『イェヌーファ』のマックス・ブロート訳をめぐって

小 田 謙爾


ヤナーチェクの出世作オペラ『彼女の養女』のリブ レットは、ユダヤ系プラハ市民のマックス・ブロートの手によってドイツ語に翻訳され、ヒロインの名を とって『イェヌーファ』 と名付けられた。この独訳版は1918年にウィーンで上演、また同地のウニヴェルザール社から出版され、ドイツ語圏のみならず、世 界中でこの独訳は歌われることになった。以後、ヤナーチェクのオペラ作品をブロートが独訳するパターンが定着した。

80年以上経った今日でも、ドイツ語訳詞上演は、特にドイツ語圏ではなお根強く残っている。ただし、ブロート訳をそのまま使う上演は、もはやほとんどな い。本稿では、本年末の二期会によるドイツ語上演(これ も新しい訳を使用)にちなんで、この「歴史的翻訳」を紹介してみたい。

チェコ語原テキストとブロート訳で、明らかに意味が異なってくる部分を、別表に掲げた。左端の頁数は、ヤナーチェク友の 会編『イェヌーファ、対訳と解 説』改訂新版のチェコ語リブレットのものである。ブロートのドイツ語訳は、初版1918年、改訂版1997年のウニヴェルザール社発行の対訳リブ レットを 使用した。イタリックで印刷されている部分が、独訳ならびに独訳からの日本語訳である。
 
マックス・ブロート 
(1854-1968)


一見してすぐにわかるように、後にブロートが『利口な女狐』でやったようなストーリーの改変は、『イェヌーファ』では行われてはいない。おおむねブロー トの訳はチェコ語の元テキストに忠実である。時折原詞から離れるときがあるとすれば、それはチェコないしより狭くモラビアの人々以外には理解できないよう な部分であることが多い。ノヴェー・ザームキという地名が削られ、また兵役を金で逃れるという話は身代わりを雇うことだと説明される。「すべての不幸のも ととなった,あの男」という表現は、より直接的に「恥知らずに彼女を捨てたあのシュテヴァ」と変えられるといった調子である。

しかしながら、文章のスタイルという点になると、 このブロートのドイツ語には異論が出たようだ。彼の友人の一人は、イェヌーファの訳を受け取ってからし ばらくして、内容への意見を手紙にしている。彼によれば、この訳のやり方はまるで「巨人"Riesenmensch"のごとくである」という。個々の訳語 についての指摘もされている。たとえば、友の会編による対 訳のp.24、"potom té mají mít rády"「それなのに、可愛がってくれだなんて」が、"Siehst du, dann soll man dich lieben!"「わかってるの、それでもあんたを可愛がれっていうのね」と訳されているところがある。大きな変更とは思えないので、表には含めなかった が、この友人はこの部分を評して、「まるで、僕たちのドイツ人じゃない母親から聞かされていたようなドイツ語じゃないか」と皮肉っている。ドイツ語として は不自然ということのようだ。また、この表現に、プラハに住むユダヤ人たちの微妙なアイデンティティも感じられ、プラハのドイツ語が言語上の離れ島だった ことと関連付けてみたくもなる。2幕の幕切れは、ブロートを悩ませたようだが、「まるで死神が中を覗き込んで薄笑いを浮かべているよう」という訳は、この 友人には気になったようだ。

この友人こそ誰あろう、フランツ・カフカである。カフカは、ブロートの恣意的な訳を批判しているのだが、彼自身の遺稿を預かった親友ブロートが、それを やはり改竄してしまうことになるとは、思いもよらなかったに違いない。なお、後年カフカはブロートを介して、ヤナーチェクの知己を得ることになる。
 
フランツ・カフカ (1883-1924)


参照ページ
原文およびブロート訳
日本語訳
1幕
P22
když jsem se, chlapčisko siré, za vámi přikrádal,
Euch einmal küssen wollt´
遠慮しながら近づいていくとき
→キスしようと思ったとき
P24
když čeká Štefka od assenty ?
wo doch ihr Stewa heut’ doch Soldat wird ?
徴兵検査から帰ってくるシュテヴァを待ってるのに?
→シュテヴァが兵隊になるというのに?
P26
učitelem být jsi měla.
Zur Lehrerin bist du geboren.
先生になればよかったのに。
→先生に生まれついているんだよ。

