プルゼニュのティル劇場について

関根  日出男(チェコ文化研究家)


2005年10月6日(武蔵野市民文化会館)と7日(東京国際フォーラム)、上記劇 場オペラ団が2年ぶりに来日し、「利口な女狐の物語」の本 邦初演(邦訳上演、演奏会形式上演を除く)を行うので、この劇場について触れてみる。

招聘元の光藍社は便宜上「チェコ国立プルゼーニュ歌劇場」と銘打っているが、正式の呼称は「J・ K・ティル劇場」オペラ団である1*。唯一チェコで歌劇場と言えるのはStátní opera Prahaプラハ国立オペラ劇場(元新ドイツ劇場、旧スメタナ劇場)だけで、Národní divadlo 国民劇場2*、スタ ヴォフスケー劇場2*はじめ、チェスケー・ブジェヨヴィツェの南ボヘミア劇場、リベレツのシャルダ劇場、ウースチー市立劇場、ブル ノ国民劇場、オストラヴァのモラヴィア・シレジア国民劇場、オパヴァのジレジア劇場、オロモウツのモラヴィア劇場などはすべて、オペラ、バレエ、演劇の3 部門から成っている。
*1 日本の「新国立劇場」を「新国立歌劇場」と言わないのと同じ。
*2  建物(劇場)が違うが、歌手、オーケストラ、俳優、バレエ団などは同じメンバーである。


Kde domov můj ?         わが故郷よいずこ?
Voda hučí po lučinách,      野をゆく川は 水音高く、
bory šumí po skalinách,      岩間をわたる 松風の声、
v sadě stkví se jara květ,     園生に春の 花咲き乱れ、
zemský ráj to na pohled:     眺めはまさに この世の楽園、
a to jest ta krásná země,     うまし国ボヘミア、
země česká domov můj !     これぞわが故郷!

Kde domov můj ?        わが故郷よいずこ?
v kraj znáš-li bohumílem,     君知るや 神を崇むるこの国で、
duše útlé v těle cilem,      活ある体の 弱き心に、
mysl jasnou, vznik a zdar,    冴えたる思考 育くまれ、
a tu sílu vzdoru zmar ?      破滅に逆らう 力生まるを?
To je Čechů slavné plémě,    これぞ栄えある チェコの国民たみ、
mezi Čechy domov můj !      その間にこそ わが故郷!

これはチェコ国歌の歌詞だが、もとは歌芝居『フィドロヴァチカ』の幕切れ近くで、盲目の老楽士が歌う望郷の歌なのである。J・K・ティルの劇にシュクロウ プ(1801~62)が音楽をつけたこの歌芝居は、1834年12月21日『ドン・ジョヴァンニ』初演で有名な、スタヴォフスケー劇場(元ノスティツ劇 場、旧ティル劇場)の舞台にかけられた。

ヨゼフ・カイェターン・ティル(1808~56)は、1830~40年代チェコ演劇界の大立者で、34年から37年まで独自の劇団を主宰し、この中には後 にスメタナのオペラ台本を手がけるサビナもいた。ティルは1848年に国会議員にまでなったが、チェコ民族復興運動の急先鋒だったため、オーストリア政府 により公職から追放された。しかし義妹の女優との間にもうけた7人の子供を養わねば成らず、ツェルナー巡回劇団の役者兼演出家として、自作品「ストラコニ ツェのバグパイプ吹き」公演中の1856年にピルゼンで没した。
 
彼が最後の舞台に立ったピルゼン市立劇場は、1832年にビール醸造業者らが建てたもので、演し物はほとんどがドイツの演劇だった。チェコ・オペラは 1868年の「トロバトーレ」で開幕した。劇場支配人シュワンダはプラハから若い指揮者アンゲルを呼び寄せ、1869年10月30日には「売られた花嫁」 が上演された。この時歌ったフラホル合唱団の中には、後にスメタナのオペラ台本作家となる女流詩人、クラースノホルスカーもいた。1886年から3年間コ ヴァジョヴィツが指揮していた頃のオーケストラ団員は30名前後だった。

