敢えて言ってしまおう…、 “愛”は人を育むコトは出来ても、人を救うコトは出来ない。 賀来神父のとった最後の行いは、究極の“愛”の行いの一つの形だと思う。 そこまで愛されていながら結城の心は融けるコトはなかった。 一度生まれた憎しみは決して消えるコトはなく、傷ついた心は癒えるコトはない。 本作設定に於いては、原作設定よりも受け手にとっては物語性も強く、 結城や賀来という人物が何者であるのか想像しやすく、 作品への親しみ度も大きいのではないだろうか。 (原作は読んでませんので、あらすじ的なモノを読んでの印象ですが……) 実際、結城が作中で言われるところの“モンスター化”したのも、 神経ガス兵器である“MW”を吸った後遺症というだけではなく、 事件の起こった島が偶然の場所ではなく、必然、つまりは“縁”のある現場だったという設定により もっと心の問題も深く関わって来るように印象を受ける。 そうした設定の上で、映画の全編に亘って流れるモノは“悲しみ”だ。 残忍なはずの結城のとる行動に、怒りや嫌悪ではなく終には泣きそうになってしまう、 あなたの憎しみと悲しみはそこまで深く暗いのか……と。 いつもいつも、世の中に氾濫するありふれた物語達に、半ば強制されるように諭されて来た。 人は愛を知ることによって許せるはずだと。 だったらいつまでも許せないでいる人は、自分も含めておかしいのかと……。 一言でイイ、言って欲しかったのだ、 許したのではなく、沈めるしかなかったのだと。 これで自分も結城も救われると信じた賀来の究極の愛も、 憎しみより生み出された“モンスター”を葬るコトは出来なかった。 結城は告げる、「何人 人を殺しても、この渇きが癒えるコトはない」と。 復讐に終わりがないコトを知っている。虚しいモノだと分かっている。 けれど心は贖罪を求め続けるのだ。 いかに賀来が結城を愛していたのか、それが垣間見える度に その愛が救うどころか暴走させることもあり得るという遣る瀬無さ…。 まさに“愛”の無力さを真正面から投げかけた、 言わば“神への反抗”にも似た大胆不敵さにも感じる。 作中“MW”は、その存在を如何なる理由も口実も決してその正統性を与えられない 正真正銘“悪”な存在であり、とてつもない力を秘めた“魔”の存在である。 ある意味、人はこの“悪魔”に魅せられ、元の理由と目的を消し去る程の“力”で “人”ではなくなり、“モンスター”化してしまうという風にもとれる。 現代社会において、それが核兵器に代表される軍事力や 人の上に立つ権力や、そういったものと重なるから恐ろしい。 本作では、賀来の結城に対する並々ならぬ愛情が一つのキーとなると思うのだが、 結城の部屋で、賀来がナイフを突き付けるシーン、 美しくも、賀来の心情を無言で語る大切なシーンだと思うが… 残念なことに、賀来神父、ナイフを手にするの、早っ!! 何か、やけにあっさりとナイフ取りに行ってる様に見えるんですけど…。 もちょっとこう心の葛藤めいたものが見えるとイイのに…。 単なる友情とか、恩義とかそんな枠を超えた思いとか繋がりとか…、 結城が意識を手放した途端、あれよあれよと言う間にさっさとナイフ取りに行っちゃって、 自分的にはそれまで作中に没頭してたのに不意打ち喰らったような違和感があった。 とにかく、ラスト あの結城の存在は、結城個人 というよりも 全世界に蠢く憎しみ、もしくは悪意の象徴的存在なのかもしれない。 09.07.04. 鑑賞