法  話


仏作仏行(ぶっさぶつぎょう)

 ガラスが

 すきとほるのは

 それはガラスの性質であって

 ガラスの働きではないが

 性質がそのまま働きになっているのは

 素晴らしいことだ

            高見順「ガラス」 

 坐禅に励み、仏になろうとする弟子を見て瓦を磨きはじめる師匠がいた。それを見た弟子は「瓦をどれだけ磨こうと鏡にはなるまい」と意
見する。師匠は瓦を磨く手を休めることなく「坐禅をしても仏にはならぬぞ」と忠告した。

 坐禅に励み、仏になろうとした馬祖道一禅師の所縁の地を尋ねて、中国の南昌へと飛んだ。着陸態勢に入った飛行機から臨めたのは、一面
赤土の広大な農地だった。多彩な趣きを見せながら不規則に連なった田畑。農作業の労力はもっぱら、やせ細った牛たちであろう。この時期
は農閑期なのだろうか、わずかとなってしまった田畑の草を、それでものんびりとむさぼる牛の姿が、赤土の大地に黒い点となっていた。南
昌の景色にとけ込んで、あるがままを淡々と生きる牛は、とても幸せそうだ。ここに仏の姿があろう。

 翌朝、ホテルのレストランで朝食をとる。宿泊客は思いのほか多く、どのテーブルも満席状態だ。食後、おちついてあたりを見渡すと、何
とも西欧の熟年夫婦の多いことに驚いた。そして、彼らのほとんどが真新しい乳母車に寝かされ、かわいいベビー服にくるまる赤ん坊を連れ
ていた。熟年夫婦はとても幸せそうだ。乳母車から抱き寄せられた赤ん坊の顔だちは、東洋人だった。赤ん坊の両親は中国の人たちであろう
か。無邪気な赤ん坊の笑顔を見ながら「幸せって何だろう」という葛藤が、心に一点の曇りとなって澱んだ。

 師匠は鏡を仏、瓦を凡夫と譬えたわけではない。瓦は瓦のままで既に充分。それぞれの性質が、そのまま働きとなって鏡も瓦も素晴らしい
仏であることを諭そうとしたのである。高見順さんの詩にある「ガラス」を「仏」と読み替えると「仏」の性質そのままの働きができること
は素晴らしいことなのだ。それは「仏の心」そのままに生きていくことであり、そこに禅の安心があった。その後、馬祖道一禅師は「仏の
心」の教えを説くに至る。

 ガラスが性質のままに、いつでもどこでも常に透きとおっていられるために、日頃からの手入れをおろそかにはできない。だから私も日々
に仏作仏行。私も仏ならば、仏としての生き方をしていきたい。と、赤ん坊の無邪気な笑顔に気づかされる。

足立 宜了



麦を蒔きなさい

 以前、NHKのスポーツニュースで、大相撲の新弟子検査の様子が放映された時、ある相撲解説者が、
「昔、部屋の親方が新弟子のやる気を起こさせるために、『土俵には金が埋まっているぞ。しっかり稽古にはげめ。』と言ったら、その新弟
子は、親方の言葉を真に受けて、夜、こっそり起き出して、一人で土俵を掘り返して金をさがしていたということです。」と言っていまし
た。

 アナウンサーが笑いながら、「えぇ。本当ですか。」と聞くと、解説者は、「いえ、もちろん冗談ですよ。」と笑いながら答えていまし
た。

 プロ野球にも、「金が埋まっていると聞いて、夜、マウンドを掘り返していた。」という笑い話があります。

 笑い話ではなく、他人の一言によって、本当に地面を掘り返してしまった人間がいました。


 昔、能登の禅宗のお寺の和尚さんのところへ、一人のおばあさんがやってきて、
「私の息子は放蕩者で、先祖伝来の畑を売り飛ばそうとしております。どうぞ、和尚様から息子に思いとどまるように説教してやって下さ
い。」と泣きながら訴えてきました。

 そこで和尚さんは、その青年(息子)を呼び寄せて、
「よいか、あの畑には宝物が埋まっておるから決して安い値段で売ってはいかんぞ。」
と言いました。

 青年は、和尚さんの言葉に驚いて、早速、畑を隅から隅まで掘り返しました。しかし、宝物どころかビタ一文もでてきません。とうとう、
腹を立てて和尚さんのところへ怒鳴り込んで行きました。すると、和尚さんはすました顔で、
「麦を蒔きなさい。」と言いました。

 この和尚さんの一言によって、その青年は心に思い当たるものがあり、人が変わったように勤勉な農家になったということです。

 和尚さんの「麦を蒔きなさい。」という一言は、まさに、青年の心を正しい方向へ導く「愛語」となったのです。

香泉 芳宗




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