ヤナーチェクのフーガ発見
 

ヤナーチェクがライプツィヒ留学時代に作曲したフーガ作品が発見されたニュースについて情報提供いただきました。関根日出男先生が一部注釈を付しています。

1998年に企画された展示会「ライン修道院におけるシトー派修道士の音楽創作900年」の準備の折、同修道院の図書館司書Walter Steinmetzは、ブルノ大学の神学教授ヨゼフ・フリードリッヒ・フメリーチェク(Joseph Friedrich Chmelíček; 注1)によって収集・編纂された「フーガの本Liber Fugarum」の中に、ヤナーチェクの3つのフーガを発見した(注2)。調査の結果それらは、これまで消失していたヤナーチェク作品であることが判明した。

ライン修道院は、オーストリアのシュタイアーマルク州都グラーツから北西約10キロに位置する、世界最古のシトー派修道院で、1129年設立。バロック様式の教会と、10万冊を所蔵する図書館を擁することで知られる。Steinmetzの指摘を受けた音楽学者Klaus Hubmann(グラーツ大学)と教会音楽家Wolfgang Poppは、それらがヤナーチェクの名を冠するのに驚き、スイス・ヤナーチェク協会の会長Jakob Knausに鑑定を依頼した。

ヤナーチェクは1879年、25歳のとき、すでにブルノ師範学校教員の職を得、指揮者・作曲家として活動していたにもかかわらず、自らの理論に不足を感じ、当時音楽の中心地だったドイツに留学。同年10月から約5ヶ月ライプツィヒ音楽院、次いで翌年4月から約2ヶ月間ウィーン音楽院に学んだ。いずれもその教育内容に憤慨し、短期間の留学に終わったが、彼のその後の作曲活動にとっては滋養となる勉学だった(注3)。

彼はそのライプツィヒ時代、恋人でのちに夫人となるズデンカ宛ての書簡で、全14曲から成るフーガ集を計画していること、そのうち3曲は、公開で演奏するため清書しなければならないことを書き送っている。情熱的なフーガ収集家だったフメリーチェクは、おそらく留学が終わった1880年か81年頃にヤナーチェクと知り合っている。1881年には、この年ズデンカと結婚したヤナーチェクとオルガン学校を設立した。

新たに同定された3つのフーガは、フメリーチェクが作曲家に「せがんで入手」し、自ら写しをとって彼のコレクションに組み入れたという。彼はライン修道院と親しく交流し、しばしば同院に滞在した縁から、編纂したおよそ1500曲のフーガから成る「フーガの本」を死の前に寄贈。1891年に彼が亡くなったとき、ヤナーチェクは追悼文の中で彼のフーガ収集に言及しているが、しかし自身が数曲贈ったとは述べていない。

Knausは以上のような経緯を明らかにし、フーガが真正であると判定、おそらく作曲家は、1880年2月14日にライプツィヒ音楽院での公開演奏のために特別に清書した3つのフーガをフメリーチェクに与えたのだろうと推測する。しかしオリジナル原稿の所在はいまだに分からない。もしかしたら学期終了前の2月24日、怒りにまかせて誰にも告げることなくライプツィヒを後にした際に、作曲家は原稿を破棄してしまった可能性もある。

3つのフーガは「フーガの本」第12巻に、第60~62番として収録されている。第60番は2声、第61番は3声のフーガ、第62番は二重フーガで、最後の二重フーガは14曲のフーガ集最後に位置する、清書・公開演奏された「ズデンカ・レオシュ・フーガZdenči-Leoš-Fuge」(注4)。同時期の1~2月にかけて書かれたピアノ曲「主題と変奏」も「ズデンカ変奏曲」という異名を持ち、両曲とも婚約者への想いが込められている。

フメリーチェクが編纂した「フーガの本」は、フーガ風の形式が出現して以来の17~19世紀における、東欧圏を含むヨーロッパの有名無名の作曲家191人によるフーガが、15巻にわたって収録されている。2001年、ライン修道院の写本カタログが新たに編纂されたとき、索引(注5)も作成され、その内容は現在グラーツ大学図書館特別コレクションとして、オンラインで閲覧することができる(目録番号273)。

