ行進を、3倍する仲間たちで「お出迎え」だ。ひと頃のようにキャーキャー・ピーピーと喚く元気もすっかりなくなり、「お焼香デモ」がすっかり板についてきたようだ。惨めなものだ。労働者たちはその姿を見て、「しょぼかねえ」と失笑している。「ゴロツキ組合を追い返したぞ」という声をショボクレ行進の後ろ姿に浴びせ、「ワッショイ! ワッショイ!」と元気一杯に明治公園に引き返す。

 昼食の後は、新年総決起集会だ。越年・越冬闘争の意義を全体で確認し、「今年こそ、みんなの力で仕事をかちとろう。失業も戦争もない世の中を作るために、福日労のもとに団結して闘おう」という決意を固める。続いて、寄せられた連帯メッセージが代読される。東京・山谷日雇労働組合からは、「玉姫越冬を闘いぬく。佐藤さん虐殺27ヵ年、山岡さん虐殺26ヵ年報復を貫徹し、金町一家を解体しよう。1・15日雇い労働者全国総決起集会の大爆発をかちとろう」。「反戦・反失業を闘う釜ヶ崎労働者の会」からは、「昨年7月に亡くなられた岡本暢夫さんの遺志を引き継ぎ、2012年の闘いへ進撃しよう」。沖縄・首里日雇労働組合からは、「普天間基地解体・名護新基地建設阻止、高江ヘリパッド建設阻止を断固として闘う」。さらに、福岡の教育労働者からは、「新年は、東日本の同胞とともに、この九州に生き暮らす私たちにとっても、新たなる日の出、向上の日々にしたい」というエールが寄せられた。最後に、大分刑務所に在監中の木村(カントー)さんから、「事件から10年の春になりますが、福日労組合員の皆さん、仲間の皆さんのおかげで、無事に元気で博多に帰れます」というあいさつと、「怒りを、資本家どもと腐れ政治家どもに思う存分叩きつけて、勝利しよう」という檄が寄せられた。すべてのメッセージが拍手で確認された。

 夜の炊き出しの後は、労働者交流会だ。昼間の「生活・労働アンケート」の結果も発表される。9割近くが生活保護より仕事を望んでいるという結果だ。仕事がないことは切実だ。政府の役人どもが何の根拠も示すことができないにもかかわらず、「失対事業方式は採らない。民間雇用の拡充」などと言い続けることを許してはならない。「仕事よこせ」の闘いに勝利しようという決意がうち固められた。続いて、「木村(カントー)さんを守る会」からの報告だ。「カントーさんは、極寒の獄中にあって、東北・関東大震災の被災者に想いをはせ、昔友人だった人たちが住む町や都市の名が出るたびにドキッとし、福島第一原発事故に怒りをたぎらせている。自らの腰痛よりも、外の仲間たちのことを心配し、3月には満期での出所を果たし、福日労の活動に合流することを楽しみにしている」という報告がなされた。

 この日は降ったりやんだりの1日であったが、娯楽映画の上映も行なわれ、仲間たちはこの日も楽しく元気に過ごした。夜には一気に冷たい風が出てきたが、温かい寝床に守られて、皆快適に眠りについた。不寝番の労働者たちが会場を守りぬき、一丸となった越冬は続く。

1月2日

 早朝、「腰が痛くなって立てない」という仲間の訴えがあり、整体師が介抱した上で、救急車で病院に運んだ。「一人の野垂れ死にも許さない」目配りが越冬闘争を支える。

 午前中の「団結もちつき大会」は、小雨が時折ぱらつく天気ではあるが、もちをつく元気のいいかけ声に、まわりの仲間も呼応して大いに盛り上がった。次々とつきあがるもちを、みなで頬張る。代わる代わるもちをつく時間はあっという間だ。

 昼食の後には、「労働・医療・生活の大相談会」が開かれた。司法書士の方からは、「生活上で困ったことがあれば、何でも相談に来てください」、看護師の女性からは、「できるだけたくさんの人と健康にかかわるお話ができたらと思います」、歯科検診をしてくれる歯科医師の先生と学生のグループからは、「雨で寒いですが、とにかく相談に来てください。歯磨き講習も行います」との呼びかけが行われた。整体師は、「首の痛み、骨盤のゆがみ、股関節痛、さまざまですが、それなりに治します」と訴えた。医療相談の24人をはじめ、たくさんの仲間たちが相談に訪れた。「大相談会」終了後には、相談に乗ってくれた方々に対して、惜しみのない拍手が送られた。「大相談会」の最中にも、人パト隊は市内を回った。

 夜の炊き出し後の会場は、カラオケ大会や表彰式などで大いに沸いた。新春映画上映会の第二弾は、原発事故を扱ったドイツの作品が流され、多くの仲間たちが大スクリーンの画面に見入っていた。

1月3日

 この日は朝早くから片付けだ。軍手・タオルが配られ、作業の段取りと注意事項が説明される。テントが一斉にたたまれ、公園の掃除が行なわれていく。昼食の温かい弁当を食べ、片付けを終了した後は、恒例の「新春ジャンボ三角クジ」だ。見事に拠点越冬をやり終えたという安堵感がただよう。みんなが和気あいあいと協力し合い、ともにこの一年を闘いぬく決意が共有された。翌日の対市役所デモでの再会を誓って、実行委員長の音頭による団結ガンバローで、拠点越冬は幕を閉じた。

