妙心寺 法話
「どう活かすわたしのいのち」



[ 2010年03月 どう活かすわたしのいのち(月刊誌「花園」より) ]
 
見えないところが大切 三つの行いの話
 
 みなさん、おはようございます。今日は、「目に見えないところが大切です。毎日、感謝の心で暮らしましょう」というお話をさせていた
だきたいと思います。
お釈迦さまは、人は生れによって立派な人や、愚かな人になるのではなく、行いによって人は優れた人になり、劣った人にもなると教えて下
さいました。まず今日は、この行いということについて、お話しさせていただきたいと思うのですが、いわゆる三つの行い(三業)というこ
とであります。行いには、三つの種類があるというのです。



   身体の行い(身業)
   口の行い(口業)
   こころの行い(意業)

 この三つの行いが私たちの人生を作ってゆく。これが仏さまのみ教えであります。順番に考えていきましょう。

 第一 身体の行い(身業)
これはとてもよくわかります。この身体を使って歩いたり食事をしたり、一生懸命働いたり、すべてこれは身体の行いであります。普通、行
いというのはこの身体の行い(身業)のことでありましょう。

 第二 口の行い(口業)
これは私たちが話している言葉であります。「おはようございます」という挨拶、「ありがとうございます」という感謝の言葉、その他その
他。そのひとつひとつが口の行い(口業)であります。
さて、この身体の行いと言葉は、目で見ることができるし、耳で聞くことができます。世間は普通、この二つの行いによって人を判断しま
す。あの人はいい人だとか悪い人だとか。そして、それでいい気持ちになったり反発したり。でも行いはこの二つだけではないとお釈迦さま
はお示しになりました。身体の行いや言葉よりも、もっと大切なもの、それは、

 第三 こころの行い(意業)
あまり聞きなれない言葉ですけれど、こころの行いというのはどういうことでしょうか。例えは少し悪いのですが、私がどうしてもゆるせな
い人があって「あの野郎殺してやりたい殺してやりたい」と千回、一万回こころの中で想っても、毎日毎日それを想い続けても、警察は私を
つかまえることはできません。心の想いは法律上の罪ではありません。法律上の罪ではありませんが、その「殺してやりたい」という想い
が、真理の立場から見たら行いであり、それが見えないところで私たちの人生を作っている。これがお釈迦さまのみ教えであります。お釈迦
さまは、身体の行いや言葉よりも、このこころの行いが最も大切であると、お示しになっているのです。

 私どもは、人の見ているところでは、そう悪いことはしません。でも、人の見ていないところが大切なのです。人の見ていないところ、こ
ころの中で、毎日どのような生活をしているのか。ここがまさに幸福と不幸の分かれ道なのだと思います。
妙心寺の生活信条に「生かされている自分を感謝し、報恩の行を積みましょう」と教えていただいております。人の見ていない、こころの中
で、いつも「ありがとうございます」という感謝の想いをもって、光の心で暮らすことをお互い練習してゆきたいと思うのです。

 朝目覚めたら、ふとんの中で数分間「ありがとうございます」と心の中で、感謝の祈りをしましょう。ありがとうございます、ありがとう
ございますとしばらく唱えていますと、心の中に明りが灯ります。その光の心で毎日ふとんを出ることを、習慣にしていただきたいと思いま
す。そして一日の生活のいろいろな場面で、この「ありがとうございます」をこころの中で唱えていただきたい。夜は「ありがとうございま
す」を想いながら眠りにつく。目に見えないところを大切に、感謝で始まり感謝で終る一日。それが幸福への一番の近道であると私は信じま
す。

山本盛徳

[ 2010年02月 どう活かすわたしのいのち(月刊誌「花園」より) ]

