妙心寺 シリーズ法話





[ 2010年08月 シリーズ法話(月刊誌「花園」より) ]

【随縁】在すが如く

祖先を祀る心として、「如在」(いますが如く・おわすが如く)といいます。「そこにおいでになるように」との心です。
昭和四十九年八月のことでした。中学以来の親友T君の父上が急逝されました。どうしても外せない用事があり葬儀にはお参りできず二、三
日後にお悔やみに参りました。
祭壇にお参りして驚きました。線香立にたばこの吸殻が一杯です。なんと、線香立を灰皿代わりにしていると思ったのです。





お勤めを始めていると、T君が、たばこを吸いながら祭壇に額ずき吸っていたたばこを「親父一服どうぞ」とお供えしたのです。
お勤めを終わって、亡き父上が「無類のたばこ好き」だったと知りました。T君は、お父さんの大好きなたばこを、火をつけてお供えしてい
たのでした。よくたばこを箱のままお供えしてあります。しかし、火をつけて供えるということは滅多にありません。
「火をつけて供える」ところに、「如在」の心が思われます。
死にはせぬ どこにも行かぬ ここに居る
       たずねはするな ものはいわぬぞ (一休禅師)
私たちは、父、母の命をいただいて、今ここにあります。父母もまた、祖父母の命を、さらに祖父母はその親の命をいただいています。
先祖の血 みんな集めて 子は生まれ (入間市・宮入清次郎氏)
絶えることなく、代々のご先祖の命をいただいて、今ここにあることの有り難さに思いをいたさなければなりません。

父母の み魂は我に 生きており 身をもて信じ 露疑わず(窪田空穂)

父母の命そのものを、今、命として生かされている私なのです。「如在」。そこ、ここ、にいますのではなく、私自身なのです。
元花園大学学長盛永宗興老師のお言葉に、
「仏教で祖先の法要を大切に営むということは、祖先を尊重することを通して、自分の命の尊さを確認するということである。」とありま
す。祖先の法要を縁として、自分の命の尊さを確認するということがなければなりません。
お盆です。ご先祖への報恩感謝の祈りとともに、生かされている自分自身の、命の尊さを確認する機縁としたいものです。

微笑義教




[ 2010年05月 シリーズ法話(月刊誌「花園」より) ] 

【随縁】母を憶う

 

  母という字を書いてごらんなさい
      サトウハチロー
  母という字を書いてごらんなさい
  やさしいように見えて むずかしい字です
  恰好のとれない字です
  やせすぎたり 太りすぎたり ゆがんだり
  泣きくずれたり...... 笑ってしまったり
  お母さんにはないしょですが ほんとうです






もうすぐ「母の日」です。私の生母は、私の誕生後、数時間で亡くなりました。その日から、叔母(母の姉)が私を育ててくれることになり
ました。叔母五十五歳のときです。孫みたいなものですね。
中学二年の時、養子縁組で養母となりました。気恥ずかしい年ごろです。それまで「おばちゃん」と呼んでいたのを「お母さん」とは呼べま
せん。かといって、今さら「おばちゃん」とも呼べません。
「ちょっと」で済ますことになりました。
手紙を書くようになって「母上様」と書きました。とうとう、亡くなる(八十八歳)まで「お母さん」とは呼べませんでした。
『父母恩重経』のなかに、
「計るに、人々母の乳を飲むこと、一百八十斛となす。父母の恩重きこと天の極まり無きが如し」とありました。
百八十斛(石)はオーバーですが、敦煌から出土した経典(敦煌本)には八斛四斗となっています。実際に近い量だといわれます。即ち約千
五百リットル、ドラム缶七本半程になります。
養母は、そのお乳をもらい乳をするか、豆乳で賄ったことになります。今のように、ミルクや牛乳の無い時代です。私を懐に抱いて、赤ちゃ
んを育てている家々を回ったということです。ご苦労のほどが偲ばれ、養母の慈恩に、感謝の憶い一入です。
この経文に出会って、どうして「お母さん」と呼んで上げることが出来なかったのかと、親不孝な自分を恥じ入ったことでした。
妻の母には、素直に「お母さん」と呼べました。不思議ですね。
 慈母の乳一百八十石とかや 愛しきことば世に残りけり
                             吉野秀雄

微笑義教



[ 2010年04月 シリーズ法話(月刊誌「花園」より) ]

【随縁】唯我独尊
 


花は一様の春を知る」野に、山に、街に、花々が咲きはじめ春の訪れです。
「花」、四月八日は『花祭り』お釈迦さまのご誕生のお祝いです。

 

