この時期でヤナーチェクの生涯に影響するような出来事といえば、1896年1月16日のチャイコフスキー「スペードの女王」のブルノ初演であろう。5日後にヤナーチェクは、ブルノの新聞「リドヴェー・ノヴィニ」に長く詳細な評を載せた。チャイコフスキーのこのオペラが、ヤナーチェクが自身で描こうと試みていたオペラのための栄養をもたらしたと考えられよう。たとえば、ヤナーチェクは、「イェヌーファ」も「スペードの女王」と同様に心理劇として大きな可能性があり、彼が前に書いた「物語の始まり」のような民謡を並べた作品などよりもずっとすぐれた作品になりうることを悟ったのかもしれない。「イェヌーファ」の第1幕は、募兵団が村へ来る長い場面で民謡が歌われるが、ここでヤナーチェクは、自身が以前合唱と管弦楽に編曲した民謡「私は緑野に種を蒔いた」(1892年11月20日初演)を用いている。しかし、これに続く緊張したドラマ、つまりイェヌーファがシュテヴァと応酬し、さらにイェヌーファとラツァが向かい合う場面で、ヤナーチェクはそれまでになかった境地へと入っていくのである。そして、第2幕のわずか4人によるやりとりという閉ざされた世界での劇へと筆を進めるまでに、彼はその途路でさらに多くのものを身につけていったのであろう。また、「イェヌーファ」第1幕は、番号オペラの形式をとっている。つまり、アリア、二重唱、三重唱、合唱に分かれ、ところどころレチタティーヴォで区切られている。これは、ヤナーチェクが次のように描写した「スペードの女王」の音楽とはかけ離れているようだ。すなわち、「唐突で断片的であり、緊密に繋がった調性がない。管弦楽は、辛辣な、あるいは取り止めもない音符をあらゆる方向に振りまいている。しかしながら、作曲者の高度に発達した音楽的思考過程によって、つながりの希薄そうなこれらすべてが、かくも巨大な連鎖を形成しているのである。」しかし、これこそが、ヤナーチェクのこれ以降の作品(「イェヌーファ」の第2、第3幕を含む)にあてはまるではないか。ヤナーチェクが「イェヌーファ」の作曲を中断したことについて、一番納得のいく説明は、原作が次第に劇性を高めていくのに対して作曲家として追いつかなくなったと思い、書き進めるために作曲技法の進歩を要したから、というものではあるまいか。
野心的な企てを中途で放棄するのは、よくあることである。しかし、何がヤナーチェクをして、5年前に中断した仕事に復せしめたのであろうか。たしかに、1901年までには、彼は作曲家として自身を持ち、また業績も重ねるに至っていた。5年間オペラから遠ざかっている間に、ヤナーチェクはいくつもの作品を書いていたが、そのなかのいくつかは、従来の作品よりも優れていたし、また個性的なものとなった。とりわけ、カンタータ「アマールス」と鍵盤楽器の小品集「草陰の小道」で、彼はとりわけ重要なことを学んでいた。自分自身の苦悩から作曲することにより、ヤナーチェクはこれらの曲で他の誰のものでもない自身の声を持った作品を作り上げたのである。この2作品こそが、ヤナーチェク自身の人生を基盤にした初の自伝的作品ということになる。ならば、ヤナーチェクを「イェヌーファ」作曲再開に駆り立てたものも、このオペラと彼の実生活との新たなつながりから来る動機ではないだろうか。
1900年1月10日、ブルノで開かれた舞踏会で、ヴラディミール・ヴォレル(1880年生、没年不詳)なる青年が、ヤナーチェクの娘オルガを愛していると告げた。彼はこのとき20歳で、何年か前からウィーンで医学を学んでいた。オルガは17歳だった。数週間後、この若い二人は、彼が学業を終えたら結婚しようと決意する。しかし、ヤナーチェクも妻のズデンカも、この二人の仲を認めなかった。ヤナーチェクは、ヴォレルが「金銭に関して問題がある」ということを耳にしており、この交際を終わらせようとした。しかし、これはなお18ヶ月にわたって尾を引くことになった。それ以後、ヴォレルの素行について良からぬ証拠が発覚し、そのなかには彼がオルガに対して不実であるというものまであった。ついにはオルガの彼への熱も冷め、1901年の夏以降に彼女はヴォレルに別れの手紙を書いている。ヴォレルはこれに狼狽し、道で会ったらオルガを撃ち殺すと言い放った。