食べ物の幸せ

ある方が、お寺の講演でこう話されました。
「私は、食事の時のナイフとフォークがどうもなじめません。ナイフは食べ物を切り刻む道具でしょ? フォークは食べ物を突き刺す道具で
しょ。それに比べて日本人の使う『箸』は、なんて食べ物にやさしいのだろうと思います。ほぐす、はさむ、運ぶ...。日本人は長いこと、
こうして食事をしてきたのです」
箸が食べ物にやさしい、というこの感覚は、私には感動にも似た新鮮な驚きでした。
『ミカン』という詩にこんな一節があります。
「つややかな/つぎめひとつない/きんのかわを/ひきむきながらおもう/こんなにぞんざいに/ミカンをひきむいてしまって...と」
いかがでしょう。

 ミカンを見て「つぎめひとつない きんのかわ」と、とらえたのは、『ぞうさん』の詩人、まど・みちおさんです。こんなふうに見つめら
れて掌に乗り、思いやられて食べてもらえたら、ミカンだってやっぱり幸せだろうと思うのです。

 食べ物への慈しみが伝わるお二人の感性にふれ、こういう感覚は、日本人の宝物なのかもしれないなと思いました。思えば、食事をする時
の「いただきます」という挨拶も、物を頭上にかかげて頂戴する「いただく」という、へりくだった態度からきています。食べ物の命をいた
だくという、謙虚さと、相手への感謝の気持ちがこめられているのです。
禅の修行僧が使う食器を持鉢といいます。重ねるときれいにひとまとまりになる大小五つ組みの黒椀のセットですが、この持鉢を使うにあた
って、大変な決まりがあります。信じられないかもしれませんが、それは、「洗ってはいけない」というルールなのです。
ところが、この決まりを守りながら修行していても、お腹をこわすことはありません。
なぜでしょう? それは、食べながら持鉢の中をきれいにしてしまうからです。

 修行道場では、食べ残しは許されません。持鉢に付いた一粒のお米さえも残しません。それどころか、食後に熱湯を注ぎ、たくあんを使っ
て御飯のかけらをていねいに落とし、最後にはお湯と一緒に飲んでしまうのです。そして、最後の仕上げに清潔な布巾で拭き上げれば、持鉢
は、洗う必要がないほどきれいになります。洗う必要がないということは、捨てる残飯がないということです。食べ物のかけらさえ、無駄に
ならないということです。

 この持鉢の扱いでおわかりのように、私たち宗門では、食事を「命をいただく儀式」ととらえ、大切にしています。
 
 修行道場で食事の前に上げるお経は、食べ物に対する感謝の言葉であり、食事を口にするに値する生き方を自分がしているかの反省の言葉
であり、貪らない・好き嫌いをしない誓いであり...命をいただく以上は、私が責任を持って活かします、という強い決意が込められていま
す。




 食事中は、会話厳禁です。持鉢の音をカチャカチャさせることも、たくあんを噛む音さえも遠慮します。それは、わたしたちの前に、尊い
尊い命を投げ出してくれた、お米や野菜を思いやってのことなのです。

 お釈迦さまは、「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安楽であれ、平安であれ」と説かれました。さらには、「母が、命の限りお
のが一人子を護るように、そのように一切の生きとし生けるものに対して、無量の慈しみの心を起こすべし」とも。(田辺和子訳スッタニパ
ータ『慈経』)

 私たちの回りは、「生きとし生けるもの」にあふれています。日頃より体を調え呼吸を調え、そうすることによって次第に調っていく心、
こだわりやとらわれのない心で、相手の立場にわが身を置いていく。たとえそれが、食べ物の命に対してであろうとも、です。
私達はみんなが幸せになれる「同事」の教えを、こうしてまず毎日の食事の場でも、実践することができるのです。

長島宗深



[ 2010年01月 どう活かすわたしのいのち(月刊誌「花園」より) ]

悟りとは何か?