(注1)フメリーチェクJosef Chmelíček(1823.3.22~91.3.15)
南モラヴィアはオスラヴァ河畔のナームニェシシ(ブルノ西約35キロ)生。幼少時は丘の上の城にある、ハウグウィツ伯(*)の聖歌隊で歌っていた。オーストリアやブルノの神学校で学び、その間ブルノでは、リーガーGottfried Rieger(1764~1855)が、1828年に設立した音楽塾にも通い、1847年に神学校を卒業した。卒業前後からブルノ北の巡礼教会クシュチニはじめ、ドウブラヴィツェ、ボスコヴィツ、グラーツなどで聖職につき、ブルノ・オルガン学校設立に関与した。しばしばパレスチナやエジプトへの旅も試み、晩年にはホルン、オーボエの演奏にも挑戦していた。
彼は教会音楽の作曲に専念、「イェルサレム・ミサ」はじめミサ30曲、オフェトリウム、グアドゥアーレ、小規模のオルガン・フーガなどを作曲。ミサ曲はオーストリア、スペイン、フランスにも紹介され、カンタータ「四季の気候」は1886年ブルノで演奏された。

クシーシコフスキーとは異なり彼はフーガ作品を好み、多くの作曲家のフーガを1500集め、「Liber fugarum」として、グラーツ近郊のラインRein修道院に献呈した。

*:ハウグウィツ伯Karel J.V.Haugwitz(1797~1874ナームニェシチ生没)は作曲もし、シューベルトの作品などをハープ用に編曲していた。ヤナーチェクは彼の死後4日目の1891年3月19日付”モラフスケー・リスティ“紙上に追悼文を載せている。

(注2)展覧会カタログ(900 Jahre Zisterzienser, Musik Schaffen im Stift Rein, hg. Norbert Müller, Klaus Hubmann, Gottfried Allmer, Rein 1998)には、6.31.1(127頁)にフメリーチェクの「フーガの本」が言及されているが、個々の作曲家の名は挙げられていない。

(注3)ライプツィヒでヤナーチェクが書いた作品表は、「ティレル第1巻」164ページを参照のこと。

(注4)二重フーガの2つの主題をもとに、フメリーチェクが作曲した2つのフーガも、「フーガの本」第10巻に第38・39番として収められている。

(注5)索引には「ヤナーチェクについて:写本に含まれる作品は、Kurt Honolka: L. Janáček(1982)の[簡易]作品表(310頁、オルガン作品)には挙げられていない」ことと、ヤナーチェク学校のオルガン教師J. Kment(*)による作品が収録されている旨の、Steinmetzによる脚注が付されている。

*クメントJan Kment(1860ジェトヴァー*~1907オパヴァ)
リトミシュルのギムナジウム(1872/ 75)、フラデツ・クラーロヴェー師範学校(1875/ 77~)、プラハ・オルガン学校(~1881)で学ぶ。卒業後ブルノ・フランチェスコ会合唱長、同地神学校で教職につき、オルガン学校(1882/ 91)ではオルガン、音楽史、歌唱を教え、同時に師範学校(1884/ 85)でも教えていた。その後フリ-デクの合唱長に転じた(1892/ 1905)。彼は教会音楽の改革につとめ、オルガニストとしては即興演奏に優れていた。
双子の弟ヨゼフJosef(1892/ 1926)は、生地のオルガニスト、教師として一生を送った。

注:ジェトヴァー:東北ボヘミア~北西モラヴィアのポーランドとの国境近く、スメタナの生地リトミシュルの北、約10キロ。

※関根日出男注


(参考Link)

スイス・ヤナーチェク協会HPからニュース欄
http://www.leos-janacek.org/events/1events.htm

スイス・ヤナーチェク協会HPから作品解説欄
http://www.leos-janacek.org/lex/1f4.htm#fugen

グラーツ大学図書館特別コレクションのライン修道院写本目録
http://www.kfunigraz.ac.at/ub/sosa/stiftrein/3hand.htm

ライン修道院HPから最新情報
http://www.stift-rein.at/aktuelles

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