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          岐阜県・正覺寺住職 足立宜了 
           黄鳥出谷(おうちょうしゅつこく)。いろいろな生きものたちが里へと繰り出す春の到来です。 
           まだ、上手にさえずることのできないウグイスも、梅の小枝へと帰ってきました。 
           菜の花が しあわせそうに 黄色して 
          細見綾子さんが、一面に咲く菜の花を詠われます。兵庫県氷上郡の山里に生まれた彼女は、十三歳のときに父親と死別。許婚者とは結婚二年 にして死別。続いて母親とも死別し、二十三歳を迎えた彼女自身も肋膜炎を発病し、長い療養生活を強いられました。そうした逆境のなかに 俳句と出逢い親しんだ彼女は、見たもの、聞いたもの、感じたものを率直かつ的確に詠いあげました。 
           乾季を迎えたインドへとわたりました。見渡す限りの大地は、まるで日本の春霞のようにぼんやりと望められました。 
           インドの片田舎の女性たちは、民族衣装のサリーを身にまとっての農作業に勤しみます。カラフルな装いを汚しはしないかと、余計なお節 介を、ついやいてしまいます。 
           大地のところどころに、黄色い絨毯を敷き詰めたように広がる菜の花畑には、それに埋もれるようにして花を摘む女性たちの姿がありまし た。インドの菜の花、サグは食用として、その油はローションとして重宝されているそうです。 
           まだ陽が昇らない暗闇に、お釈迦さまが好んで説法をされたという霊鷲山(りょうじゅせん)に登りました。ライフルを肩にしょったガイド さんが同行するのは、野生のトラを威嚇するためだと知らされたのは、下山してからのことです。 
           足下を懐中電灯で照らしながら、闇の中をひたすら頂上を目指します。四方から眺められる頂には、この山の名前の由来となったワシの頭 に似た岩がそびえていました。ここはお釈迦様の拈(ねん)じる黄色い花を看て、にっこり微笑んだ摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)が、 お釈迦さまの法を嗣いだとされる聖地です。しばらくすると、遠くの山肌をほんのり染めながら、赤い太陽が暗闇を照らしはじめました。眼 下には緑のジャングルが広がっていたのです。 
           仏道とは「無礙(むげ)の心」での道のりです。お釈迦さまの指し出した黄色い花に、にっこり微笑んで応えた摩訶迦葉尊者も、一面の黄色い 菜の花をしあわせそうだと眺めた綾子女史も無礙の人たちです。しあわせだったのは、菜の花ではなく彼女自身でした。両者の無礙な心が、 黄色い花をしあわせそうだと微笑ませたのです。その無礙な心こそが「没蹤跡(もっしょうせき)」へと誘ってくれるのです。 
           春華方開(しゅんかほうかい)。冬の厳寒を忍んできた蕾の開花する音が、至るところから響いてくるような、まだまだ息も白む早春での風 景です。 
           平安末期に後白河法皇が編んだ「今様(いまよう)」と呼ばれる歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には 
             仏は常に在(いま)せぬども 
             現(うつつ)ならぬぞあはれなる 
             人の音せぬ暁に 
             ほのかに夢に見え給ふ 
          と詠われています。蕾の開花する音を聴き、仏の姿を看ようとは「ほのかに夢に見え給ふ」刹那の幻との遭遇なのかも知れません。 
           二月十五日は、お釈迦さまがお亡くなりになった涅槃(ねはん)の日です。涅槃とは、煩悩の炎が吹き消された心のさまであり、そこには 「人の音せぬ暁」のような雑念のない底をつく清浄(しょうじょう)な静寂さを予感させます。 
             汝等(おんみら)よ、吾が終わりすでに近づき、とわの別れ目前に逼れり。されどいたづらに悲しむことを止めよ。滅びるものは壞身  (えしん)に外ならず。眞の仏はさとりの智慧にして、永久に生き存(ながら)えん。 
             吾が壞身を見るものは吾を見るものに非ず、正法(さとり)に目醒むるものこそつねに吾を見るものなり。 
