歌劇「イェヌーファ」について

関根 日出男(チェコ文化研究家)


1.「イェヌーファ」の原作について

「画家ならだれもが感動のうちに足をとめたくなる、風光明媚なビストランカ村は、聳え立つ館に脅されるかのように、丘の麓に転がり出ていた」。プライソ ヴァー原作の「あの女ひとの育てた娘」(通称「イェヌーファ」)は、このように始まる。

この館で独り淋しく暮らしている伯爵夫人と、ポーランド貴族の末裔で、村外れに大きな萱葺き屋敷を構えているスロメク家とは、血のつながりがあるらしい。 当主の前村長は、薬草を用いた民間療法と適切な助言で、村民から尊敬されている。彼には、農場管理人助手に嫁いだ長女のハールカと、5歳年下のペトロナ (後のコステルニチカ)がいた。

父親の死後、教養があり理性的で男勝りのペトロナは、一家を切り盛りするようになる。しかし27歳になった彼女の心の中を孤独の風が吹き抜ける。こうした ある日、製粉業を営むブリヤ家の次男で、ハンサムだが酒場に入り浸り、賭け事にうつつを抜かしているトーマ(トマーシュ)と出会い、一目ぼれする。

ところがこの男は、以前から足繁く通っていた隣村の居酒屋の後家の娘と結婚してしまう。彼女はイェヌーファ(イェノフェーヴァ)を産み落として間もなく、 息を引きとる。

母や姉夫婦の猛反対を押し切って後妻となったものの、ペトロナは遊び呆ける夫トーマのために、父親から受け継いだ広大な農場や財産のほとんどを失ってしま う。トーマは自殺し、生きる望みは継娘のイェヌーファだけ。行商で家計を支えているが決して誇りを失わず、聖アントニーン教会の老堂守の後をついで、女堂 守(コステルニチカ)となってからは、ますます村民の信頼を集めている。

一方トーマの兄は、クレメニュ家からラツァ(ラヂスラフ)という子連れの後妻を迎え、4歳年下のシュテヴァ(シュチェパーン)が生まれる。やがてラツァと イェヌーファはだれもが認める恋仲となる。

10数年の歳月が流れ、ラツァが兵役に服している間にトーマの兄が亡くなり、イェヌーファはブリア家に手伝いに出るが、そこで彼女の心は、今は亡き叔父 トーマそっくりの遊び人シュテヴァに傾いてゆき、3年後ラツァが除隊してきた時には、シュテヴァの子を宿していた。
オペラは、シュテヴァの徴兵検査の結果やいかに、とイェヌーファが待ちわびる場面から始まる・・・

・・・2年間の刑期を終えたコステルニチカは、だれも彼女の過去を知らない遠い地へ行き、ラツァが借りた製粉所に移り住む。5ヶ月後、子供が生まれると聞 かされた時、かつての嬰児殺しが頭をよぎり一瞬ぎくっとするが、やがて生まれてきた可愛い孫に、おとぎ話を聞かせる牧歌的な安らかな日々が続く。

主題となったのはスロヴァーツコ地方で実際にあった、兄の恋人に横恋慕して殺傷した若者の事件と、未婚の継娘の嬰児を継母が殺した事件である。

女流作家ガブリエラ・プライソヴァーは、1862年東ボヘミアは銀山の町クトナー・ホラに生まれ、74年に東南モラヴィアはスロヴァーツコ地方の町、ホド ニーンの精糖工場に勤める伯父のもとに移り、この地方を写実的に描いた物語を次々と雑誌に発表。80年に同工場の出納係だったプライスと結婚。89年に 「農夫の娘」(フェルステルのオペラ「エヴァ」の題材)を、翌90年、一家で移住したブルノ西方のオスラヴァニ村で「あの女ひとの育てた娘」を書き上げ た。98年プラハに移ってからは文化人らと交流。夫の死後1908年にオーストリア軍大佐ハルベルトと再婚、アドリア海岸のプーラに移住。第1次世界大戦 が勃発し、夫がモラヴィア南端の町ミロヴィツェ駐屯軍司令官となったが、彼女は捕虜の扱いに抗議して反逆罪を言い渡され、夫はブラチスラヴァ南方の町シャ モリーンに投獄された。晩年は夏に南ボヘミアはツシェボニュの東フルム村の別荘に出かける以外は、プラハに定住し、1946年他界しヴィシェフラト墓地に 葬られた。
(1999年プラハ国民劇場日本公演プログラム抜粋)


2.「イェヌーファ」のヴィーン初演

ヤナーチェクは1904年秋、「イェヌーファ」のブルノ公演に、同じモラヴィア生まれのマーラーに招待状を出した。12月9日付の返信でマーラーは「あな たの作品にたいへん興味を抱いていますが、目下のところヴィーンを離れられません。せめてドイツ語の訳詞つきヴォーカル・スコアでも送って下さい」と述べ ている。

「イェヌーファ」のプラハ初演の翌1917年、ヤナーチェクは世紀の歌姫エミ・デスティンことエマ・デスティノヴァー(1878~1930)に、プラハ国 民劇場への出演を打診し、彼女もこれを約束したが、その夢は実現しなかった。