 明けましておめでとうございます。

 〈悟りって一体何だろう?〉と思っておられる方には、さらにおめでたい朗報です。
 西片義保管長さまは、この疑問にズバリ答えて下さいました。

 悟り(サトリ)とは何か?
 それは差(サ)を取り(トリ)去ることだ

 私は、身体に電気が走るような感動を覚えました。語呂合わせだけではなく、「悟り」を見事に言い当てていらっしゃると思ったからで
す。



 私は、身体に電気が走るような感動を覚えました。語呂合わせだけではなく、「悟り」を見事に言い当てていらっしゃると思ったからで
す。

 「差を取り去る」とは、自分の思いをカラッポにして、状況や相手の気持ちをそのまま受け止めることです。実は、これが今年度のサブテ
ーマ、「同事」の教えなのです。状況や相手の気持ちをそのまま受け止められれば、それらに対して正しく対処できます。正しく対処できる
とは、すなわち人の身になって尽くせるということにつながります。

 「苦しい時の神だのみ」とはよく言われますが、神様は休業の日もあるでしょうから、そんな時は「苦しい時の差取り」と覚えていただき
ますと、ご利益があると思います。
私が瑞龍寺専門道場へ入門して一か月ごろのことです。あわただしい毎日のくり返しで、少しイヤ気がさしていました。その日も、午後三時
になると風呂を焚き付け、本堂に向かいました。香炉の灰を直すためです。香炉は、朝のお勤めの時、老師が焼香をされるので毎日よごれま
す。ですから、毎日清掃しなければなりません。香炉の灰は、ちょうど富士山のように円く盛り上げ、上部を平らにして炭を置けるようにし
ます。これをバターナイフのようなもので整えるのです。時間が過ぎ去っていくので焦ります。すると形が崩れます。〈面倒くさいなあ〉と
思いつつも、自分の納得できる形に整えると、台所に戻って夕飯の支度を手伝っていました。

 夕方、老師が風呂から出られて、「出たよ」と声をかけられたので、「はい」と返事をしました。すると、前方から副司(会計)さんが通
りかかったので、老師が声をかけられました。

「あっ、副司さん、今香炉を直しておるのは誰かな?」
「はいっ、秀ソです。今度新しく入ってきた雲水です。」

副司さんが答えると、「そうかな」と言われて部屋へ帰って行かれました。
全く信じられないような会話でした。副司さんの言う「秀ソ」とは私のことなのです。 〈老師は見ていて下さったんだ!〉私は全身が熱く
なるのを感じました。副司さんへの問いかけではありましたが、明らかに私へのメッセージでした。おかげでイヤ気がさしてきた作業も、前
向きに取り組めるようになったのです。

 老師は禅問答の時、自ら叫んで答えを言ってしまわれることもありました。また、緊張感がないと見て取ると、何も悪くないのに叱った
り、逆に失敗しても本人が反省していると見れば、注意をされませんでした。ご自身も修行され、相手との差を取り去ることによって適確な
指導をされたのだと、今は思い返されます。まさに生まれようとする雛鳥が卵の内側をつつく時、外側からつついてカラを割る親鳥のよう
な、そんな「同事」の方でした。

 老師をお手本に生きるには、「差を取り去ることだ」と知りました。職場や家庭で意見が異なりますと、自己主張をし合って平行線をたど
ることがあったのです。しかし、心の引き出しから管長さまのお言葉を取り出しますと、「考えは違って当然なんだ、相手はそう思っている
んだ」と差が縮まって、口論にならず解決の糸口が見い出せそうです。
皆様のご家庭では、食事や子どものしつけ、生活習慣の違いなどで、意見が異なることはありませんか? 年頭に当たり、「悟りとは差を取
り去ることだ」と心の引き出しに納めておいて下さい。きっと老師のように良いアドバイスができ、良い一年になると思います。

飯沼宗秀



[ 2009年12月 どう活かすわたしのいのち(月刊誌「花園」より) ] 

