自分自身は、仏教 というかブッダの教えというものは 宗教ではなく哲学であると捉え、 真実、病んだ人間 否、世界を救える思想だと考えている。 充分に勉強したわけではないが、道元の教えは崇高にして簡潔、 その生き様は、一見起伏が少なく坦々として 映画にするならば、かなり難しいものだと思う。 (外の世界は、激動の中 良くも悪くもドラマティックだろうが…) 単に、道元の生涯を描くだけならば、大河ドラマ並みの歴史大作に仕立てるコトも出来よう。 が、しかし只の歴史ドラマに終わらせないとしたら、 その精神性を重視するあまり、演出や表現方法にもかなりの“心の制約”が作る側に生まれ、 観る側にも単なる“映画を楽しむ”以上の“何か”を生じさせる力と言うかエナジーというか そういうモノを道元には感じてしまう。 少なくとも自分は、映画の出来云々を思う以上に 道元の思想をひたすら追い、映画という媒体によって それが壊されないようにと願いながら観る、という極めて特殊な状況下で鑑賞した次第だ。 そうしたことを踏まえて、観る側が その先にドラマとして、 もう一歩踏み込めないもどかしさを感じるのも事実だ。 言葉が簡潔であってもその心が高純度に高められ、形を成さない至極観念的な上、 それを見せる映像が極力抑えたモノであるならば当然と言えば当然かもしれない。 “悟り”と言われるモノを視覚的に表現することがいかに難しいことか… 作り手側の心情は、作品より想像するしかないが、かなり御苦労されたのではないだろうか。 分かり易くドラマティックな誇張した表現をとれば、 もっとダイレクトに観る側も感動に浸ることも出来ようが、 精神的に架せられた“心の制約”、つまりは その精神性を壊したくないという思いが破られてしまうだろう。 しかしながら、“禅からZENへ”ということがテーマのひとつならば 今回の表現方法がベターかというと、そうではないかもしれない。 もしかしたら、ZENへの入口まで行けたかどうかも定かでない。 それほどまでに道元の教えは “何気なく”簡素にして簡潔、そして静謐なのだ。 ここは、鑑賞された方々に感想を聞かせて頂きたいところだ。 そうは言っても、道元の言わんとするところは 人々を拒絶するものではなく、また選択するものではない。 個人的に、そのことを体験的に実感させて貰ったのは 冒頭の道元の母の身罷(みまか)る直前の言葉、 “我が子と暮らす この世こそが御浄土。あの世に救いがあっても何の意味もない。 生きている今にこそ苦しみからの救いと平安がなければならない” ということと 最後、座禅を教えて貰っている子どもが、 教わった作法ではなく、自らの思いによって手を組み替えて座禅する姿だ。 正に、“仏は自らの中にいる”それを見つけるコトが“座る”ということ。 この世にある自分自身の中に“仏”を見てこそ、確かに世界を救える“何か”が存在する。 この子どもの描写こそ、この映画の全てと自分は受け取っている。 全ての執着を捨てる。修行ですら“悟る”ことを目的としない。 文化・芸術とは美や表現を追求する“執着”心の最も大きな作用を伴う行為だろう。 その表現方法の一つである映画で、この精神性を描き伝えるコトの何と難しいことか。 おそらくは、実感として禅が世界を救うとは、 不幸な女や執政者の救われるまでの描写を観ても感じた気分にはなれないと思う。 そういう意味で、“映画”としての劇的感動を味わうには至らない。 なにはともあれ、(おそらくは)作るにも、感想を書くにも難しい映画だった。                                 09.01.12. 鑑賞