二期会「イェヌーファ」公演評
― モノクロームの世界 ―

関根 日出男 (チェコ文化研究家)



L.ヤナーチェク作曲 『イェヌーファ』
字幕付きドイツ語公演

公 演日:2004年12月5日(日)14:00
会場:東京文化会館大ホール
指揮:阪 哲朗
演出:ヴィリー・デッカー
Willy DECKER
美術:ヴォルフガング・グスマン
 Wolfgang GUSSMANN
合唱指揮:森口 真司
照明:    フランク・エヴィン Franck Evin   
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団    
合唱:二期会合唱団   
舞台監督:大仁田 雅彦
キャスト:
 ブリヤ家の女主人    与田 朝子
 ラツァ・クレメニュ    羽山 晃生
 シュテヴァ・ブリヤ    高橋 淳
 コステルニチカ    渡辺美佐子
 イェヌーファ    津山 恵
 粉屋の番頭    峰 茂樹
 村長    久保 和範
 村長夫人    押見 朋子
 カロルカ    斉藤 京子
 羊飼いの女    木村 圭子
 バレナ    二見 忍
 ヤノ    菊地 美奈


私は1974年の「プラハの春音楽祭」(グレゴル指揮、ハヌシュ・タイン1904-74、演出、国民劇場)以降、何度か「イェヌーファ」の舞台を観てき たが、演奏、演出両面で傑出していたのは、1988年秋のイーレク指揮、ヴィェジニーク演出、ベニャーチコヴァー、リザーネク主演のブルノ・ヤナーチェク 劇場の舞台だった。しかし最近は、押しつけがましい演出が前面に出て、音楽が後ろに押しやられ、苦々しい思いをしている。プルーデク(1998年ブルノ、 1999年東京)の解釈はまあ許せるとして、圧迫感が強調され過ぎ、舞台を狭めていたカーセン(2001年松本)、背景に巨大な電動水車や無数の粉袋を配 したパウントニー(2004年ブルノ)など、こちらにもイメージする余裕を与えてくれと言いたくなる。

これに比べ全幕をモノクローム(白黒)で貫いた、今回12月5日のヴィリー・デッカーの演出は、久しぶりに納得できるものだった。何よりも無駄な書割を とっ払った象徴的な舞台作りで、観客に想像させる時間と空間を与えていたのがいい。彼はヤナーチェクをよく理解している。

第1幕では舞台一面が草原で、後方は黒いが開放感がある。水車小屋はなくシロフォンのモノトーン連続がこれを暗示している。第5場、民謡風の"徴兵帰りの 若者たちの合唱" 「Daleko široko・・・ノヴェー・ザームキ村は遥か彼方」のドイツ語は、チェコ語に慣れた耳にはやや違和感がある。この合唱の場合はそうでもないが、チェコ語 の歌詞に他言 語を当てはめる場合、オリジナルにない音符を加えるという不都合が生ずる。黒服のコステルニチカが威厳に満ちて登場すると、皆は後ずさりするが、これは彼 女に監視されているからではなく、彼女を尊敬しているからである。終幕近くで舞台後ろの壁が狭まる。

第2幕の舞台背景は薄い紫がかった灰色の壁で、真ん中にドアのない入口がある。前方の床は白く、小さな枕のようなものが幾つか置かれ、向かって右前に斜め にベッドが置かれ、ト書きにあるような別室はない。イエヌーファは赤子を抱いて部屋の中をうろつく。コステルニチカが赤子を川に捨てにゆく場面で、後ろの 壁が半分上にあがり、彼女は後ろ向きのまま氷塊が散らばる広い雪原に立ち尽くす。その前面、室内ではイエヌーファが赤子の身の安全を聖母マリアに祈るが、 そこにはマリア像もキリスト磔刑像もない。あえて言えば半開きになった後ろ壁が十字を連想させる。コステルニチカが戻ってくると、また壁は下りる。外で子 供の泣き声(幻聴)が聞こえる。劇的な幕切れは、すべての面でもう少し迫力が欲しかった。

第3幕:舞台一面に置かれた20ヶほどの石は、人々の良心の象徴である。イェヌーファ、ラツァ、コステルニチカが後ろ向きのままで幕が上がると、正面に宴 席用のテーブル。後方の壁は前の2つの幕と違って、左右の部屋に通ずる空間が設けられている。第6場、結婚式はじみにやる方針で、みな黒装束だが、祝いに やって来た村娘だけは、せめて華やかな民族衣裳にして欲しかったし、民謡風の合唱「Ej, mamko,mamko, ああ、母さん・・」も、「Mutter, Mutter ・・」では違和感がある。第10場でコステルニチカが嬰児殺しを告白し、人々が石を手に彼女に迫ると、「この女に指一本でも触れてみろ!」とラツァが立ち ふさがる。演出家自身も述べているように、ここは「汝らのうち罪なき者まず、石もてこの女を打て」(ヨハネ伝8章7)の引用である。

オーケストラがトゥッティで鳴り響き、一瞬オペラは終ったかと思わせるが、ハープのアルペッジオで曲は再開、壁が前面に押し出され、「みんな行ってしまっ た」に始まる、すべてを浄化するイェヌーファとラツァの愛の二重唱となる。すると後ろの壁がとり払われ、冒頭の草原が現れ、二人は後ろ向きに未来に向け旅 立ってゆく。

冒頭でも述べたが、この演出はモノクロ映画を模しているから、民族衣裳の華やかさを消しているのかも知れない。その中から、20世紀はじめこの地を訪れ、 民俗行事「王様騎行」の華麗さに"これはまさに古代ギリシャだ"と叫び、村人たちが目上の者の手に口づけする習慣を絶賛していた、彫刻家ロダンの姿が浮かび上がってくる。

歌手は全員みごとに役割をこなしていたし、独奏ヴァイオリンなどを含めたオーケストラも、マッケラスばりのメリハリはないが、控え目ながらヤナーチェクの本質をついていた。努力のほどを評価したい。

限られた字数の中で意を尽くさねばならない字幕は、オペラ上演の上で重要な役割を担っており、それだけに入念な作業が必要とされる。今回気になった字幕を 少しあげてみる:

1幕:「奴隷」~"こき使われる者",「親戚ではない」~"血がつながってない"、「ぼくにも良くしてくれる弟嫁になる」~皮肉をこめ"ご立派な弟 嫁・・・"「棘のある女だ」~"厳しい人だ"
2幕:「ちょっとの間、その間に」~"しばらくしたらラツァが戻ってくる、その間に"、「石が落ちてくる、私の上に」~"石がのしかかる"、「戸を開けて もいい時間」~"小窓を・・"など。

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