カンタータ「主の祈り」 Otčenáš

関根 日出男(チェコ文化研究家)


 
 
当初「モラヴィアの主の祈り」と言われていた、ピアノもしくはハルモニウム伴奏のテノール独唱と混声合唱のためのこのカンタータは1901年に完成し、ブ ルノの女貧民院ウートゥルナ(避難所の意)に献呈された。1900年に設立され、田舎から出てきた貧しい娘たちに奉公先を斡旋したり、孤児の面倒を見てい たこの貧民院では、ヤナーチェクの妻や娘のオルガも有力なメンバーとして活動していた。

この作品は、1899年10月28日にワルシャワの週刊画報に掲載された、ポーランドの画家ユゼフ・クシェシュ=メンツィナ(1860~1934)の、マ タイ伝6章「山上の垂訓」による、8つの連作の複製画(青木勇人氏のホームページ参照)に 触発されて書かれたので、作曲者はこれに活人画も加えていた。

初演は1901年6月15日、ヤナーチェク指揮するブルノ国民劇場団員により行われた。テノールをM・ラザル(芸名Z・レフ、1876~?)、ピアノを L・トゥチコヴァー(1882~1960)、ハルモニウムをザフラドニーチェクが担当し、V・ヴィラルト演出の活人画に地元の素人劇団「ティル」が出演し た。

1906年7月に作曲者は、これをハープとオルガン伴奏に書き直した。活人画を伴わない新しい版では1906年11月18日、プラハのフラホル合唱団が A・ピスカーチェク(1873~1919)の指揮で演奏された。この時テノールはF・パーツァル(1865~1938)、オルガニストはJ・クリチカ (1855~1937)とあるが、ハーピストの名前は記載されていない。

ヤナーチェクは1880年代からポーランド音楽界の流れを追い、ポーランド民謡や創作音楽とくにショパンの音楽を研究していた。自身この国を1896年、 1902年、1904年に計5回訪問しており、それは主として弟が住まい一時、娘のオルガが滞在していたペテルブルク訪問の途路に立ち寄ったものである。 とくに重要なのは、1904年の5月1日前のワルシャワ訪問で、ワルシャワ音楽院の内紛解決のため、当局はヤナーチェクを校長に据え、事態を収拾しようと した折だった。結局この案は否決されヤナーチェクは落胆して帰国したが、彼はその後もかの地の動向に関心を抱き続けていた。その思いは1926年にポーラ ンドの雑誌ムジカに発表した「ポーランドの思い出」にも述べられている。

クシェシュ=メンツィナの8つの聖画の内容は以下の通りである。
1、「キリスト」。
2、「天にましますわれらが主よ、み名の讃えられんことを」。
十字架の前に跪き、キリストに敬虔な祈りを捧げる父母と息子。
3、「あなた様の王国の来たらんことを」。
聖体顕示台のある祭壇の前にひれ伏し、王国の到来を願う者たち。
4、「あなた様のご意思が天にも地にも行きわたらんことを」。
刈り入れた麦が嵐でだめにされず、豊かな実りをキリストに願うの図。
5、「われらの日々の糧を今日も下さい」。
二人の農夫が麦を刈り、
近くに立つキリストが、貧民にパンを与えている。
6、「われらの罪をお許し下さい、われらが罪人たちを許すがごとく」。
独房で神父が罪人に許しを与えていると、キリストが姿を現す。
7、「われらを誘惑へとお導きなさらぬよう」。
子供を抱き眠っている母親を殺そうと、男が斧を持って近づくが、
キリストに遮られる。
8、「われらを悪から解き放ち下さい」。
洪水が子供づれの一家の財産や小屋を流しさる。
彼らは新たな生活に向かって筏を漕ぎ出し、キリストに救われる。

進歩的なヤナーチェクは、原作者の宗教性を最小限にとどめ、人間性を強調した。だから最初の「キリスト」を省き、以下の5つにまとめた。ヤナーチェク特有 のスチャソフカ(リズミカルで反復される細かな音型)を用い、ほぼ歌謡形式で書かれた全曲は、通しで演奏される。曲想は前年に作られた「アヴェ・マリア Zdrávas Maria」(テノール又はソプラノ独唱と合唱、ヴァイオリンと、オルガン又はピアノ伴奏)の姉妹編といえる。

1、
a ) 原画2:アンダンテ、変イ長調、合唱。「森中の十字架の前に額づく労働者たち」
 Otče náš, jenž jsi na nebesích, posvět‘ se jméno tvé ! 
天にいますわれらが主よ、み名の讃えられますよう。
ハープとオルガンのオスティナート伴奏の上で、変イ長調(リディア旋法の変ニ長調)の主題(譜例1A)が、カノン風に調を変えて反復される。
b ) 原画3:コン・モート、テノール独唱と合唱。「祭壇の前にひれ伏す者たち」
Ó, přijd‘ nám království tvé,
あなた様の王国が来たりますよう。
オルガンが変ホ長調の下降音型をくり返す上で、テノールは変イ長調の優美な旋律(譜例1B)を歌いだす。末尾に合唱が入り、冒頭のハープとオルガンのみの 音型がやや長くなって再現する。

2、原画4:モデラート、テノール独唱と合唱。「みまかりし幼子のそばの家族」
Bud‘ vůle tvá jako v nebi tak i na zemi.
あなた様のご意思が天にも地にも、ゆきわたりますよう。
静かな伴奏の上でテノールが、変ロ短調の主題(譜例2)を歌いだす。合唱がこれを受け継ぎ、最後に後奏が入る。

3、原画5:コン・モート、合唱。「豊かな実り、近づく嵐」
Chléb náš vezdejší dej nám dnes ! 
われらが日々の糧を今日も下さい。
極めて単純な伴奏オスティナートの上で、楽しげな合唱(譜例3)が歌われる。

4、原画6:アダージオ、テノール独唱と合唱。「牢獄~囚われ人」
A odpust‘ nám naše viny, jakož i my odpoištíme našim vinikům.
私たちが罪人を許したように、私たちをお許し下さい。
ハープの下降分散和音の上で、オルガン(オーボエ・ストップ)が敬虔な調べを奏で(譜例4A)、テノール独唱(譜例4B)、合唱、後奏と続く。

5、原画7、8 :エネルギコ・モデラート~コン・モート、合唱。「夜中、強盗が部屋に押し込む。キリストが眠っている者たちを守る」
Neuvod‘ nás v pokušení, ale zbav nás všeho zlého. Amen.
私たちを誘惑へと導かず、すべての悪から解き放って下さい。アーメン。
オルガンの下降音型オスティナート(譜例5A)についで、合唱が変ホ短調で歌いだし(譜例5B)、最後のアーメンは、前奏のオルガンの音型によっている。




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