粉河寺の由来

  
                            2000.7.14更新
                            2001.10.7更新

西国第三番霊場粉河寺の由来ですが、草創が宝亀元年(770)といわれるから奈良時代後期。
大伴孔子古(おおともくじこ)という猟師がこの地、風猛山(かざらぎさん)で猟をしているとき、ふいに光が差し
その尊厳さに孔子古は日頃の殺生を悔い、光のさした場所に草庵をむすんだ。
そして仏像をまつりたいと思ううち、ある日、子供姿の修行僧がきて一夜の宿を求めた。
孔子古が仏像を求めていることを知った行者は、お礼に七日の間に
千手千眼観世音菩薩像を刻み姿を消した。行者は観音の化身童男行者であった。
時は、宝亀元年のことで、観音像は今日なお伝えられる粉河寺本尊である。
同じ頃、河内国讃良の郡の長者、佐太夫の娘が重病にかかり、あらゆる手を尽くしても治らなかった。
そこへ子供姿の行者が来て一心に祈り、やがて娘は回復した。佐太夫は七珍万宝の礼をしようとしたが行者はうけとらず、泣く泣く娘が捧げる提鞘と袴のみ手にして「わが住まいは紀伊の国那賀郡の粉河」とのみ告げて去った。 次の年、佐太夫は一家を引きつれ、那賀郡へ来て粉河を尋ねても人はしらず、ふと目の前の小川の白さに気がつき、これこそ粉河だと川をさかのぼるうち、川上に草庵をみつけた。  
そしてそこに、きららかに千手観音がお立ちになっているのを見、しかもその施無畏の御手に袴をかけ提鞘をさげていられるのを確かに見たのである。 
佐太夫らは、かの行者こそ観世音菩薩の化身であったのだと悟り、その場で出家し、ここに堂宇を建立した。
これらの話は
粉河寺縁起として寺宝の絵巻に伝えられている。 
紙本著色粉河寺縁起
 縦30.6cm 、全長19.58mの紙本著色絵巻。絵五段、詞書四段からなり、絵は
鳥羽僧正、詞書は堤中納言定家と伝えるが確証はない。現状は火災のため最初の絵と詞書を失っており、画面上下に焼けあとを残している。
 絵は、軽い筆致で描かれており、さいしょくもうす手で、観音像のおだやかな顔立ちには宗教的感動がこめられている。
奥書はないが、鎌倉時代初期(12世紀)の制作と考えられ、当時の作品としては信貴山縁起(国宝)と並ぶ優品。
普段は非公開であるが、昭和49年、東京国立博物館で開かれた絵巻展に出陳されて、多くの注目を集めた。
和歌山県立博物館において、平成13年10月6日(土)〜11月25日(日)
特別展歴史のなかの゛ともぶち゛
出展されました。
 
中央部に長者の家を訪ねる童男行者がみえる
旅立ちの図(粉河寺縁起絵巻) 観音礼拝図(粉河寺縁起絵巻