お釈迦さまは誕生されるとすぐに、東西南北の四方に七歩あるかれ、右手で天、左手で地をさし「天上天下唯我独尊」と言われたと伝えられ
ています。
この伝えは、後世の人がお釈迦さまの教えの内容を要約し、それを「天上天下唯我独尊」という「誕生偈」に託したということではないでし
ょうか。そう考えると「誕生偈」こそ「お釈迦さまの教えの宣言」と言えましょう。
「天上天下」は、広い宇宙全体のことをさします。「唯我」とは絶対の独り、「独尊」とは比類のない尊さです。そこで「天上天下唯我独
尊」とは「この広い宇宙に存在する全てのものは、みな比類のない尊い存在である」ということです。
昨年ヒットした、SMAPが歌う『世界に一つだけの花』という曲があります。その歌詞の一節です。
   --前略--
そうさ僕らは 世界に一つだけの花
ひとりひとり 違う種を持つ
その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい
   --中略--
そうさ僕らも 世界に一つだけの花
ひとりひとり 違う種を持つ
その花をさかせることだけに 一生懸命になればいい
小さい花や大きい花 一つとして同じものはないから
NO・1にならなくてもいい もともと特別なONLYONE!
   (LaLaLa・・・・・・)
「天上天下唯我独尊」を「世界に一つだけの花」と受け取りました。「世界に一つだけ」、ONLYONE!なのです。
小さい花や大きい花、私たち一人ひとりは、「世界に一つだけ」のかけがえのない尊い存在なのだ!とのお釈迦さまの宣言です。


微笑義教




[ 2010年03月 シリーズ法話(月刊誌「花園」より) ]
 
【好日】日々ありがとう

『万葉集』に大伴家持の歌で
うらうらに 照れる春日に ひばりあがり
こころかなしも ひとりしおもへば

という有名な秀歌があります。青い空に白い雲、緑の野原に雲雀が空高く元気に飛び上がっていく春ののどかな風景が目に浮かびます。しか
し、こころが弾むような春日よりなのに、なぜ「こころかなし」なのだろうか?「こころうれし」ではないのかと学生のころは疑問に思いま
した。



 その後、万葉時代の「かなし」は現代の「悲しい」とは意味が違い、天地万物のさまざまな存在感が身にしみてくるような感覚のことで、
「いとし」という言葉にも通じると知りました。家持は、目前の春がすぐに夏になり秋、冬へと変わるように、春の風景がのどかであればあ
るほど、人生もあっという間に過ぎていくと感じられ、いま在ることが愛おしく思えたのではないでしょうか。

 「日々是好日」という言葉があります。中国唐代末期の禅僧、雲門和尚の有名な語です。晴れの日と雨の日、楽しい日と辛い日......人生
はいろいろでありますが、この好日とは、雨の日に晴れた日のことを想い、毎日が好い日と受け取るということではありません。本当の好日
というのは、善い日、悪い日と比べるのではなく、たとえ今が辛いときであっても、その逆境を苦しみながら、好ましい日には得られない価
値と意味を見つけること、生きる喜びを得られるよう日々を悔いなく過ごすことです。

 さて、昨年の四月号から、本誌の巻頭に拙い文を綴ってきましたが恥ずかしいかぎりです。たった九百字、されど九百字で悪戦苦闘の日々
でした。しかし、三月号までという終わりがあるからこそ書けたと思いますし、人生も然りです。「散ればこそ いとど桜の めでたけれ」
という句があります。散ればこそ花が美しいと感じるのです。人生も別れがあるからこそ、いま、ここに、生きていることが何とすばらしい
ことなのか、と気づきます。

栗原正雄



[ 2010年02月 シリーズ法話(月刊誌「花園」より) ] 

【好日】尊きいのち

便利な時代になったものです。パソコンを使用するようになってから数年、使いこなすまではいかないまでも、それなりに役立っています。
たとえば、インターネット、さまざまな情報を瞬時として得られ、とても便利です。大学図書館の蔵書閲覧や美術館、博物館所蔵の絵画など
も鮮明なデジタル画像で鑑賞できます。しかし反面、何か心に引っかかるものもあります。



 以前、インド仏蹟巡拝旅行でクシナガラの釈尊涅槃の地に参拝したときのこと、沈む夕日に映された堂内の涅槃像にぬかずいて読んだ遺教
経......。その旅で得た体験は、私の中で血となり肉となり、いまでも生き続けています。そのときの心を揺さぶるような感動は、いかに鮮
明であってもパソコンのモニターに映し出された映像との出会いでは得られないでしょう。ただし、実際に現地に足を運んでも悪天候や状況
により、逆にがっかりしたこともありましたが、現実の世界は思うにまかせないものです。

 ところで、世の中がアナログからデジタル化へと変化するなかで自分の存在感が希薄になり、いのちが軽んじられてきたように思います。
自分の存在感の希薄さは、死への軽やかなさにもなるのでしょうか?日本で年間三万人を超える自殺者が出ている現状が、そのことを深刻に
物語っています。