1902年9月27日、バルサーネクが設計し、彫刻家シャロウンも参加したピルゼン市立大劇場が完成し、スメタナのオペラ「リブシェ」で開場した。 1907年暮にはバストルの指揮で「マダム・バタフライ」のチェコ初演が行われた。1912年から3年間、若きターリヒが指揮者をつとめ、その後チェラン スキー、モールと受け継がれた。1918年12月には世界的名ソプラノ歌手エミー・デスティンこと、エマ・デスティノヴァーが客演している。祖国独立後の 30年間、バルタークが指揮者をつとめていた。

1945年プルゼニュは、アメリカ軍によりナチス・ドイツ占領軍から解放され、スメタナの命日に当る5月12日には、いち早く「売られた花嫁」が上演され た。この時プラハからケツァル役としてハーケン、イェニーク役としてポスピーシルが招かれ、パットン将軍も臨席した。

ティル没後100年を記念し、1955年からこの劇場はDJKTヨゼフ・カイェターン・ティル劇場Divadlo Josefa Kajetána Tylaと改名され、現在に至っている。第2次世界大戦後の指揮者としてはベルフィーン、ノセク、リシカ、コウト、トゥルノフスキー、パジーク、マラート があげられ、1世代前のソリストにはホラーコヴァー、ソウクポヴァー、ベルマン、フレドレヴィチらがいた。2004/05年のシーズンから常任指揮者に、 ブルノからヤン・ズバヴィテルを迎えている。

1980年代前半に大改修を終えたこの劇場(客席数約450)には、演劇、オペラ、バレエの3部門があり、オペレッタとミュージカルは室内劇場(客席数約 450)で上演されている。1993年から2年毎にプラハで「チェコ・オペラの祭典」が開催されているが、7回目を迎えた今年ティル劇場オペラ団は、2月 12日V・ノヴァークの「ルツェルナ」をひっさげプラハ国民劇場に登場した。今シーズンの演し物にはヴェルディの「ラ・トラヴィアータ」と「トロバトー レ」、ドニゼッティの「ドン・パスクアーレ」、スメタナの「売られた花嫁」、J・シュトラウスの「ヴィーン気質」、ビゼーの「カルメン」、ドヴォジャーク 「悪魔とカーチャ」、V・ノヴァークの「ルツェルナ」、マルチヌー「聖母マリアの奇跡」が名を連ねている。

私がこのオペラ団の公演をはじめて観たのは、1980年秋のブルノ音楽祭に客演した折で、パジーク指揮するR・シュトラウスの「アラベッラ」の絢爛豪華な 舞台に目を見張った。

 
ピルゼン(プルゼ ニュ)の歴史概観

現在人口約18万、西ボヘミアの中心都市プルゼニュの歴史を概観してみる。
1295年ヴァーツラフ二世の治世下、以前からあった古プルゼネツの西北、ムジェ川とラドブザ川の交流点に、ボヘミアで最も新しい王領都市として、濠に囲 まれたゴシックのドイツ人町ピルゼンができた。ドミニク派、フランチェスコ派、ドイツ騎士団などの宗教各派が入ってきた。中心に聖バルトロメオ教会が建 ち、カレル四世治世下にチェコ人の波が押し寄せてきた。1307年にビール醸造がはじまり呉服屋もできた。

15世紀のフス戦争のさ中、多くの住民はジシカ将軍についてターボルに向かったが、1433~34年の間この町はフス軍団の攻囲に耐え、カトリックの牙城 として、時の皇帝ジギスムントに特権を与えられた。ボヘミア王イジー・ポジェブラディにも反旗を翻し、ローマ法王パウロ二世に賞賛された。

15世紀後半バヴァリアとの結びつきが強まり、1468年にはここで、ボヘミアではじめての書物「トロヤン年代記」が印刷された。15~16世紀にかけて の盗賊団や大火、あいつぐ農民蜂起などは、フェルディナント一世の治世になっておさまった。
16世紀にかけイタリアから来た石工の手で、町はルネサンスのたたずまいを示す。その後、新旧教徒の争いが続いたが、トゥルンシュテインのセバスチアー ン・ペホフスキーにより、北のロウドナー区に聖ファビアンと聖セバスチアン教会が建立されたことで、カトリックの勝利は明白となった。彼はプラハ大司教の 秘書官で、時の皇帝ルドルフ二世にチェコ語を教え、プラハでのペスト流行を恐れた皇帝が、彼のピルゼンの館に1599年から1600にかけ9ヶ月間滞在 し、ここが臨時の宮廷となった。皇帝はこの地が気に入り、後に「皇帝の家」と呼ばれる家屋を買い求めた。