Ba, ten můj rozum
Ach, mein Mannsverstand
まあ,私の知恵なんか,
→まあ,私の男の知恵なんか
P26
jak ta její svatba se Štefkem, ke které se chystají.
Verderben auch die Hochzeit mit Stewa,
die sie nicht erwarten kann.
準備にかかってるシュテヴァとの結婚が,だめになるようにと。
→花が枯れれば,イェヌーファが諦めて,
    シュテヴァとの結婚もだめになるようにと。
P30
Však ty nezapíraj, nemáš takového srdce.
Schäm dich Laca !
Hast doch nie ein hartes Herz sonst.
隠さなくたっていい,それは本心じゃなかろう。
→恥ずかしいとは思わんのかラツァ。
    本当はそんなにひどい奴じゃなかろうに。

on ji ještě nemá.
Noch ist lang nicht Hochzeit.
あいつはまだ彼女をものにしちゃいない。
→結婚式はまだだぜ。
P32
Který je bohatý, z vojny sa vyplatí,
a já nebožáček musím být vojáček.
Will man nicht einrücken, kann man Ersatz schicken,
doch ach, ich armer Wicht zahl` den Ersatzmann nicht.
金ある奴は,金を払って,兵役のがれ,
貧しい俺は,兵隊にならにゃ。
→入隊したくない奴は,身代わりを送るけど
    貧しい俺は,身代わりに払う金がない。
P36 "Daleko, široko do těch Nových Zámku."
„Hinterm Dorf weit steht ein Schlösselein fein“
『ノヴェー・ザームキ村は遥か彼方』
→『村の彼方に素敵な城が』
P50 Laco, neutíkej, tys jí to urobil naschvál !
Laca, du hast zufleiß getan, du Tollkopf !
ラツァ,逃げるんじゃない,わざとやったな!
→ラツァ,わざとやったな!この馬鹿者め!
2幕P54 Ba, ta tvoje okenička už přes dvacet neděl zabedněna,
a ten tvůj hodný frajer nenašel k ní cesty.
Ja, in all den zwanzig vollen Wochen kam dein
Stewa niemals zu dir; wird wohl den Weg nicht wissen.
ああ,お前の小窓は,もう20週以上も閉められっぱなし。
でも,お前のご立派な恋人は,覗きにも来やしない。
→ああ,もう20週というもの,お前のシュテヴァは,
    来やしない。どうやって来たらいいのか知らないのかねえ。

Jen dočkej, nevíš, že jsem ho dnes pozvala,
rozhodne se to, rozhodne.
Doch heute, wart nur , hab` ich ihn hierher bestellt, heut` muss er kommen.
でも,いいかい。お前は知らんだろうが,今日あの男を呼んである の。話をつけるのさ。話をつけなくちゃ。
→でも,いいかい,今日あの男を呼んであるの。
     今日こそは,   来るにちがいない。
P62 Obudila se? To se jen ze spaní nazvedla a Števa to viděl... Už znovu spí.
Spricht sie aus dem Schlaf ? Hat sie die Zukunft vorausgeseh`n ? Unglückliche Ahnung... Nein, sie schläft ruhig.
目が覚めたのかな? 寝ぼけてちょっと身を起こしただけ,シュテヴァはそれを見たんだ・・・もう眠ってる。
→寝言だったか。この娘は未来を見てしまったのだろうか。
    不幸な予感を…。いや,ぐっすり眠ってる。

Utekl, duša bídná !
Fortgerannt, so ein Schurke !
あいつは逃げた,可愛そうな娘!
→あいつは逃げた,卑怯者が!
P66 a já si mám zatím přejít celou věčnost, celé spasení?
Und indessen sol ich verlieren alle Ewigkeit, all mein Seelenheil ?
その間に私は,永遠の苦しみと救いを越えていかなければ?
→その間に私は,永遠の命も魂の救いも,みんな失ってしま うのか?

Z hříchu vzešel, věru i Števova bídná duša !
Sündig stirbt es, ist es doch auch aus der Sünd` geboren !
罪から生まれて,シュテヴァの哀れな魂そっくり!
→この子は罪のうちに死んでいく
生まれたのも罪によってだから!
P68 pomozte! Kde jste, mamičko ?
Helft mir doch ! Ach, wo seid Ihr denn ? Warum helft Ihr nicht ?
助けて! どこにいるの,お母さん?
→助けて!どこにいるの,お母さん?どうして助けてくれな いの?