          と、沙羅の林で横臥されたお釈迦さまが、別れを惜しみ泣き崩れるお弟子さんたちに最期の教えを遺されました。その日のできごとの様子 は、涅槃会に本堂に掲げられる「涅槃図」にも詳しく伺い知れます。 
           私は、この『遺教経』をお通夜の席でお唱えします。お釈迦さまの言葉として綴られた経文ですが、それは、まさに今ここで大切な亡き方 が、私たちに向けてのメッセージとして受け止めたいからです。世の移ろいに逆らえない最期のときを、我が身を以って示されたお釈迦さま の姿は、そのまま大切な方の姿そのものです。 
           お弟子さんたちが亡骸に名前を呼びかけようにも返事は返ってきません。しかし「私は、おまえさんたちの手の届かない、遠い存在になっ てしまったわけではないよ」と、お釈迦さまがやさしく諭されています。 
           『梁塵秘抄』に詠われた「人の音せぬ暁」のように、深い深い静寂さに静まりかえった心境が「ほのかに夢に見え給ふ」ことだけにも、そ っと掌を合わせさせるのです。この安らぎを「正法に目醒むるものこそつねに吾を見るものなり」と、故人は最期の教えとして私たちに遺し て頂けたのです。 
           寒気凛冽(かんきりんりつ)。移ろいの無常にあって、それすらも止めてしまいそうな人生での一番寒。 
           新年を迎え、またひとつ年を加えてしまいました。はやく大人になりたかった子どもの頃は、指折り数えて待ち望んだお正月でした。 
           この頃のアラフォーと呼ばれる四十歳前後の女性たちは、マイナス八歳をめざして日々心身のリフレッシュに励みます。 
           一方、年々やる気と根性と元気が遠のいていく後期高齢者となった私の両親は、年々加速する月日の流れに静かに身をゆだねているようで す。 
           ベトナムの僧侶、ティク・ナット・ハンさんは、お釈迦さまの一生を小説に著しました。 
             苦しみの原因は無知、無明、すなわち現実を誤って見ることです。常に変わりゆくものを永続するものと考えること、それが無知であ り、自己という固定したものがないのにあると考えること、それが無明です。(中略)苦しみは、無明から生まれます。そこから解放さ れるためには、ものごとを深く見つめて、無常の本質、独立した自己がないこと、すべてのものは相互依存して存在していることを深 く理解することです。 
          『いにしえの道 白い雲・ブッタ゛』 
          と人生での一番寒からの解放を諭すハンさんの言葉を翻訳した池田久代さんは、難解な「空」の理(ことわり)を理解しやすい言葉で綴りま す。 
           齢八十五歳を迎えた両親は、かつて教員をしながら寺を護ってきました。厳格な両親でしたが、そうしたイメージとは裏腹に、いま二人は 年々こどもへと帰っていくようす。 
           母親は認知症を患い、ときどき記憶が過去へと逆流し、ときに自分の居場所がわからなくなることは、その眼差しから伺い知れます。母親 につきっきりの父親は、手が離れたときだけ境内の掃除を手伝ってくれますが、それが私には気にいりません。使った道具をもとの場所に戻 すことはなく、掃除もおおざっぱだからです。その労をねぎらうどころか、つい不平不満が口から出てしまいます。それでも、その気まずい 空気の中を平然として部屋へと戻っていく父親のうしろ姿に、思わず言葉をのみこむのです。 
           年齢を重ねると共に、いろいろな気力が失せていくことは「無常の本質」です。しかし、幾多の無明を積み重ねてしまったであろう父親の人 生は、いつしか生きた証しとなって、未だ無常の本質を見据えようとしない私の無知無明を照らす「あかり」となってくれているのです。 
           満目蕭条。(まんもくしょうじよう)満ちようとする月日の慌ただしさをよそに、いよいよ静かに、そして神妙に今年も暮れようとしていま す。 
           十二月十二日は、妙心寺のご開山・関山慧玄禅師さまの正に六五〇年遠諱正当年月日です。 
           慧玄禅師さまのお人柄や、その生きざまは「没蹤跡」と讃えられます。それは、名声や功績にこだわることのない生きざまであり、今やる べきことを淡々と行じる姿を評した言葉です。 