1月4日

 朝から激しい吹雪と強風が吹きつける大荒れの天気だ。それでも会場の須崎公園には多くの仲間たちが集まる。越年・越冬闘争をともにやりぬいた笑顔が並ぶ。やむなくデモは取りやめにして、代表団による市への申し入れ行動を行なうことが全体で確認された。全体は、日用品配布の後、「団結ガンバロー」で解散した。代表団が福岡市への要求書を携えて市役所に向かう。市役所の玄関では、対応に現れた保健福祉局総務部保護課「ホームレス担当」主査の職員に、要求が突きつけられた。日雇い・野宿の労働者の厳しい失業状態につけこんで、「福島原発事故処理の仕事」というような危険な被曝労働が押しつけられること、アンケート結果でも圧倒的多数の労働者が「生活保護より仕事」を求めていることが叩きつけられた。しかしまたしても、「要望書は受け取りました」とだけ言い残して、職員は引っ込んでしまった。代表団の仲間たちは、今年こそ仕事をかちとる決意をさらに固めた。

 行政を追いつめる闘いは、すでに開始されている。1月12日から開始された毎週の「木曜行動」において、福岡市に対する「仕事よこせ」の声が叩きつけられている。全国の寄せ場の仲間たち! 越年・越冬闘争の成功を力に、この2012年、「反戦・仕事よこせ」の闘いを、ともに闘いぬこう。



労働相談・生活相談、炊きだしで団結を深める
12・31―1・2 沖縄・首里

 沖縄・首里日雇労働組合は、12月31日から1月2日までの三日間、2011-2012年越年闘争を闘いぬいた。首里の寄せ場労働者を先頭に、朝は首里、昼は仕事にあぶれた仲間が多く集う与儀公園、夜は野宿の仲間たちが集まる平和通りにおいて、炊きだしと労働相談・生活相談を行なった。

 沖日労は、この間「反戦・仕事よこせ」の闘いを呼びかける情宣を各所で展開してきた。そうすることで沖日労の闘いを拡大し、政府と資本へ怒りをもった労働者との関係を深めてきた。「戦争のための軍事基地は、沖縄にもどこにもいらない」を掲げて青ヘルメットで普天間基地へ進撃するデモを闘った10月23日の反帝―国際連帯全国統一行動をはじめ、各闘争に決起してきた日雇い・野宿の仲間たちは、越年闘争に向けた街頭カンパ活動にも率先して参加し、年末年始の闘いに備えたのである。

 12月31日は、沖日労の1年間の闘いを紹介したビラを配布し、「反戦・仕事よこせ」の闘いへ結集を呼びかけた。これまでに配ったビラを大事に持っている労働者もおり、「いつもごくろうさま」とにこやかに声をかけてくる仲間や、「取り組みがあればいつでも参加するから」と語りかけてくる仲間もいる。沖日労は日常的な展開のなかで名護新基地建設や高江ヘリパッド建設などをめぐる諸問題について討論し、沖縄防衛局長・田中(当時)の「犯す前に犯すと言うか」という暴言に対する激しい怒りを共有してきた。そうした呼びかけに注目し共感する労働者が、越年闘争に参加してきたのである。

 1月1日は沖日労が与儀公園に到着すると、すでに多くの労働者が結集していた。「安保粉砕・政府打倒闘争を闘おう」、「普天間基地解体・名護新基地建設を阻止しよう」と訴えるビラが次々と手渡された。配食の準備作業は仲間の協力のもとで行なわれた。炊きだしはあっという間になくなった。昨年までと比べて最大数の弁当が配られた。例年以上に仲間たちが厳しい状況下におかれているということだ。多くの仲間が「今年は昨年以上に仕事がなくひどい状態だ」、「この時期は仕事がないから、炊きだしは助かるよ」と訴えてくる。ある港湾労働者は「昨年以上に物流が減少している。ふつうなら11月後半から年末にかけて正月のお歳暮など含めて船荷が増えるから仕事も出てくるが、今年はほとんど仕事がない。昨年以上に不況だ」と言う。「不況は厳しい。野宿も新顔が増えているように感じる。なかなか野宿生活から抜け出すのが困難だ」との声もある。また、ある50代の男性から「ハローワークに行ったが、年齢で切られてしまう。どうにか仕事はないだろうか」と相談がもちかけられる。沖縄の11月の失業率は6・6パーセント、有効求人倍率0・32倍と、ともに前年同月比で「改善」とされているのだが、数字に表れない苛酷な状況が日雇い労働者に襲いかかっているのである。夜は衣料放出・医療相談も行なった。風が強いときは沖縄でも震えるほどに寒い。そのため体調不良を訴えてくる労働者もいる。放出品はあっという間になくなった。ある野宿労働者は「ありがとう、とても助かったよ」と声をかけてきた。

 最終日の2日も1日同様、与儀公園での炊きだしはあっという間になくなった。組合から「今日で炊きだしは終わりですが、これからも活動は続きます。ともに団結して闘いましょう」と呼びかけると、多くの労働者がうなずいた。

 越年闘争の3日間をとおして、約300食が配食された。組合活動への要望も寄せられた。越年闘争をやりぬいた力で、「反戦・仕事よこせ」の闘いをさらに拡大させていく。