17世紀になり、伝統的に保守的で親ハプスブルクのカトリックの町だったピルゼンは、ボヘミア貴族に雇われたマンスフェルト将軍配下の傭兵軍に包囲され、 1618年11月21日に占領された。しかし将軍不在の間に、残りの司令官たちはピルゼンをティリ将軍に引き渡した。しかし戦いは続き1630年はじめ、 ザクセン、スウェーデン、フランス連合軍がハプスブルクに反抗したが、フランス軍は皇帝側のワレンシュタイン将軍に駆逐された。1633年バヴァリア侵攻 を断念した、悲劇の英雄ワレンシュタイン(ワルトシュタイン)は、西方のエゲル(ヘプ)で暗殺される2ヶ月半前の数日間、ピルゼンに本陣を置いていた。カ トリック側の勝利に終わった30年戦争とペストで町は荒廃した。

新教を奉ずるチェコ貴族の領地は没収され、ピルゼン西南ホツコ地方の特権も奪われた。1695年11月28日、農民反乱を指揮したコジナは、ピルゼン市庁 舎前の広場で公開処刑された。この史実によるイラーセクの劇をもとに、コヴァジョヴィツは1897年に代表作オペラ「Psohlavci犬の頭を旗印とす るホツコ人」を書いた。2002年秋、初来日したプルゼニュ人形劇団が、民謡を歌いながらこの劇を上演した。
17、18世紀に新たな移民の波が、イタリア、ドイツ(経営者、職工、法律家、医者、書記、芸術家)、チロル(商人)から押し寄せ、鉄鋼業が栄え、 1678年には最初の炉が近在に建設され、織物工業も発展した。18世紀半ばのシレジア戦争(1740~45)や七年戦争(1756~63)の間、ピルゼ ンはバヴァリア、フランス、オーストリアなどに占領された。
1780年代には多くの教会や修道院、市内の墓地がとり壊された。当時人口5千のこの町にトゥシュナー織物工場ができ、ドミニク派修道院は中学校に衣替え し、1804年には哲学研究所が設立された。

19世紀はじめのチェコ民族復興運動の波は、まず演劇界に入ってきた。1818年4月6日チェコ語による上演がピルゼンではじめて行われた。1819年に は小学校や幼稚園ができた。1828年以降、コペツキー市長のもとで市壁がとり払われ、跡地には公園や劇場、病院、兵舎などが建った。19世紀後半には各 種文化団体、ソコル体育協会などが結成された。しかし市民階級はチェコ化の波を恐れ、新聞や演劇ではドイツが使われていた。たまに催されるチェコ語による 演劇では、クリプツェラやヒルマーの巡回劇団が、ティルの作品を上演していた。シュワンダ巡回劇団によるピルゼンでのシーズンは、1865年11月1日に 「ロミオとジュリエット」で幕をあけた。
19世紀の工業の発展はめざましく、1837年に皮なめし工場、1842年に市民ビール工場ができた*3

*3 ピルゼン・ビールの美点は、上質のホップ、乾いたモルト、良質 の水、オーク材の樽に起因すると言われている。皮ズボンをはき、オーク材のベンチに坐った検査官により厳しい検査が行われ、品質の悪いものは低価格で貧民 層に売られ、欠陥品は市庁舎前の公衆の面前で破棄された。1850年代にはウィーンやボヘミア各地、1860年代にはパリ、ロンドン、1873年にはアメ リカにまで輸出され、1898年から「ピルズナー・ウルクエル」のラ ベルを貼るようになった。

シュコダ(1839~1900)は、1859年創業のワルトシュタイン工場を、69年に機械(兵器)工場として買収し、1890年以 降、各地に支店を出した。1861年にピルゼン~バヴァリアのフルト間、翌年にはプラハさらにはボヘミア各地との鉄道が開通し、世紀末には自動車などの運 搬方法も改善され、良質の各種製品が国内外に輸出された。通りは舗装され、クシジーク博士(1847~1941)発明になるアーク燈が点った。

