探検の詳細1 韓国1

海外調査記録概要 19741989  (New Page 5)
 1974 韓国 531日に釜山から韓国に入国し、済州島と慶尚南北道と全羅道を回った後、611日福岡空港に帰国し、再び712日に大阪・伊丹空港を出発し、釜山から韓国へ入国し、京畿道と江原道を回り、724日に福岡に帰国。いずれも一人旅。高速バスと鉄道を使って慣れない韓国語を使う。日本語のわかるお年寄りに聞きたい話を伺った。麦畑と路傍の雑草カラスムギを調査する。2回目は低地では麦の収穫は終えて立毛したカラスムギはない。麦畑のスズメノチャヒキは重くて大きい種子をつけていた。

 春 531 福岡発KE302便で釜山海雲台飛行場に到着し、国内線搭乗口で武器の検査を受けて済州行きのオリンピアードKE925便に搭乗し、今は北済州市になっている麦畑の中の空港に着陸する。機上からの撮影は禁止なので証拠写真はないが小火口のドームを背景にして夕陽にたなびく麦の穂があった。農村振興庁の研究員の案内で済州市の港に近い大盛荘ホテルに投宿。翌61日には済州市から下貴里、蓮洞、新村里の麦畑を巡回する。三徒一洞で矮性カラスムギを採集する。カラスムギはTae-o-liと呼ぶ。島は火山灰性の土でオオムギ、ビールムギ、菜種畑がほとんどで水田は極めて少ない。エンバクの栽培種は無い。サツマイモとトウモロコシの作付けのほか、15000haのミカンが主要産物である。同じホテルに泊まる。夕食は別室(房バンという)で白飯を摂る。
 62日には済州からKE255便で光州へ移動し、農村振興庁の職員と一緒に潭陽太田面と三素洞の畑作地をみてTtwksu旅館に宿泊。半島部ではカラスムギはKui-liと呼ぶ。裸麦が多く、コムギ、ライ麦、ダイコン、蕪菁が多い。63日は午前中に羅州郡を視察し、路傍などにカラスムギの自生を確認する。特急列車で光州から裡里市へ移動し、Yongpung旅館に投宿。64日には裡里からジープで全州へ移動し、全北大学の雑草学の教授を訪問し、旅館に宿泊。5日には全州から光州高速バスで光州へ移動し、光州でグレイハゥンドバスに乗り換え、南海高速道で晋州へ移動し、三宝荘旅館に宿泊する。
 6日には路線バスで晋州から古(固)城へ移動し乗り換え、忠武に到着する。港の公園に李舜臣の像が海を向いてそびえていた。忠武でオオムギ畑を調査後、水中翼船で釜山へ移動し、特急列車で密陽へ行き、嶺南試験場を訪問し、宿泊する。7日には試験場の近くでオオムギ畑のカラスムギを見た後、大邱を経て慶州へ移動した。8日には慶州で約束の案内人が来ないため、「聖徳女王」最終回の舞台となった将軍塚付近を探索し、慶州市の古墳公園を遠望し、将軍塚と周辺の麦畑をみた後、釜山の飛行場へ向かったものの、高速道の渋滞で飛行機に乗り遅れた。海雲台の海水浴場でNew Asia Hotelのボーイと遭遇し、そのホテルに宿泊した。
済州・慶南では矮性のカラスムギ、穂首を出さないカラスムギ、オオムギの穂に擬態したカラスムギをみつけた。
 9日は大雨で飛行機は欠航し、次の日は定期便がなかった。釜山の市内バスで龍頭山公園へ行く。バスは停留所で緩やかに動くので飛び乗って車掌に料金を渡す。地下鉄はまだ無かった。路傍のカラスムギは海雲台の線路と道路に沿って群落をなしていた。当時の釜山の空港は海雲台にあった。10日には、路線バスで市内へ行き、チャガルチ市場と公園などを散策する。コプチャンを売る市場や近代化の始まった韓国があった。611日にKE301便で釜山から板付へ帰国した。
 小機銃を持った兵隊が麦畑の間を走って、戦時下のなかで白米食は週に2日は禁止され、雑穀が混じっていた。食事は決まって韓式定食、小さなエゴマの葉をまだ憶えている。後でわかったことであるが、純白米の飯は韓国食では普通ではない。日本でも戦後に銀シャリのご飯は始まる。