           慧玄禅師さまは、妙心寺に住持する以前に美濃の伊深の山里で村人たちと生活を共にされながら、心身の装飾を捨てきる日暮らしに徹せら れました。その縁(ゆかり)から、伊深の地には妙心寺の奥の院と称される正眼寺があり、また一山越えた谷には、卜雲(ぼくうん)と寺号のか かる禅寺があります。ここは、岐阜市の瑞龍僧堂の師家であった三井大心老漢が「没蹤跡」となるための修行の場とされた小庵です。 
           あるとき、卜雲寺に出入りする大工さんが、昼どきになると七輪で火をおこし、おかずのめざしを焼き始めたのです。何とも言えなぬ香ば しさがあたりに漂う中、大心老師は「わしにもひとつおくれ」と、めざしを遠慮がちに所望されたと聞きました。 
           その生涯、肉や魚といった生臭を一切口にされなかった老師の破戒の一幕ですが、そこからは何とも言えぬ和やかさが伝わると同時に、村 人たちとひとつになって暮らされた在りし日の慧玄禅師さまの姿が彷彿されます。 
           私が瑞龍寺に入門したときには、すでに好好爺となっておられた大心老師でしたが、眼鏡の奥に光る鋭い眼光が印象的でした。しばらくす ると病床に伏せられ、余儀なく住職交代を迫られました。新住職を迎える式に引き続き、ついでのように大心老師の住職を退く式が短い読経 のみで勤められました。大心老師はゆっくりと仏前に進まれご焼香をされたのち本堂をあとにされましたが、爾来、老師が本堂でご焼香をさ れる姿を見ることはありませんでした。 
           淡々とした日暮らしを送られる中で「禅僧は空(むな)しうするもんだ」と口癖のように諭された老師は、日々に遭遇する順逆の縁(えにし) に随いながら、得意失意することのない生き方を全うされたのです。そのみごとなまでの隠居生活に身を委ねられていた老師の生きざまこ そ、空しく生きる「没蹤跡」そのものであったと回顧するのです。 
           大心老師遷化の翌日、地元新聞の見出しには「平成の良寛和尚が亡くなった」と大心老漢のことが讃えられていました。 
           黄花将闌(おうかしょうらん)。大輪の菊花は、香りを風に任せ、凛として、そして静かに咲き誇っています。 
           盂蘭盆の頃、真新しい塔婆と五色の旗で賑わっていたお墓は、秋のお彼岸を迎え、再び花筒に添えられた菊花で活気を取り戻しました。そ して今、低い冬空のもと、まもなく迎える新たな年を控えて、静かなひとときが経過しているようです。 
            塚の霜 われも苔には ちかき身ぞ 
           かつて「千の風になって」という詩が聞かれたとき、亡き人はお墓にいないのか、と お墓無用論まで飛び交ったことがありました。しか し、江戸時代の俳人・夏目成美(なつめせいび)が、長年共に暮らした妻のお墓に詣でたら、苔むすお墓にはうっすらと霜が降りていた。と、 何とも言えぬ哀れさを詠った句を味わえば、なつかしいあの人のためにお花をお供えしたい、水を手向けたいとの願いを叶えようとするとき に、掌をあわせる対象となろうお墓は、決して無用なものとはならないはずです。 
           修行僧だった頃、師匠が道場の開山さまのお墓を拝塔(はいとう)されながら「禅僧のお墓らしくていいなぁ」と、つぶやかれた言葉が、今 も耳に響きます。一般に僧侶のお墓は「無縫塔(むほうとう)」と呼ばれる卵型の石塔が建てられています。縫い目が無い塔、と書くこの石碑 には「空」の思想が託されているかのようです。一人一人の存在は、確固として独立したものではなく、万物とひとつに繋げて境界がない自他 不二(じたふじ)の虚空の世界を、その呼び名が物語っているようです。 
           開山さまのお墓には、無縫塔どころか石碑すらありません。誰のものともわからない状態でお祀りしてあったのです。ただ、土饅頭のまわ りを石の柵でめぐらしただけのお墓です。土饅頭には長年のときを経過した証しのように苔がむすんでいました。この場に生きた形跡すら遺 そうとされなかった開山さまのお墓を「禅僧のあ墓らしくていいなぁ」と、師匠は讃えられたのでした。 
           お墓に向かって掌を合わせようとするとき、成美が苔むした妻のお墓に、自らの年老いた姿を看て「しばらくしたらワシもそちらへ行く よ」と妻に語られたような。師匠が石碑のない開山さまのお墓に、自らのあり方を確認するかのようにつぶやかれたような。そうしたお墓詣 りにこそ「回向(えこう)」という、めぐり向ける功徳が伴うものだと思います。 
           相手に掌を合わせている姿が、実はそのまま自らを見つめている、そういう心情に禅の信心が伺えます。 