20世紀初頭にはこうした工業の発展にともない、歴史的建造物の多くが取り壊されたが、建築家シュテフと画家アレシのスグラフィト装飾を施した新建築が続 々と誕生した。1902年に新劇場(現ティル劇場)が建てられた。

第1次世界大戦中は、ボレヴェツ軍需工場の爆発で200人が落命し、軍用車からパンを盗もうとした子供たちが射殺されるなど、多くの悲劇を招いた。両大戦 間1930年代の不況下、プルゼニュだけで1万4千の失業者を生んだ。芸術界ではアヴァンギャルド芸術が巾をきかせ、スクパ(1892~1957)率いる 日曜人形劇場の「スペイフルとフルヴィーネク」は世界的名声を博した。

第2次世界大戦は多くの惨禍をもたらした。ミュンヘン協定の結果、1939年3月からプルゼニュはナチス・ドイツの支配下に入り、シュコダ軍需工場は連合 軍爆撃の標的にされたが、1945年5月6日アメリカ軍により解放された。

碁盤の目のように整然とした町の中心には、高さ103メートルの尖塔を誇るバロックの聖バルトロメオ教会、ルネサンスの市庁舎、西ボヘミア美術館(かつて の食肉製造販売館、ゴシック建築、市囲壁の両側にまたがり、19世紀にネオ・ゴシック部分が加えられた。1954年開館:アレシ、プルキニェ、クビシタ、 シュパーラ、チャペック、シーマらの絵画を展示、コンサート・ホールを内蔵)、西ボヘミア博物館(マドンナ木彫像など)、シナゴーグ(1892年建造、世 界第3位の大きさ)、ビール博物館、泉が200もある全長20キロの地下道(13世紀から19世紀にかけ徐々に作られてきた。一番古い地下室は治下階にあ り、14世紀末から15世紀にかけて作られ、17世紀に完成した。地下3階建の地下室は、食料や飲料の貯蔵庫、排水路や泉として用いられていた)などがあ り、コペツキー市長公園にはスメタナの像が建ち、1406~10年建立の聖ニコラス教会(ゴシックのちにバロック化)付属墓地には、ティルやアレシらが 眠っている。

音楽は18世紀から19世紀初頭にかけ、聖バルトロメオ教会を中心に発展、プレモントレ修道会ギムナジウムで1772年から91年まで、モーツァルトの最 初の伝記作家ニェメチェク(1766~1849)が活躍していた。当地出身の作曲家にはV・I・ブリクシ(1716~1803)がおり、1840年から 43年まで当地ギムナジウムでスメタナが学び、「ルイーザ・ポルカ」などを作曲し、社交界の寵児になっていた。19世紀後半にはフラホル合唱団が結成さ れ、1885年にドヴォジャークは、カンタータ「幽霊の花嫁」をここで初演指揮している。

1902年、新装成った劇場の「ローエングリン」公演に招かれたドヴォジャークは、自作「悪魔とカーチャ」「ルサルカ」「デイミトリイ」の上演の許可を与 えた。1912年ターリヒはボヘミア弦楽四重奏団員、とくにスークの推薦で、ルブリャナのスロヴェニア・フィルから、指揮者としてここに移って来た。彼は 幼少時代、ピルゼン近郊のクラトヴィで過ごし、兄のヤン(現ターリヒ弦楽四重奏団のヤンの父)と、父親の指揮のもと学生オーケストラで弾いていた。彼は 1915年にピルゼンを去るが、チェコ・フィルの指揮者となってからも、この楽団を率い、よくプルゼニュで演奏会を催していた。

1946年プルゼニュ放送交響楽団が設立され、1948年から指導部にはヴァシャタがいた。当地出身の作曲家にはカレル、ブリアン、トロヤン、フロスマ ン、ヴァイオリニストではフジーマリー、ピアニストのラウフ、チェンバリストのルージチコヴァー、ヴィオラ奏者のチェルニーがいる。

なおプルゼニュは1990年から、群馬県の高崎市と姉妹都市の関係を結んでいる。


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