一つの時代、その終焉と黎明「いのちの言葉」(福昌堂)より
午前零時過ぎ、急を知らせる携帯電話が鳴った。
「館長が呼吸できなくなって、救急車で運ばれていきました」
芦原館長のご子息英典氏の声である。
知らせを受け、私も思いつく限りの必要処置をとりながら、急遽病院まで車を
走らせた。なぜかその夜は寝つくことができずに、何度も寝返りをうちながら、
いろいろなことを考えていた。その矢先だった。
病院に着くなり、「身内の方ですか?身内の方以外は病室から出てください」
と担当医師から告げられる。この言葉はことの重大さを意味していた。
芦原先生の病名は「ALS(筋委縮側索硬化症)」であった。別名「ホーキング
病」とも呼ばれ、運動神経が徐々に冒されていく、何万人に一人といわれる難病
中の難病であり、今もって完全な治療法が発見されていない。持ち前の負けじ魂
で、約二年半にも及ぶ期間、病と闘い続け、入院を拒否しながら、つい昨日まで
館長業務に携わっていた。
「お父さん、頑張って」
ご家族が手を握り締め、懸命に励ましの声を送る中、心拍数を示す機械だけ
が、ピッビッと正確に時を刻む。
医師団の一時間三十分に及ぶ治痛の甲斐なく、午前二時四十八分、不帰の人と
なる。いや、長い聞病生活の末に、ようやく、ゆっくりとした休みをとっていた
だけた、といった方が適切かも知れない。
私は英典氏と共に、すぐ道場へと引き返した。芦原先生に着ていただくため
に、先生の道着を持ってくるためである。道場へ戻る車中、英典氏は目を真っ赤
にしながら、真っ直ぐ前を見つめ、
「館長が、救急車が来るまでの間、しきりに文字盤、文字盤と目で合図するんで
すよ。そして自分に『後を頼む』と文字盤で伝えたんです。あんな状態になって
も……。自分はやりますから、どんなことがあっても」
と、自分自身に言い聞かすように語っていた。
ひっそりとした道場。さっきまで先生がいた部屋から道着と帯を持ち出し、病
院へと引き返す。先生に道着を着ていただき、帰り支度を済ませ、先生を乗せた
車は、ゆっくりと道場へ向かった。
車が道場に近づくと、真っ暗な夜の間に、こうこうと照る道場の明りが目に入
ってくる。午前四時だというのに、道場前では、総本部の会員約三十名が一列に
整列して、先生の帰りを「押忍」の挨拶で迎えた。
いかなる状況になっても、自然体でいるように、という先生の教えを常日頃か
ら伝えてあっただけに、みんなの顔はりりしく、むしろこれから何をなすべきか
を心得た、責任感溢れる顔つきをしていた。
先生には、久し振りの道場でゆっくりと休んでいただいた。この約三年間、先
生は
「この姿で道場に出ると、会員のみんなに迷惑がかかるから」
と言って道場に足を踏み入れることはなかったのである。
「俺が逝ったら、内々で送ってくれればいいから。今いる会員だけで見送ってく
れたらそれでいいから」
という生前の言い付け通り、葬儀は芦原家葬と芦原会館葬とを兼ねた形で行っ
たにも関らず、日本全国から約千人もの方々のご参列をいただいた。
遣影の前でぴざまずき、
「館長ありがとうございました」
と涙ながらに言いながら頭を下げる会員の姿。
通夜の席上、喪主である英典氏は、挨拶の中で、
「この日が、館長が道場で指導される最後の稽古と思います。今から、稽古の締
めとして、館長に最後の挨拶をしたく思います」
と告げると、出席者全員が正座をし、
「背筋を伸ばして、黙想!」
の声と共に道場はシーンと静まりかえり、黙想が二、三分続いた後、英典氏の
「館長にありがとうございました」
という声に続き、全員が
「ありがとうございました」
と礼をする。
「これで先代の稽古を終わります」
一同、
「押忍」と締めた。
以前は会館に在籍しながらも、仕事などの都合から、空手を続けたくても続け
られなかった方々のご参列も非常に多かった。道場から離れ、みんなと一緒に汗
を流すことができなくても、実社会においてもまれながら、芦原空手の精神は育
っているのだ。
芦原先生が亡くなって、確かに一つの時代は終わった。しかし、いつまでも過
去を振り返っているわけにはいかない。過去にいつまでもこだわっていること
は、何よりも先生ご自身がいちばん嫌っていたことなのだ。葬儀の翌日には、い
つもと変わらぬ稽古が間始された。
現在、無数の流派が混在する空手界において、芦原会館が本当の評価を受けら
れるかどうかは、今後の活動いかんにかかっている。
「レールは敷いた。心して渡れ」
先代館長の言葉を胸に、二代目英典館長を中心にして、新生芦原会館はスター
トした。
新しい時代の始まりである。