 夏 2度目は712日大阪伊丹からKE306便で釜山へ渡航し、韓進バスで大邱へ行き慶北大へ行くも訪問した教授が不在でThangkum Tourist Hotelに宿泊した。13日に大邱に自宅のある嶺南試験場の友人と会った後、太田を経て清州へ行き農村振興庁の道主任に会い佳いホテルに宿泊した。14日に清州駅から出発し途中の烏致院で急行列車に乗り換え水原へ行く。清州のオオムギ畑にBromusが混じっていた。水原ではDae Song Jang Hotelに宿泊する。15日に農村振興庁の研究員とソウル大学校農科大学の標本館(HAS)を訪問した後、畜産試験場で在来エンバクを撮影し、小さなDae Song Jang Hotelに宿泊する。水原城内の食堂で夕食にトットリ・トックを食べる。16日早朝に振興庁の研究員からの電話があり、祐進高速バスでソウルへ移動し、成均館大学校の標本室(SKK)を訪問し、祐進バスで水原に戻る。17日に水原からソウルを経て春川へ移動し、府大への留学生の家族と会う。18日には春川の山地開発研究所の先生の案内で市の北方の山地へ行く。火田民の集落と農産物を視察する。コムギの栽培はあったが、カラスムギは侵入しておらず、アワが間作されていた。19日は春川近郊の春城郡の農家を訪問し、アワの栽培を確認した。20日の休息日には留学生の家族と一緒にすべて人力で構築したという春川ダムへ行く。21日には春川から路線バスで出発し、書いてもらった食事と乗り換えの案内文を見せて途中でバスを乗り換え、農村振興庁高冷地試験場を訪問し、場を案内してもらった後、路線バスに乗り、大関嶺を越えて江陵へ移動し、別宮旅館(旅人宿)に宿泊する。21日は江陵西方の畑作地へ行き、麦畑を調査するもカラスムギは皆無であった。22日に天候不順で飛ばない飛行機をあきらめ、江陵からソウル行きへの列車に乗車したものの、栄州で安東行きの普通列車に乗り換え、安東で下車し、安東から郊外バスで大邱へ行く。大邱のバスターミナルに着いたのは深夜だった。Thangkum Tourist Hotelに宿泊する。23日には大邱の慶北大学で標本室を訪問したが植物の先生が不在で閲覧を諦め、釜山へ高速バスで移動し、6月に友達になった海雲台のホテルに宿泊し、24日にKE301便で福岡へ移動し帰国した。
 目的の麦畑は火田民の畑を除いて収穫を終え、続く降雨でオオムギは穂発芽していた。火田民の麦と雑穀の畑、多様な食用豆があった。撮影した写真にワングル(カエンガヤツリCyperus exaltatus)などがある。トジョンクルという土蜂の蜜、ドングリを集めて曝した澱粉で作るトットリ・トック、自然資源を上手に使う韓国の食事文化は農学徒には新鮮だった。ドングリの樹はSang Soo Lee MookまたはTo To Ri Mookと言う。トットリ・トックは、ドングリの果実を粉砕して、粗布の袋に入れ、水にさらし出し、底にたまった粉を残して上澄みを棄てる。もう一度または適度に水を換え、新しい水を入れて加熱する。これを冷やして固化させる。
 まだ漢字混じりの新聞があり、人々は日本での評判とは違って丁寧で親切だった。高速道路の延伸などインフラの進むなかで抜けかかったハンドルをドライバーで押さえ込んで運転するような整備の良くないバスでの移動には危険も伴ったが、住民の方々に乗り換えも食事も助けて頂いた。片言の韓国語とハングルの音読ができれば旅行には支障はなかった。(根拠資料:野外調査記録(野帳19711980)、調査時切符・領収書等ファイル、スライド1974-06-01-01から1974-06-11-05および1974-07-15-01から1974-07-22-11)*ネガフィルム等はデジタル化作業中。 