しかしながら、オルガのほうは新しい計画にかかっていた。彼女はリューマチ熱のために心臓が弱く、ヤナーチェク家が代々継いでいた学校教師にはなれなかった。しかし、外国語の私教師にはなれそうだったし、ロシア語の国家試験を受けたがっていた。これが、ヤナーチェクとズデンカが娘のために考えていたことと一致していた。そこで、この一家の中の新しい暖かい雰囲気のなかで、ズデンカは夫ヤナーチェクに明かしたのだが、実はヴォレルとオルガの関係は、ヤナーチェクが繰り返し禁じたにもかかわらず、長く続いていたのだという。ただし、もはやオルガはこれに片を付けたのだった。しかし、ヤナーチェク家の皆が危惧したのは、ヴォレルがウィーンから戻ってくることだった。1901年夏に、ヤナーチェクの弟でサンクト・ペテルブルクに住んでいたフランチシェクが、ヤナーチェクの故郷、北モラヴィアのフクヴァルディに一家を訪ね、自分と妻のいるサンクト・ペテルブルクに来ないかと、オルガを誘った。これは天からの使いのようだった。これでオルガはブルノを離れて、ヴォレルの力ずくの脅迫から逃れられるし、ロシア語を上達させる機会であった。1902年3月から夏までのおよそ5ヶ月を、オルガはそこで過ごすはずだった。彼女は家から遠く離れる旅の支度を始めた。
以上が、ヤナーチェクが再び「イェヌーファ」にとりかかった背景である。彼がこのオペラに戻るには、何かのきっかけが必要だった。そして、ヴォレルを巡る危機と、娘オルガを守ろうとするヤナーチェクの姿勢こそが、そのきっかけとなったのである。ヴォレルの件は1900年1月から続いていたわけだが、オルガが彼の言うことを聞かなくなっていたのにヤナーチェクが気づいたのは、ようやく1901年の終わりになってからのことである。ヤナーチェクは、人間関係でも一番ありふれたものを、作曲の糧としたわけだが、自分の言いつけにそむいていたが、今では自分の言うとおりになったオルガと、第1幕でラツァに切りつけられた以後のイェヌーファに共通点を見いだしていたのであろうか。イェヌーファはシュテヴァ、オルガはヴォレルという不適当な求婚者に「たぶらかされて」いた。第1幕でコステルニチカは、結婚の延期を宣告するところで、イェヌーファが選ぼうとしている相手に反対の態度を明確にするが、これはヴォレルの不行跡を耳にした後のヤナーチェクに通ずる。第1幕と2幕の間でイェヌーファは養母コステルニチカに妊娠を明かしたはずで、機転の利くコステルニチカは、イェヌーファがウィーンへ働きに出たことにして、出産まで彼女を家に隠しておこうとした。同様にヤナーチェクは、オルガを危険な道から離してサンクト・ペテルブルクへと送ろうとしていたのである。このオペラと、ヤナーチェクと娘のあいだとの相関は、ヤナーチェク家の中では知られていたらしい。これを示唆するのは、ヤナーチェクの家政婦による次のような回想である。
「感受性の鋭い彼は、オルシュカ(オルガの愛称)への心痛を作品へ、自分の娘の蒙る災難をイェヌーファのそれへと感情移入した。そして、コステルニチカの強靭な愛情を彼も持ち合わせていた。この役には彼自身の性格が沢山入っている。」
ひとたび書き始めると、ヤナーチェクは止まらなかった。「とてもよく仕事をしているので、夏休み前には第2幕を終えられそうだ」と、1902年4月17日に、その時サンクト・ペテルブルクにいたオルガに書き送っている。そして、学期が終わる3週間前の6月22日ごろまでには、それを果たしている。だが、諸々の状況は、オルガとイェヌーファの近似性をますます高めていくこととなった。サンクト・ペテルブルクに到着してほどなく、オルガは腸チフスに罹患してしまった。ヤナーチェクは、オルガの重病を案じつつ、作曲を続けていた。それまで夏は妻と娘と共にフクヴァルディで過ごしたのだが、この年はペテルブルクからの便りを不安と共に待ちわびつつ、ブルノで夏を送ることになった。普段ならば、集中して作曲したあとはしばらく長い休みを置くのだが、このたびは第3幕へそのまま進んだ。ここまで一つの作品にかかりきりになったのは、彼としてはそれまでになかったことである。オルガは腸チフスからは回復したものの、心臓の衰弱が命取りとなった。1902年の秋までに、ヤナーチェクは彼女の命が長くはないことを悟らねばならなかった。クリスマスにはブルノの家の雰囲気があまりに暗くなったため、彼はフクヴァルディへ逃れて作曲を仕上げる羽目になった。1903年2月22日、ヤナーチェクは死の床についたオルガに、「イェヌーファ」をピアノで通して弾いてあげた。4日後に彼女は亡くなり、ヤナーチェクは手書きの楽譜を1枚、オルガの棺の中へ納めた。そして1908年、初めて総譜が出版されると、ヤナーチェクは校正刷りに献辞を加えた。
「オルガ・ヤナーチコヴァーの思い出に」 |