自分自身を理解するために



「自分って何?」という疑問は、昔から多くの人々の興味の対象の一つです。しかし、現在でも、その疑問に対して納得のいく答えは得られていません。 そこで、自分自身がわからない理由と、それに対する対策をまとめておきます。

「絶対」vs「相対」
最近の「心」の研究は、「記憶をつかさどる場所」や「快感をつかさどる物質」など、脳の場所や化学物質を特定するのが主流です。ところが驚くことに、それは数ミリにも満たない場所だったり、微量の化学物質だったりします。一体どうすれば、その小さな場所や、少ない量で心ができるのでしょうか・・・? これらは単に、不明な事柄を部分に集約しているだけのような気がしてなりません。そこでこのホームページでは、脳の場所を固定するのではなく、脳を「組み合わせの場」として相対的に考えます。

「部分」vs「全体」
恐らく、多くの人は「理論を緻密に組み合わせれば、世の中のすべてのことを証明できる」と考えていると思います。しかし、生命に関する問題は、同時に多数の化学反応が生じる複雑なものです。このような多体問題は、部分的で細かな理論よりも、全体的な性質の理解の方が大切だと思われます。

「目的」vs「結果」
自然現象には、意思がありません。もし意思を用いるならば、意思とはどういう自然現象なのかを示す必要があります。ところが、心の解釈に用いられる自然現象には、何の説明もなく意思があります。例えば、「脳が・・・を求める・・・」というような表現があります。「脳が求める」ことと、「私が求める」ことは同じことです。言葉を言い換えただけで何の説明にもなっていません。

つまり、自然現象は、何かの目的があって生じるわけではないのです。ある原因を設定した結果、生じるのです。例えば、太陽は、我々を温めるために輝いているわけではありません。太陽が輝いた結果我々が温まるのです。それを踏まえておけば、妙な解釈をしなくてすむと思います。

「百聞」vs「一見」
心を表す言葉は、科学的な実証のために発達したわけではありません。脳の構造など知らない人々から受け継がれてきたものです。だから、言葉に振り回されていては構造を理解することはできません。思い切って、言葉を無視して構造優先でいきます。

「超常現象」vs「自然現象」
神様、幽霊、超能力、占いなど、我々は多かれ少なかれ超自然的な思想と共に暮らしています。超常現象を信じることは、豊かな人生のために必要なことです。しかし、「心」に超常現象を持ち込んだ瞬間に話は終わり。・・・疑問は解決しません。だから、あくまでも自然現象として解釈する必要があります。

「失望」vs「希望」
自分自身についての考えが混乱してくると、「心に関するテーマは、人知を超えたものではないか・・・」と失望することがあります。しかし、どんなに不可思議に見える現象も「魔法」ではありません。必ず、人の理解できるからくりがある、いわば良くできた「手品」なのです。

「願望」vs「現実」
我々は、自分自身が何か特別な存在であってほしいという願望を持っています。自分が機械と同じだと思いたくないのです。機械と変わらないとしたら、自分がとても安っぽいもののように思えてしまうのです。でも、真実は、いつでも残酷なものです。そして、このホームページでは、その残酷を少しだけ覗いてみたいと思うのです・・・。

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