2006/07シーズンのヤナーチェク作品上演

 森岡 実穂 (中央大学准教授; オペラ表象分析)



 日本ではまだまだ舞台上演を見る機会の少ないヤナーチェクのオペラであるが,ヨーロッパではどこのオペラハウスでもほぼ2年に1作品はかかっているのを見ると,もう通常のレパートリーのひとつと言っていいのではないだろうか。今回は,そんな中から,三つのプロダクションについてレポートさせていただく。演出の内容について,かなり具体的に描写し,私なりの解釈も含めているので,それぞれの作品を先入観なしに見たい方にはお読みいただかないほうがいいかもしれないが,ご了解の上で,これからのご自身の鑑賞計画の,また作品の解釈の幅についての参考資料にしていただければ幸いである。


1.ドイツ,ケルン歌劇場 《イェヌーファ》
指揮:Markus Stenz,,演出:Katharina Thalbach,舞台美術:Momme Rörbein,
衣装:Angelika Rieck,

 《イェヌーファ》の原題は《彼女の養女》であり,その「彼女」コステルニチカがイェヌーファに劣らぬ重要な役割であることはいうまでもない。特に第二幕での強烈な葛藤と最終的な良心の呵責の重さは,この作品の最大の見せ所といっていい。

 タールバッハ演出で,コステルニチカ(Dalia Schaechter)の葛藤をあらわす小道具となっているのは,赤ん坊のおむつである。イェヌーファ(Orla Boylan)は幸せそうに赤ん坊に乳を含ませたのちに眠りにおちるが,そのあとに階下におむつを持っていき,冷たい水で洗濯をするのはコステルニチカなのである。おむつは,見なくてすむなら見たくない現実の象徴である。こうした部分をきっちり見ているからこそ,彼女はこの子供がどれだけイェヌーファの負担になるのかを案ずるのだな,ということに説得力があたえられる。シュテヴァ(Hans-Georg Priese)との話合いが物別れに終わったコステルニチカは,やけをおこして濡れたおむつを床に投げつける。その後,ラツァ(Ray M.Wade jr.)に決定的な嘘をついた末,赤ん坊を抱いて冬の夜に出かけていくのである。

 そして最大の視覚的インパクトがあたえられるのが,彼女が罪悪感のあまり錯乱してしまう第二幕ラストである。最後の彼女の叫びのあと,彼女のいる上階以外はほぼ真っ暗になる。奥の壁が全開になり,金管の力強い音とともに,真っ白な雲のような大量の雪が雪崩のように盛り上がり迫ってくる。イェヌーファとラツァは階下のドアの前で呆然と固まり,コステルニチカはベッドで布団をかぶってすべてを拒絶している。これは,良心の呵責におびえるコステルニチカの心象風景として,大変印象的なものになっていた。彼女にとって,人殺しとは,まさに雪崩のような人間の力では抗いようのない圧倒的な「天の怒り」に匹敵するものなのだろう。

 日本で二期会が上演した,ヴィリー・デッカー演出《イェヌーファ》でも,ひときわ印象的だったのは,コステルニチカが子供を殺すことを考えたときに,部屋の壁が奥から引き上げられ,そこに幾多の氷の見える冷たい水面が広がった場面であろう。小道具のほとんどがリアリスティックなものであることもあり,第二幕が始まったときには,唐突に登場したあの白いものの正体はわからない。だが,コステルニチカが葛藤の末に子供を手にしたあとに,あの身を切るようなヴァイオリン・ソロを聴くならば,このピンポイントで挿入された心象風景はわかりすぎるほどわかる。子殺しを決意したときから,彼女の心自体も,その子を落とした氷水のなかに一緒に落ちて凍ってしまったかのようだった。デッカーとタールバッハは,その瞬間から自らも精神的に凍えて仮死状態になった存在として,コステルニチカを描いているのだ。確かにそれだけの闇が,コステルニチカをめぐる音楽には存在する。

 同じ雪と氷が,ラストシーンでも登場する。すべてが明らかになったとき,村人たちは(グラインドボーンでのレーンホフ演出のように)怒りにまかせて部屋をめちゃくちゃにして去っていく。しかしラツァは残り,イェヌーファと手を取り合う。最後の場面では,上階の奥の壁が再び開き,そこに美しい山と夕焼けが見える。但し階下の壁も取り去られ,部屋の土台部分が氷柱のようになっているのが見える。この夕焼けと氷柱をどういうバランスで考えるかで,このエンディングの印象は変わってくるだろう。私にとっては,ラツァ役のレイ・M・ウェイドJr.の明るい声が,厳しい現実の中でも希望のほうを多く見せてくれた。