           万葉吟秋(まんようぎんしゅう)。綿の装いに更衣(ころもがえ)した里山は、いよいよ秋の深みを吟じます。 
           錫杖(しゃくじょう)をつき網代(あじろ)をかぶり、墨染の法衣姿の行脚僧(あんぎゃそう)は、山の錦に溶け込むように軽やかに歩みます。 山口県に生まれた種田山頭火(たねださんとうか)は、熊本県の報恩寺で得度をしたのち、行乞流転(ぎょうこつるてん)の旅を、そのまま生涯 とした俳人でした。 
           「ふめばさくさく落ち葉のよろし」 
           中国の敦煌(とんこう)は、シルクロードにあるオアシスの街です。街の郊外に一歩足を踏み出せば、そこは見渡す限りの砂漠です。この一 面の荒野を地元の人たちはゴビと呼んでいました。ゴビを貫いて、大陸の道が一本走っています。どこまでも真っ直ぐに延びる道の分岐点に 立てば、右はチベット、左は上海とその道しるべには、一歩間違えれば取りかえしのつかない存在感がありました。日本の道に迷えども、次 の路地を迂回すれば何とかなる安易さはここにはありません。古人たちは、遥かに漂う蜃気楼に惑わされ、地平線から地平線に溢れる満天の 星に方角を教えられながらの旅に月日を費やしたことでしょう。 
           「歩くほかない草の実つけてもどるほかない」 
           道中、車窓から眺めたゴビのいたるところに見えた土饅頭が、現地の人のお墓だと知りました。石碑はありません。古い土饅頭は朽ち果て ていたものの、なるほどあたらしい土饅頭には、幾枚の色紙で作られた鮮やかな荘厳品(しょうごんひん)が風にサラサラとたなびいていまし た。ゴビの人たちは、大切な人を亡くすとゴビへと亡骸を埋葬します。やがて、月日が過ぎて大切なあの人のお墓参りに出かけようとするも のの、広大なゴビに目印はありません。あの人のお墓を見失うことすらあるのです。 
           「どうしようもないわたしが歩いている」 
           募る迷いを諦めたとき、彼らは近くにある誰のものともわからない土饅頭に手をあわせて家路につくと聞きました。見ず知らずの人のお墓 に手をあわせるゴビの人たちは、大切なあの人の存在をここにも、そこにも、どこにでも看ることができるからです。 
           立体の地図模型のような、草木のないゴビとその山々は、どこまでも果てしなく広大です。日本での紅葉を楽しむような情緒や風情はそこ にはないものの、何もかもを包み込んでくれる包容力がありました。ゴビに包まれた敦煌の人たちの暮らしぶりは、山頭火が行乞流転の旅で みつけた日々と似ています。 
           「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆうべもよろし」 
           天上月円(てんじょうげつえん)。夜空の白い月輪は、闇にポカリと丸い穴を開けたよう。現状に満足しない物足りなさが、穴の向こう側の 明るさに桃源郷を垣間見る妄想をかき立てます。 
           観世十郎元雅(かんぜじゅうろうもとまさ)の作による「隅田川」は、わが子を捜し、都から隅田川まで流浪してきた母親と渡し守との能物 語です。 
           「向こう岸の柳の下に人が集まっているのは何ごとでしょう」 
          と問われた渡し守は 
           「父親と死別し、母一人に育てられてきた都の男の子が、人買いにさらわれ病気を患い捨てられました。そして息絶えた子どもを憐れんだ 里人たちは、都人も通るあの道に塚を築き亡骸を埋め、目印にと柳を植えました。今日がその一周忌で、大念仏が勤められているのです」 
          と答えます。 
           母親は、その子こそがわが子だと知り、岸へ着くなり念仏を唱えます。するとわが子の「南無阿弥陀仏」と唱える声が聞こえてきます。母 親がなおも念仏を唱えると、今度はわが子が姿を現しました。ところが、母親が抱き寄せようとするたびに、その姿はスーッと消えてしまい ます。空が白みはじめた頃、わが子と見えたのは塚にはえていた草だとわかり、母親はその場に虚しくうち伏せるのでした。 
           インドのヴァラナシ(ベナレス)は、ヒンドゥー教の聖地です。そこを流れるガンガ(ガンジス河)は、あの世へと通じる大河とされ、ガート と呼ばれる沐浴場には敬虔なヒンドゥー教徒が全国から集います。ガートでは礼拝はもちろん、沐浴する人、洗濯をする人と、そこは聖地で ありながら、彼らの生活の場そのものです。 