 釈尊は二月十五日、八十歳にて入滅されましたが、亡くなる直前まで病で痛む、老いたからだをいたわりながら教えを説かれました。そし
て、弟子の阿難を伴って生まれ故郷を目指し最後の旅に出ます。途中、ヴァイシャーリーという町に立ち寄り、木々の生い茂る小高い丘から
象が振り返るがごとく、その美しい町を眺めておられます。それは山川草木、生きとし生けるすべての尊きいのちを慈しむようにゆっくり
と......。
現在、あまりにも軽んじられるいのちを憂うとき、「この世でただ一人の存在である自分」が、いま生かされている不思議に気づき、そのい
のちを輝かせることを誓う涅槃会でありたいと切に願います。

栗原正雄



[ 2010年01月 シリーズ法話(月刊誌「花園」より) ]

【好日】時間(とき)の流れ

 あっという間の一年が過ぎ、また新しい年を迎えました。誓いも新たに充実した一年を過ごしたいとは思いますが、さてさて......。
 ところで、ヨーロッパに伝わるナゾナゾです。
   一本の木に十二の枝、どの枝にも四つの巣、
   どの巣にも七つの卵があります。
 さて、この木はなんでしょう?



 わかりましたでしょうか。答えは「年」で、十二の枝が「月」、四つの巣が「週」、七つの卵が「日」だそうです。このナゾナゾの深く意
図するところは一日を卵にたとえていることです。卵は壊れやすく、腐りやすいものです。だからこそ大切に扱わなければいけません。一日
も同じです。しかし、自分を振り返るとどうでしょうか?私自身、昨年は卵をいくつ壊したでしょうか、たぶん数え切れないほどの卵を壊し
腐らして、日々を無駄に過ごしたかもしれません。
 私たちは時計を使って時間を計りますが、心理的な時間は必ずしも時計の時間とは一致しません。楽しいことをしているときは、瞬く間に
時間が経ちますが、嫌なことや、また病気などで辛く苦しいときには、一分が一時間にも感じられるものです。さらに、年を取るほどに一日
が短くなっていくことは多くの人が感じていることでしょう。私たちの感じる時間の流れは人によって千差万別です。
 むかし、中国は唐の時代に趙州和尚という禅僧がおられました。あるとき弟子から「時間は刻々と容赦なく過ぎて行きますが、一日二十四
時間をどういう心構えで過ごしたらよいでしょうか」と問われました。その問いに趙州和尚は「あなたは時間に使われているが、わたしは自
由に時間を使っているよ」と......。時間を使うのは他でもない自分自身であります。主体をどこに置くか?今年一年を、時間に使われるの
ではなく、その時間を使い切る毎日でありたいと思います。
 因みに、真実は定かではありませんが趙州和尚は百二十歳の生涯であったと伝えられています。しかし、時間に限らず、すべてにおいて、
使われるのではなく使い切ったからこ その長寿ではなかったのでしょうか。

栗原正雄



[ 2009年12月 シリーズ法話(月刊誌「花園」より) ]

【好日】其の本を務めよ

 釈尊が悟りを開かれた仏教の聖地、インドのブッダガヤへ参拝したときのことです。現地に足を運ぶことによって本や情報だけでは得られ
ない等身大の感動を頂き、釈尊の大悟された菩提樹下で組んだ坐禅はその後、私の宝になりました。十二月八日、成道の日が近づくとそのと
きの感動がよみがえり気持ちも引き締まります。



 ところで、仏蹟巡拝旅行に限らず旅の楽しみの一つが、その場所の思い出となる買物です。欲しいと思ったものがあり交渉に入ったのです
が、「あなたはいくらで買うのか?」と問われ返答できませんでした。いままでは品物に定価がついており、その値段をいかに値引きさせる
かと交渉していたのに、「いくら払ってなら品物を欲しいのか?」と逆に問われ困惑したのです。そしてその店員の一言が、私に果たして本
当に欲しいものなのだろうかと自問自答をさせてくれました。物欲だけでなく欲望というのは際限がありません。まして欲しいと思ったら何
としても手に入れたくなるのが私たちです。しかし、本当に欲しいもの、自分にとって必要なものなのでしょうか。ともすると溢れる情報や
周囲に振りまわされて不必要なものまで求めているのではないでしょうか。そんなことを考えさせられた出来事でした。

 十二月十二日は、妙心寺の開山無相大師のご命日です。開山さまは、八十四歳で遷化されていますが、行脚の旅装にて風水泉という井戸の
ほとり、老樹の下で立ったまま亡くなられたと伝えられています。そのとき弟子の授翁宗弼禅師に残された言葉『遺誡』のなかで「請う、其
の本を務めよ」と説かれましたが、その本とは何でしょうか。それは人間としての基本、仏心に目覚めよということです。しっかりと足元を
見つめて自身のうちにある清浄なる心に戻ることです。

 今年も残り少なくなりましたが、一年を省みてどうですか、あまりにも沢山のものを抱えすぎていませんか?。本当に大事なものは何かを
しっかり考え、物心ともにシンプルになって来る年を迎えたいですね。

栗原 正雄



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