プラハのドイツ語大学法科を卒業して作家となり、役所勤めをしていたブロートは、スークから生涯で唯一度だけもらった絵ハガキで「イェヌーファ」を観るよ う勧められた。1916年11月初旬、切符が売切れだったので立見席でこれを観た彼は、熱狂的な評を同月16日ベルリンの演劇誌に送った。ヤナーチェクは 大いに感謝し二人の交友がはじまる。R・シュトラウスもスークの勧めで10月15日の公演(2幕半ば以降)を観ている。翌1917年3月4日のプラハ公演 には、ウニヴェルザール音楽出版社のヘルツカ社長も臨席し、楽譜出版とヴィーン上演への道が開けた。この時ブロートが彼に、内容を逐一ドイツ語で説明する ので、周りの人々に文句を言われたという。ヴィーン上演の成否は、ひとえにブロートの訳詞にかかっていた。その細部については、指揮にあたったライヘンベ ルガーとの間で意見の相違があった。
時は第1次世界大戦のさ中、前線でサボタージュしているチェコ軍と同じ民族の音楽など、という反対もあったが、優れたオルガニストで、第2幕の「マリアへ の祈り」が殊のほか好きだった、皇后ジタの鶴の一声で障害は除かれた。

1918年に入ったある日、ヤナーチェクは公演実現の打合わせにヴィーン・オペラ座の事務所へ赴き、代表のR・シュトラウスと指揮者のシャルクに会った。 彼らはヤナーチェクのオペラにくり返しが多すぎるから駄目だと言った。落胆したヤナーチェクが階段を下りて行くと、うしろについて来た彼らの会話の断片 「Das ist ausgeschlossen, ausgeschlossen, ausgeschlossen ! 無理だ、無理だ、無理だ!」が聞こえた。ヤナーチェクはすぐさま振り返り、「君たちだって強調するために、同じ言葉を3度もくり返してるじゃないか」とな じり、また事務所へ戻り話し合いはうまくいった。その後、彼は足繁くヴィーンに日帰りで出かけ、10時から4時間のリハーサルに付き合い、興奮しながら 帰ってきた。ヴィーン公演に来ていたボヘミア弦楽四重奏団のメンバーも、リハーサルを聴かせてもらった。

初演時にヤナーチェクはステッセル=カミラ夫妻と同じホテル「ポスト」に、夫人は両親の実家に泊った。ヴィーンでヤナーチェクは、あれほど嫌っていたドイ ツ語で話していた。

かくて「イェヌーファ」の世界への道を開いたヴィーン初演は、1918年2月16(18)日※宮廷オペラ座で行われた。皇后が妊娠していたため、皇帝ご夫 妻の臨席は なかったが、上流社会のお歴々や将官たち、原作者プライソヴァー、ブルノ・ヴェスナ女学院長マレシらも顔を見せ、ズデンカ夫人は作曲家フェルステル(夫人 はマーラーお気に入りのオペラ歌手ラウテレロヴァー)および、ステッセル夫妻と同じボックス席に坐った。ホルヴァートヴァーはプラハでの公演スケジュール の都合で来れなかった。ライヘンベルガーの指揮、演出ヴィメタル、イエヌーファをイェリッツァ、コステルニチカをルーシ・ヴァイトが歌った。イェリツァ (1887~1982)はブルノ生まれで、両親が一時ヤナーチェク家の近くに住んでいたことがあり、姉妹は結婚して青物市場近くに住んでおり、彼女らは チェコ語も話せた。公演の10日後、彼女はブルノに客演し、ヤナーチェク家と交流した。ヤナーチェクはコステルニチカ役に、1916年のプラハ初演で歌っ たホルヴァートヴァーを当てにしていたが、よりドラマチックに歌えるからと起用されたヴァイト(1880~1940)は、北モラヴィアのトロパウ(現オパ ヴァ)の出身だった。

幕が開くと美しい舞台に、観客は思わず感嘆のため息を漏らした。オーケストラ団員と合唱団員は、それぞれ100名を超えていた。

第1幕の「徴兵帰りの若者の合唱」場面では、リボンで飾り立てられた馬まで登場し、若者たちの民族衣裳25着は、劇団員2人が前年秋に、ウヘルスケー・フ ラヂシチェやキヨフの町まで赴いて調達したものだった。リハーサルの段階でヤナーチェクは、徴兵の踊りヴェルブンコシを習いに、プラハへバレエ主任を送る よう演出家のヴィメタルに頼んだが、ヴィーン子にその真偽など解らないから無駄だと断られた。
オーケストラの演奏にはかなりのミスがあり、テンポもしばしば正確さを欠いていた。野良帰りのコステルニチカが、熊手を担ぎみすぼらしい姿で登場するとヤ ナーチェクは顔を歪め、5場最後の「若いカップルは皆、苦難に耐えてゆかねば」の合唱場面、ここは楽譜では2拍子になっているが、3小節を2小節に見立て 3拍子で振れと指示していたのに、指揮者は守らなかったと怒っていた。隣に坐っていたブロートは、その度にヤナーチェクに脇腹を突つかれ、痣ができたとぼ やき、次の幕からは席を移した。

ヤナーチェクは観客が理解してるだろうかと、彼らの顔を観察していた。しかし第2幕フィナーレでティンパニの5連打(1拍休止を含む6連音)がくり返し轟 くと、劇場全体は割れんばかりの拍手で満たされ、ヤナーチェクは舞台に引っ張り出され、夫人のボックス席にはヘルツカとプライソヴァーが挨拶にきた。第3 幕の嬰児殺し露見の場面で、劇場は騒然となったが、最後の浄化の二重唱でみなは胸を撫で下ろした。オペラが終り20回も舞台に呼び出されたヤナーチェク は、15年前に若くして亡くなった娘オルガに思いを致していたに違いない。受け取った花束はカミラに渡した。公演後ホテル「ポスト」で打ち上げがあった。

 翌日、夫妻はブルノへの帰りの汽車の中で、空腹をこらえていた時、見知らぬ男にソーセージを振舞われ、殊のほか嬉しかったという。


※ヴィーン初演の日は、文献によりまちまちであるため。


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