1986 韓国 半島東海岸のハマダイコン調査 10/2010/25
 大邱の慶北大学蔬菜学の教授と東京学芸大の学生とともに鉄条網の張られた東海岸を北上し、海水浴場や河口の浜を回る。江陵からソウルへは高速バスで紅葉の始まった山嶺を越えて移動し、水原の種苗会社を視察して大邱に戻った。入国の日は釜山空港金海飛行場からタクシーで亀浦駅へ行き、急行列車のムグンファ号で東大邱へ移動した。帰国の日は特急のセマウル号で大邱から釜山へ行き市内を視察し、金海の飛行場から離国した。
 1021日大邱東部停留所から江口へ移動する。盈徳の南の江口里と盈徳の川口で小さなハマダイコンの群落をみて盈徳の安宿に泊まる。最盛期のカニは美味しかった。22日盈徳から寧海へバスで移動し、大津海水浴場へ行く。寧海へ戻りバスで蔚珍へ移動後、竹辺で昼食。竹辺から遠徳を経て三陟へ移動。三陟の海岸で調査後、江陵で宿泊。ハマダイコンは大津や蔚珍ではみつからず、アワやハトムギなどの雑穀の栽培がみられた。23日江陵市内から近郊の鏡浦台へ移動し視察。イネの収穫期で穂積とはさ掛けをみる。インゲンマメ(金時)や多様なカボチャが収穫されていた。江陵へ戻り、昼食後、高速バスで大関嶺を経てソウルへ移動し、江南のNew Star Hotelに宿泊する。24日ソウル近郊の種苗会社でアルタリダイコン(子ダイコンで硬く辛い)と普通のダイコン(ムウという)をみた。列車で水原から東大邱へ移動する。1025日東大邱からセマウル号で釜山へ移動し、龍頭山公園などを見て、タクシーで金海飛行場へ移動する。JL968便1310発に搭乗し、伊丹より帰国。
 短期であったこともあり、この10年ほどの近代化を垣間見た。まだ、韓式旅館が多く、ホテルは少しずつ増えていたよう。根拠スライド(86-10-21-0186-10-25-05

1987 韓国 済州島と南海海岸の調査 11/511/16
 ハマダイコンの自生地調査の目的で慶北大学蔬菜学の教授と調査。済州島では済州大学校師範大学の教授から「今どき来てもハマダイコンはみつからないよ」と言われたが、落下した莢と初期の芽生えはあるはずなので海水浴場の砂浜やトイレ周辺で調査を継続した。
 115JL0967便で大阪伊丹から金海の飛行場に到着し、KE259便で慶北大教授と同行して済州へ移動し、宿泊する。6日には済州島の東海岸を威徳、城山浦、西帰浦の順で回り、西帰浦で宿泊。城山浦では切れ葉のハマダイコンの変異体の生育を確認する。7日には中文、和順、安徳を回り済州に戻る。安徳でザッソウメロンを撮影。118日朝野菜市場をみて済州道民俗自然史博物館等をみた後、KE 158便で済州から大邱へ移動する。119日慶北大でゼミ。1110日、東洋高速バスで全州へ移動し、全州で野菜育種の現状を視察。11日は慶州を訪問し仏国寺をみる。12日大邱で休息。13日から三千浦、固城、忠武を視察し晋州で宿泊、14日に金海の南海岸を調査し、15日に大邱に戻った後、16日にJL0968便で日本へ帰国。三千浦で蒐集したヒメツルアズキは移譲先でアズキ類の遺伝解析の親として使用されている。根拠スライド(87-11-06-0187-11-16-03

1989 韓国 南海岸雑草燕麦第2次調査5/246/1
 慶北大学国際セミナーへの招待を受け、雑草学会の援助でカラスムギを調査する。524JL967便で大阪伊丹空港から出国し、釜山金海空港に到着する。タクシーで亀浦駅へ移動し亀浦からムグンファ号で東大邱へ移動する。慶北大の学生が空港に待っていたらしいが、先に慶北大学へ到着し、準備されたホテルに宿泊。ホテルは新築ではあったが室内やエレベーターの鏡など取り付け間違いのビスの穴が見える程度の整備状態。525日と26日は慶北大学校で会議する。27日はエクスカーションで蔚山市の現代自動車工場を視察した後、慶州へ移動。現代自動車では外貨獲得のスローガンが掲げられていた。慶州では仏国寺と瞻星臺などを視察。会議後半のサテライトゼミなどには参加せず、28日には慶北大生と倭館の市場および清道の川岸をみる。29日には釜山のチャガルチ市場でアズキの市販状況を見る(中区南浦洞2街ソウルカクトギで夕食、釜山宿泊KwangJang観光ホテル)。30日には釜山東部の松亭でカラスムギの調査後、水中翼船で釜山から忠武へ移動し、74年と同じ麦畑でカラスムギを観察。短縮穂のカラスムギはなかったが矮性燕麥の生育を確認した。観光地として開発が進み、ホテルなどが出来ていた。ふぐ料理屋など、食堂も高度化している。31日には大邱に戻り滞在し、61日にJL968便で金海空港から大阪へ帰国。根拠スライド(89-05-27-0189-05-30-14