Kam jste mi ho položili,
spadne tam, ach, spadne.
Zima mu bude, zima ukrutná! Neopúštějte ho!
Dočkajte! Já ho příjdu bránit.
Wo habt ihr ihn hingetragen ? Ach, das kalte Wasser ! Frieren tut`s, ach, das Kind erfriert ja dort!
どこにあの子を置き去りにしたの,
そんな所では下に落ちてしまう。ああ落ちるわよ。
寒いんじゃないかしら,ひどい寒さよ,あの子を見捨てないで!
→どこにあの子を連れてったの,ああ,冷たい水が!凍えて しまう,そんなところでは子どもが凍え死んでしまうわ!
P78 ale jemu, té příčině všeho neštěstí, kletbuju,
Doch dem Stewa, ihm, der sie so schmählich verlassen hat, fluch` ich jetzt,
だけど,すべての不幸のもととなった,あの男には災いあれ,
→だけど,恥知らずに彼女を捨てたあのシュテヴァは,呪っ てやるわ。

aby jeho žena, která si ho s takým srdcem vezme, spíše rozumu pozbyla, než překročí jeho práh!
Mag kein Mädchen jemals, keine, die bei Sinnen ist, ihn nehmen, einsam bis zum Tod bleib` er, dieser grundschlechte Bösewicht !
あんな心の男と結婚する女は,
あいつの家の敷居をまたぐ前に,理性を失うがいい!

→およそわきまえのある娘が,決してあんな男の嫁になりま せぬよう。あいつが死ぬまで一人ぼっちでありますように。あのろくでなしが!
3幕P86 Och, bývají to muka! Spánek nikdy neodlehčí,
Ach, fürchterliche Quallen ! Schlafen kann ich nimmer,
ああ,果てしない苦しみ!眠っても少しも楽にならず,
→ああ,ぞっとする苦しみ!眠れない。

musím být vzhůru, musím, abych to všechno zažila.
Muss ganze Nächte wach sein, dass mir auch nichts erspart bleibe !
目覚めていなければ,何にでも耐えていかねば。
→夜通し目覚めて,何にでも耐えていかねばならないのか。

jako múdrá vdova nastrojena?
Dass sie wie eine ernste Witwe in die Kirche geh`n will ?
何でもわきまえた後家みたいな地味な衣装を着て?
→辛気臭い後家さんが教会へ行くみたいな衣装を着て?
P88 Proto ona přec zůstane spořádaná aj šikovná ženská!
Geht sie schlicht gekleidet auch zur Kirche, gibt es doch kein schön`res Bräutchen !
病気なのに,きちんとこなす人だこと。

→たとえ地味ななりで教会へ行ったって,あの娘より素敵な 花嫁さんはいませんよ。
P90 A o všechno bych ho byl nejraději připravil.
Hätt` ich ihn mit kaltem Blut umbringen können.
できればあいつのものは全て奪いたいくらいだ。
→あいつを殺しかねないくらいに。

Já se budu dnes na tebe zkormouceně dívat,
že to také na mne dojde jít ku oltáři.
Ach, Hochzeit wird mich heute furchtbar traurig machen, weil auch meine goldne Freiheit bald zu End` ist.
今日,私はあなたを悲しそうに眺めてるの,
だって私にも,祭壇の所に行く番が回ってくるのですもの。
→今日,結婚式を眺めてたら,とっても悲しくなりそう。 だって私の黄金の独身時代も,もうすぐ終わるんですもの。
P96 Bar žádného veselí nestrojíte, přece jsme se zdržet nemohly, abychom nešly Jenůfě vinšovat a zazpívat!
Wohl habet ihr kein Hochzeitfest ausgerichtet, dennoch hätt`s uns arg verdrossen, hätten wir unser Jenufa keinen Glückwunsch aufgesagt !
なたたちの結婚式は派手じゃないけど,我慢できなくて。私たちは イェヌーファにお祝いを言いに来たんです。

→あなたたちは(派手な)結婚のお祝いをしないけれど,私 たちはイェヌーファにおめでとうと言わないと我慢できなくって…。
P102 Ej, lidé, kterak jste ho dopravili?
Bez truhélky, bez věnečku!
Co mu pokoja nedáte?
Was tut ihr,
woll`t ihr`s ohne Sarg begraben ?
Ruhe gebt ihm !
ねえ皆さん,どうやって運んできたの?
棺にも入れず,花輪もなしに。
どうして,そっとしといてあげないの?
→どうしようっていうの?
棺にも入れず埋めるつもりなの?
そっとしといてあげてよ!
P106 mne kamenujte, bídnou!
Nur ich hab` hier gesündigt !
哀れな私に石を投げて下さい!
→私だけが罪を犯したのです
P108 Oni by tebe soudili,
Ich muss noch für dich Zeuge sein,
お前が裁判にかけられるかもしれないから!
→お前のために証言しなければ!
P110 Že's mi zúmyslně poranil to líco,
Dass Du mir die Wange damals so verletzt hast,
わざと私の頬を傷つけたけど
→私の頬を傷つけたけど

付記:本稿の作成に当たって、エルフルト大学Mathias Niendorf教授から貴重な御教示をいただいたことを、感謝して記させていただきます。


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