           桟橋から木船に乗って、向こう岸の見えない滔滔(とうとう)と流れるガンジスに身をおけば、薪が積まれた火葬場では、数人の遺族の人た ちが立ち上がる煙を静かに見守っています。その隣には死期を悟った人たちが荼毘(だび)に付される順番を待つという「死を待つ家」がひっ そりとたたずんでいました。輪廻転生を信じ、より良い来世を願って遺灰をガンジスへと流すヒンドゥー教徒の人たちです。しかし、彼らの いつも死と隣り合わせの生活を送ってる姿からは、この岸に生きぬこうとするしたたかな生きざまが伝わってきたものです。 
           死を忌み嫌い遠巻きにしてきた日本人は、自分のたたずむこの場所に満足できず向こう岸へと夢馳せますが、母親がわが子の声を聞き、姿 を見たはずの彼の岸に立てば、ここは既にこちらの岸です。再び向こう岸に夢見るよりは、こちらの岸をそのままに安堵の場としたい輪廻を 越える生活を円(まど)かな月に誓います。 
           三伏極炎(さんぶくごくえん)、迎えた夏の暑さは今年が一番。まだ、地球温暖化という言葉が聞かれなかった頃、夏ともなれば毎夕お決 まりのようにカミナリさまがやってきて、熱せられた大気と大地を涼しく潤してくれました。 
             いなびかり 北からすれば 北を見る 
           「いなづまのお多佳」こと高橋多佳子さんの句です。いなびかりがピカッと光ればパッとそちらを見てしまう、いなづまのお多佳さんの 「無心」がうかがえます。どんどんと暗くなる遠くの空に走るいなづまを横目に、全速力でこぐペダルの重さも忘れ逃げるように家路を急い だ少年の日も思い出されます。 
           当時の妙心寺は雨も漏れ放題、壁も崩れ放題の荒れ寺でした。その日、慧玄禅師はすぐさま弟子たちを呼びつけました。「おい、雨漏り だ、誰か何かもってこい」。それに応えて、ザルを手に駆けつける弟子もいれば、桶を携えて走り寄る弟子もいました。慧玄禅師は真っ先に ザルを手に駆けつけた弟子を大いに褒めて、桶を持ってやってきた弟子を叱りつけたと逸話は伝えています。 
           修行道場での夕食後、「ジリリリッ」と呼び鈴が響きました。自分にどんな都合があろうとも「ジリリリッ」と鳴れば師匠の部屋へと駆け つけなくてはなりません。それは、はじめて師匠のお世話役となった晩のことでした。初出番に張り切って暗い階段を駆け上がり、先輩から 教えられたとおりに障子戸の影で頭を廊下に垂れながら「御用でございますか」と息を調え用件を待ちました。ところが障子戸越しのためか 師匠の言葉が聞き取れません。ついには障子戸を開けて師匠の顔をのぞき込んでしまったものの、入れ歯を外された師匠の言葉はまったく理 解ができません。「何とおっしゃっているんだろう」と心中でいろいろと言葉を予測してしまうから余計に聞き取れません。らちのあかない 様子に師匠からは厳しく叱咤されてしまいました。あの日、桶を携え駆けつけたのに叱られてしまったお弟子さんに同情してしまいます。私 だって歯切れよく「はい!」と返事がしたかった。 
           北でしているいなびかりに、南を見たり東を見たり見当はずれの行いをしてしまうのは、心に携えものがあまりに多いためです。修行僧が 間髪入れず「はい!」と電光石火のごとく対処できたのは、自らの都合だけをはかることのない無心の働きでした。ザルでは雨漏りを受け取 ることは不可能なことでしょうが、慧玄禅師の心はしっかり受け取ることができました。 
          桂葉共結。大樹の木陰から天を仰げば、木漏れ日はこずえにキラキラ眩しく踊ります。 
           ちょうど頭の真上で 
           飛ぶ鳥が 
           ちつと言った 
           よし分かつた 
           と僕は言つた 
           全く僕は今まで 
           不注意だつた 
           そういう注意に 
           そういう天の声を 
           いつも聞きのがしていた 
                  高見順 詩集 わが埋葬「天の声」より(出典『高見順詩集』現代詩文庫 思潮社) 