2.英国ロイヤル・オペラ・ハウス《カーチャ・カバノヴァー》
指揮:Charles Mackerras,演出:Trevor Nunn(再演:Andrew Sinclair),
舞台美術:Maria Björunson,照明:Pat Collins

 幕が開いた瞬間に「やられた」と思う舞台というのが,ごくまれにある。この《カーチャ》を観た人なら,きっと同意してくれるだろう。冒頭,紗幕の奥に,ろうそくを持って並ぶ結婚式の行列がぼんやりと見える。彼らが去り,遠雷のようなティンパニの響きののちに紗幕が上がると,目の前に巨大な灰色の渦があらわれるのだ。まるでブラックホールのような,周りにいる者を有無をいわさず吸い込み,無きものとしてしまうような渦が。実際にはそれは川沿いの木造の歩道と坂道にすぎないのだが,カーチャ(Janice Watson)が飲み込まれていく運命の渦のようなそれは,ゴッホの「星月夜」やムンクの「叫び」に見られる空を思わせる。まさに原作のタイトル「嵐」そのものの具現と言っていいだろう。舞台美術のマリア・ビヨルンソンは,来日公演でも注目をあつめた巨大キューブを使ったスカラ座の《マクベス》,また,ミュージカル『オペラ座の怪人』などでも名高い,舞台一杯の大胆かつ才気に溢れた装置を作る俊英であり,2002年のその早すぎた死はオペラ界にとって大きな損失であった。

 第3幕は,ト書きに「近い柱廊と丸天井のある廃屋。アーチの間からヴォルガ河が見える。雨の降りそうな天気」とあるところを,ここでは川沿いに十字架を立てようと足場を組んでいるという設定にしている。激しい嵐に,足場ごと十字架が倒れる。その倒れた足場すらもいくつもの十字架に見える。大小の十字架に囲まれたかのようなカーチャの姿は,キリスト教的倫理観に基づく激しい罪悪感と自責の念を強烈に感じさせる。そして最後には,その十字架の先から,カーチャは,大きな渦の中心に向けて身を投げるのである。彼女は確かに姦通という罪を犯したのかもしれないが,敬虔なキリスト教社会の一面である息苦しい圧迫の中で,ぎりぎりのところで孤独に耐えきれなかった彼女の弱さは,決して一方的に責められるものではない。《ヴォツェック》のマリーにも通じる,誰にもありうる弱さを体現している彼女は,ある意味殉教者でもあるのかもしれない。

 今回の再演では実際に演出を手がけたのが初演のトレヴァー・ナンではなかったこともあるのだろう,人間の動かし方は多少ピントのぼけたところがあった。ティホン(Chris Merritt)はカーチャの苦悩を面倒がっているようで,何か言いつのってもすぐ顔を背けるのだが,こういう部分にもう少しアクセントが置かれれば,カーチャの現状はさらにくっきりとしてくるのではないだろうか。

 実は,映像ではいろいろ見ていても,《カーチャ》を舞台で観るのは初めてだった。レパートリーとしてもポピュラーであるし,来年にかけてさらにいくつかのプロダクションが予告されているので,更にいくつか見てみたい。とくに,カバニハの孤独に注目した演出というのはどこかに既に出ていると思うのだが,一度見てみたい。このプロダクションでは完全に一方的な抑圧者側となっているが,彼女もまた因習に無意識に従うが故に孤独な存在なのかもしれない。コステルニチカについてはしばしば提示されるような愛情の希求や葛藤を,この女性の中にも見てみたい。


3.エクサン・プロヴァンス音楽祭《死者の家から》
指揮:Pierre Boulez,演出:Patrice Chereau,舞台美術:Richard Peduzzi,
衣装:Caroline de Vivaise,照明:Bertrand Couderc

 私にとって人生最初の《死者の家から》体験だったのだが,これだけの完成度の上演に出会うことはおそらく二度とはないのだろう。しかもどこまでも正攻法。違う角度で見てみたいという欲望はあるが,一番難しいことをやってのけられたということについては素直に頭を下げるしかない。最大の功労者はマーラー・チェンバー・オーケストラを完璧に操った御年82歳のブーレーズ。その明晰な音楽づくりについてもっと理解できれば,非常に繊細に音楽を捉えた上でなされているのであろうこのシェローによる演出についてもさらによく「見えた」であろうと思うので,そうした側面からの詳しい報告もぜひ希望したいが,とりあえずは私の視点からの報告を上げさせていただく。