笑顔って素晴らしい

 その人の笑顔を見なくなって、幾月過ぎたでしょう。その人の子供達は独立し、ご夫婦二人だけでの生活でした。

 ご主人が定年で退職し、自由な時間を持つことができるようになり、二人で旅行したり、畑や花を作って、楽しい日々を送ろうと話してい
た矢先、ご主人が脳溢血で倒れられて入院されました。それからその人は、家を畑を守り、一日一回は車で四十分はかかる病院へ行かれる
日々が続きました。そうしますと、徐々に心に余裕がなくなり、自然と顔つきも険しくなり、化粧もせず、心身共にお疲れの様子が窺えまし
た。



 月に一度、お家にお参りに行っていたのですが、それからは愚痴の聞き役です。何もそんな状況にあるのは、貴女だけじゃない、もっとも
っと大変な方もおられると、例をあげて話をしたり、仏教の話もするのですが、まるで耳に入らないのです。ただうなずくばかりで、自分の
不幸をわかってもらいたい一心のごとく、とうとうと話すのです。このままではその人も倒れてしまう。何とかできないものか。教え説いて
も一向に効果ありません。本人が気づく以外ないのだろうか。そうして半年が過ぎて行きました。お参りに行くのも何となく気後れしがちで
した。

 ところが、ある日お参りに行くというと、その人はきれいに化粧しておられるのです。身体の調子が良いのか、良いことがあったのかニコ
ニコして迎えてくれるのです。
話をしていて私が冗談を言うと(それまではあまり通じなかったのですが)ニッコリと微笑み、笑われたのです。あっ誌ホ顔が戻った。無邪
気な笑顔、非常に素敵で美しく感動すら覚えました。

 「奥さん、奥さんの笑顔って、ものすごく美しいですね。」と、思わず言うと、「和尚さん、またお上手言って。」と、余計笑われるので
す。そして真顔になり言われました。「和尚さん有難うございました。いろいろ教えてもらいましたが、それはすべて他人ごとだから言える
んだ。当事者になればそれどころではない。これから二人で人生を楽しもうと思っていた矢先、こんなことになり、毎日毎日その日を送るの
がやっとでした。余裕なんてありません。なぜこんなことになったのだろう。何も悪いことなどしていないのにと、身の不運を嘆くばかりで
した。ところが先日、病室の花を換えようと洗面所に行き何げなく鏡に映る自分の顔を見てビックリしました。化粧もせず、こんなきつい顔
をして毎日主人のところへ来ていたのかと、愕然としました。和尚さんが言われていた『化粧もお布施ですよ』の言葉を思いだし、昨日は久
しぶりに化粧を念入りにして主人のところへ行ってきました。そしたら和尚さん、主人が『お前、今日は綺麗だね。』って、充分に言えない
口で、笑顔をつくって言うのです。

 病院で寝たきりの主人の方が、もっともっと辛い思いをしているのだと気づきました。本当に自分のことばかり考え、心が歪むところでし
た。主人の笑顔を見た時、ホッ獅ニしました。それで和尚さんがよく教えてくれていた、お金がなくても、この身体さえあればできるお布施
(無財の七施)を書いて下さい。主人にもその教えを知ってもらいたいのです。」さっそく無財の七施(和顔悦色施・眼施・言辞施・身施・
心施・牀座施・房舎施)と、解説を書き、お渡ししました。

 御主人もリハビリに励んでおられ、お二人で旅行に行かれるのも遠いことではないでしょう。その人が思っておられた人生の楽しみを経験
できるでしょう。しかし、後々になって自分をふり返り、自分の幸福な時っていつだっただろうと考えた時、きっと、ご主人が病に倒れ、完
治を願いなりふりかまわず過ごした日々、苦しく大変だったけれど、幸福だったと気づかれると私は願い思っています。
 笑顔って、雪を融かす春の日差しのごとく、かたくなな心を解かしてくれます。

  私に下さい、あなたの笑顔を、
  そして上げて下さい、
  まわりの人達に。

土方義道


トップへ
トップへ
戻る
戻る