           傍らで啼くコオロギの声に、四十二歳の白隠惠I禅師は『法華経』の説く菩薩道に泪し、のちに「水鳥樹林念仏念法の妙荘厳を目の当たり に見届けよ(すいちょうじゅりんねんぶつねんほうのみょうしょうごんをめのあたりにみとどけよ)」と仮名法話『遠羅天釜(おらでがま)』に したためました。森羅万象はそのまま「仏宝」という真理そのものであり、そのまま「法宝」という教えそのものとなる、今のこの場にほと けの世界を達観せよ、と喝破されたのです。 
           お寺の裏手にある大樹の枝葉は、伸び放題に電線を覆い、それを剪定しようにも素人には手に負えず、その落葉はおかまいなくあたりに舞 い散ることから、ついに伐採してしまうことになりました。しだいにその枝ぶりが露わとなり、裸となった幹もついには根本から切り倒され てしまいました。今までそこにあったものがそこから消えてしまった物足りなさを増幅させるかのように陽も西に傾いてしまった頃、にわか に頭上が騒がしくなってきました。声の主は住処をなくした雀たちでした。黄昏の空をあてどもなく、右往左往しながら飛び交っています。 つがいのカラスも帰ってきました。近くの電柱に止まった夫婦は、ことのなりゆきがまだ呑み込めていない様子です。寄り添いながらお互い の羽をつくろう黒い影がポツリと浮かんでいました。 
           その翌日、一羽のカラスが切り株に姿を見せ「チッチッ」と啼いて飛び去りました。人間の都合の中で大樹は姿を消し、そこに共存してい た鳥たちは住処をなくしてしまいました。思えば真夏に涼しげな木陰をつくり、子供たちに木の実を与えてくれた大樹でした。やたらと見晴 らしの効く景色の中に時代を見守り物語る存在はもう見あたりません。「全くおまえは今まで不注意だった。そういう注意に、そういう天の 声をいつも聞きのがしていた」とカァーカァーと啼いてくれないカラスは告げて、飛び去ってしまいました。 
          一雨入梅 
           あめあめ降れ降れ母さんが蛇の目でお迎えうれしいな、ピチピチチャプチャプランランラン。あらあらあの子 はずぶ濡れだ。きみ、きみ、 この傘さしたまえ。ボクならいいんだ母さんの大きな蛇の目にはいるから 
          と北原白秋は母との雨の日の出来ごとを詠います。 
          禅の語録『碧巌録』(へきがんろく)第四十六則には「鏡清雨滴声」(きょうせいうてきせい)とあります。 
           鏡清和尚が修行僧に「庭先で音がしているがあれは何の音だ」と問うに、修行僧は「雨だれの音でございす」 と答えました。すると和尚 は「みんな心を迷わし自己を忘れ、物にとらわれてしまっている」と修行僧を諭 します。修行僧が「和尚さんは何と聞かれましたか」と詰め寄ると、和尚は「ワシは自己を忘れることなどな い」と言い切りました。修行僧は「自己を忘れなければどういうことになりますか」と更に詰め寄ると、和尚 は「物にとらわれないことなど誰にもできよう。雨だれの音と自らが一つになることなどたやすいことだ。た だ、これを表現することは大概なことではいぞ」 (『無文全集』参照) 
          といった場面から、雨だれと自らがひとつになった境地を維持しつつ、人と向き合い縁に随っていくところにこ そ禅の教えがあると、山田無文老師は解釈し示唆されています。 
           妙心寺と花園会館の境を流れる宇多川は、その名前にはそぐわない情緒も風情もない殺風景な川でした。そん な川を覗き込みながら、一人のおばあさんが「かわいい花が咲いていますね」と満面の笑顔で教えてくれたので す。「どこ、どこ」と、一緒に覗き込むと、確かに赤や白の小さな花が、ところ狭しと石垣を埋め尽くし咲いて いたのです。 
           お母さんは隆吉少年に聞きました。「トンカジョン、雨の音はどんな音」隆吉少年はお母さんと一緒にいられ ることがうれしくてたまりません。ランランランと長靴を水たまりでぬらしながら「ピチピチチャプチャプ」と 応えています。そして、雨を厭うことのない隆吉少年の心が、傘のない子を見つけだし自分の傘を差し出してい たのです。 
           かわいい花を見つけたおばあさんも、心ここにあらずで物ごとにすっかり心奪われてしまっていた私に、小さ な花を差し出してくれました。おばあさんの自己を忘れることのない心境が、物ごとにとらわれない心のありか をも問いただしてくれていたのです。 
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