 バイロイトの《指輪》のときと同じリシャール・ペドゥッツィによる装置は,灰色のコンクリートの高い壁であり,19世紀のシベリアを感じさせないかわりに,おそらくはあらゆる監獄のもつ普遍的な非人間的冷徹さを提示する。この閉塞的な男だけの空間で,ちょっとしたきっかけでふっと暴力的な衝動が浮上する瞬間もあることは,たとえば冒頭5分ほどを見ていてもわかる。その一方で,ヤナーチェクいうところの「神の閃光」,かけがえのない人間性の光を見つける瞬間もあるのであり,ここはまぎれもなく,その両方をそれぞれの中にもったあたりまえの「人間」たちの住むところなのである。決して「犯罪者」たちの特異な空間ではないのだ。但し,全員があらゆる意味で「死」に近いところにいるゆえに ――それぞれの過去の犯罪,ここでの厳しい日常的折檻,健康状態など―― その両方ともがより極端な形であきらかになりがちではあるが。

 このオペラにはいわゆる「主役」はおらず,何人かの囚人の断片的なエピソードによって全体が構成されている。しかも,監獄内の具体的な事件というよりも,囚人たちが過去について「語る」のを聞くという場面が各幕の重要な場面のひとつとなっている。台本とCDのみでの体験の段階では,ワーグナーのような長大な作品ならいざしらず,90分の作品で4つの過去語りはドラマを効果的に展開する上でいささか多いのではないかと感じていた。しかし,実際にこうして上演を見てみると,物語の内容と同時に,誰かに語るという行為自体に意味があるように思える。彼らの物語の内容を見るならば,スクラトフもシシコフも,三角関係の末に人を殺めて監獄に送られてきたことがわかる。殺人という悲しい結果に終わってしまったが,もとはといえば強く誰かを愛したがゆえの行動であり,彼らは人一倍強く他人とのつながりを求めるタイプの人間なのだろう。男ばかり,暗い色の服ばかりで,統一した行動を求められ,個人の尊厳が限りなく失われる監獄の中だからこそ,「自分」を見てほしい,聞いてほしい,という願いも強くなる,その発露としての「語り」なのだろう,ということは,舞台上演という形式だからこそ思い至る部分であった。区別のつかない無数の灰色の男たちの中で,彼らは語ることで個人としての顔を獲得していく。その意味での哀切さということでは,二幕でスクラトフ(John Mark Ainsley)が何度もまわりの反応を確認しながら語る姿,三幕で友達をつかまえて話さないシシコフ(Gerd Grochowski)の語り,ともに興味深いが,ちょっと毛色が違うのがルカの語りである。

 一幕でスクラトフが「かくするうちに,アクリナの亭主が庭に出た」というセリフがある。二幕で本人が語るように,彼の犯罪にかかわった女性の名前はルイザであり,アクリナは三幕のシシコフの語りに登場する女性,つまりルカ=本名フィルカ・モロゾフ(Stefan Margita)の過去にかかわる女性の名前である。ト書きにはないのだが,ルカはこれを聞くと振り向きざまにスクラトフになぐりかかり,周囲の人々にあわてて引き離される。アクリナの名はルカが隠している過去に直結するものだから,そのような反応は自滅的行為である。しかし,自己の秘密のアイデンティティに触れる動揺が引き金となって(「語れない」部分を隠すため?),ルカが「語れる」部分の自分を知ってほしいとばかりに表にさらしていくという流れは面白い。

 針仕事をしながら,ルカは「監獄にぶちこまれ」てから,そこの傲慢な所長を理屈で批判し,最後には刺したのだという物語を始める。この刑務所の所長(Jiří Sulženko)を先頭に,横暴・尊大な小役人を批判・揶揄するエピソードはこのオペラのあちこちにちりばめられており(「粉屋の女房」の愛人の格好付けた書記,シャプキン(Peter Hoare)を取り調べた役人,ペトロヴィッチ解放時の所長),これを刺したというルカの物語は,犯罪でありながら,刑務所においてはある意味ヒロイックなものであり,その自覚を示すためか,所長への口ごたえというクライマックスまで,最初は暗い隅に座っていたルカが光の中に歩き出て行くという動作が与えられている。但し,取り巻く人々の冷ややかな視線の中にわれに返って,いたたまれないルカは力なく針仕事を再開するのだが。ここの段取りでは,音楽の調子の変化にルカの自己顕示という「呼びかけ」と冷たい目という周囲の「反応」を巧みに読み込み,モノローグでありながら舞台全体での「対話」をつくっている。

 「口答え,刺傷のあとにさんざん折檻された」というルカのエピソードに重なるように,ルカの語りの途中で舞台奥につれてこられていたペトロヴィッチ(Olaf Bär)は,語りが終わるころに床に倒れる。下着のシャツの背中を血だらけにし,上手の壁際を獣のように這っていく彼には,ト書きにあるような「ナイフで看守に襲い掛かろうと」するような余裕は見えない(少なくとも,彼の行く先に看守の姿は見えない)。かわりにここで,先刻の全員の前での折檻時に彼の顔から落ちた眼鏡を拾って直しておいたアリェヤ(Eric Stokloßa)が,そっとそれを本人に渡す。生きているだけでぎりぎりのペトロヴィッチは黙ってこれを受け取り這い出て行くだけであり,アリェヤは奥の壁際から彼が去るのを見守るだけなのだが,このあとの幕を通じてささやかに展開されていく人間的な関係の端緒が明確に仕込まれる,意義ある場面である。

 だがその場で奏でられている,ロマンティシズムに逃げ場を残さないストレートなクレッシェンドの厳しさは,このささやかな光明をなぎ払うごとく圧倒的なものであり,そして最後の音に重なるように,天井から大量の紙や瓦礫が大音響とともに落ちてくる。二幕最初の囚人たちの作業につながる仕掛けではあるが,監獄という場における希望と絶望の配分を思い知らされる段取りである。この前兆にたがわず,この後もこの二人の関係はより厳しい味付けをされている。二幕最後,二人が仲良くお茶を飲んでいるとちびの囚人に絡まれる場面で,本来は大やけどをするはずのアリェヤは,今回はナイフでわき腹を刺され明らかに致命傷を負う。三幕での病棟のシーンではアリェヤはひどく苦しみ,ペトロヴィッチは必死に看病するが,彼に出獄の知らせが来る。少年の病状はこの別れの場面から未来の可能性をそぎ落とし,より深い陰影を与えることになる。鷲をつかって囚人たちが彼を励まそうとする暖かい挿話もあるが,オペラの最後のシーンは瀕死のアリェヤとスクラトフ,頭部に血のにじんだ包帯を巻いた男など,明らかに未来のない者ばかりがさびしく並ぶ姿で終わる。容赦のない光と闇の対置。だがこの,闇の中にちらちらと光が仄見える,という程度のバランスこそがブーレーズ/シェローにとっての《死者の家から》のリアリティなのだろう。

 ひとつ不満も述べておきたい。スクラトフとシシコフの物語に共通する過去の要素として,「女の不実」というテーマが挙げられるだろう。当然女の側にはそれなりの言い分もあるはずだが,少なくともここでの彼らの語りの背後にはこうした意識が指摘できる。このオペラには現実の女性の姿はほぼ見えないが,スクラトフとシシコフの語りの中に重層的に愛憎あいまった対象として登場する「女」たちは,彼らを動かしてきた原動力としていまだ存在感を誇っている。その意味で,彼らにとって,そして当然ルカにとってぞくぞくするほど自虐的なはずのクリスマスの素人芝居の場面に,いまひとつひねりがなかったのが残念であった。同様に,このときに地元の慈善家か政治家かという紳士淑女が訪問し同席するという目新しい設定も,「外部」の導入がいまひとつ利用されないままに終わって残念だった(あの無反応ぶりが意図したものなのだとすればたいしたものなのかもしれないが)。この点については,どこかでまた別の演出での新しい展開を期待したい。

 エクスでは映像収録が行われたので,数年中には発売されるはずである。また,指揮者は変わるようだが,ミラノ・ニューヨーク(サロネン指揮)での上演も決定している。誰かによる上演を経なければ実像がつかめないこうした表象/再現芸術では,素晴らしい上演が存在するかどうかがその作品の評価を左右するところがどうしてもある。ブーレーズとシェローによる今回の舞台は,これからの観客が《死の家から》という作品を知り理解する上で重要なランドマークになる,作品にとって恵みとなる上演であったといえるだろう。これをきっかけに,さらに多様なプロダクションが試みられていくことを願う。


(会報 Vol.9 より)


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