「グラゴル・ミサ」について

関根 日出男(チェコ文化研究家) 
(2003年度会報より)

2003年7月11、12の両日、ブルノのヤナーチェク記念劇場オペラ団が来日し、『アイーダ』を上演するが、その前夜祭として10日に、同劇場のオーケストラ、ソリストと合唱団が『グラゴル・ミサ』と『タラス・ブーリバ』、ドヴォジャークの『テ・デウム』を演奏するので、この機会に『グラゴル・ミサ』について考察を加えることにした。

1921年にヤナーチェクは、フクワルディに館を構えるオロモウツ大司教プレチャンLeopold Prečan(1966~1947)と出会い、第1次世界大戦後の教会音楽の貧困を訴えたが、大司教は「作曲家が努力せねば」と答え、ヤナーチェクにそれを書くよう示唆した。そこで彼は「ラテン語のテキストではなく、スラヴ語のものに作曲したい」旨を、弟子の神父マルチーネク Josef Martínek(1888~1962)に話し、彼から、古代教会スラヴ典礼の権威であるヴァイスJosef Vajs(1865~1959)が、ローマ字に直したグラゴル語のテキスト(宗教音楽雑誌キリル1920年刊)を借りることができた。しかしこれは放置されたままになっていた。

1926年7月11日、ヤナーチェク72歳の誕生日(7月3日)を祝い、フクワルディの生家に記念額が掲げられることになった。前日土曜の昼食会には、南の隣村コプシヴニツェにモラヴィア全土から関係者が集まり、夕べには2つの村でコンサートが開かれ、ブルノやオストラヴァからきた音楽家や地元合唱団により、「おとぎ話」「ヴァイオリン・ソナタ」「弦楽四重奏曲第1番」「霧の中で」「消えた男の日記」「民謡編曲」などが演奏された。翌日の式典は、夜来の雨のため酒場のホールで行なわれ、ヤナーチェクのスピーチについで記念額の除幕が行なわれ、合唱曲が歌われた。ヤナーチェクは式典の間じゅう隣に立っていた、プレチャン大司教の列席をことのほか喜び、これがふたたびミサ作曲への拍車をかけたらしい。

8月早々ヤナーチェクは、マルチーネクから借りてコピーした紙を手に、ルハチョヴィツェ温泉へ出かけ、2日から17日までの間に、「イントラーダ」を中心に7楽章からなるミサのスケッチを書き上げた。彼は豪雨に見舞われながら作曲していた時の様子を、次のように記している。

「湿気を帯びた森の香ばしい匂い。その中から大聖堂が浮かび上がり、霧にかすむ遠くで羊が鈴を鳴らしている。テノールで独唱する司祭と、ソプラノと合唱の汚れない天使の声。高いモミの樹冠は星の輝きをうけてロウソクとなり、儀式のあいだ聖ヴァーツラフの姿が見え、伝導師キュリロスとメトデウスの言葉が聞こえてくる」

しかし彼がメモしていたテキストは不完全なものだったらしく、8月末ブルノに帰るとすぐさま、プラハの音楽出版社フデブニーマチツェの社長で、1925年の第3回現代国際音楽祭のプラハ誘致を実現させたミコタVáclav Mikota(1896~?)に、然るべきテキストを送るよう依頼状を出した。すると9月2日に宗教雑誌『キリル』編集長のドゥシェク Jaroslav Dušek(1899~?)が、ヴァイスの論文「古代教会スラヴ語によるキュリロス・メトデウスを称えるミサ」のコピーを送ってきた。ついで9月4日には、ヴェレフラトの神学校長クビーチェクからも、クロムニェジーシの音楽文書館からとり寄せた、1919年プラハ刊のテキストが送られてきた。

これをもとにヤナーチェクは9月5日から最初の校訂にかかり、曲名を『スラヴ・ミサ Misa slavnija(Missa solemnis)』とした。さらに第2稿作成中の9月14日に、ふたたびドゥシェクから、ドウシャ Karel Douša(1876~1944)が、1920年にア・カペラの『グラゴル・ミサ』作品21aを作曲したとき用いたテキストのコピーが送られてきた。ここでは構成の上で大幅な変更が加えられ、「イントラーダ」は末尾に移された。




ヴェレフラトの教会

ヴェレフラト路傍のキュリロス・メトデウス像

10月15日に作曲し終えたこの最終第3稿は、ドウシャの作品と同じく『グラゴル・ミサ Missa Glagoljskaja』と命名され、写譜担当のセドラーチェク Václav Sedláček(1879~1944、ブルノ劇場のフルート奏者)により、12月初旬までに清書された。その後10月30日から12月初旬にかけて校訂された「オルガン・ソロ」もセドラーチェクに手渡され、この清書は12月20日に終っているが、ヤナーチェクはさらに少し手を加えている。

1927年の初頭ヤナーチェクは、オペラ『死の家から』の作曲に忙殺されていたが、5月27日になって、ふたたび『ミサ』を改訂してセドラーチェクに清書させ、9月1日には別の写譜担当者クルハーネクにも清書させた。このあと合唱のみのリハーサルがベセドニー会館で、弟子のブラージェク Vilém Blážek(1900~?)をコレペティトゥール(練習指揮者)として始められた。11月には4人の独唱者:チュヴァノヴァー(S)、フロウシコヴァー(A)、タウバー(T)、ニェメチェク(B)も加わった。18日にはじめて顔を出したヤナーチェクは、12月にかけ、さらに大がかりな改定を行なった。

たとえば「序奏」におけるリズムの簡素化、「キリエ」での5/4拍子(曲頭と末尾)を2/2拍子に変更、「クレード」の121小節目からの(ベルリオーズの『幻想交響曲』第3楽章における、オーボエと同じ効果を狙った)3本のクラリネットの舞台裏配置指示の撤回、210小節目アレグロからのオルガン・ソロ部分で、その前と間に数回入る嵐のような、小太鼓を伴う3つのペダル・ティンパニ+弦楽器の演奏をとりやめ、{われらのために十字架につけられ}の合唱も1回省略、したがってアンダンテまでの小節数を、40小節と大巾に縮小(初演1週間前の変更)、および「サンクトゥス」での182小節以降(テノール・ソロに入る前)の高音域合唱の14小節カットなどである。しかしこれらは作曲者の本心ではなく、当時の当地演奏者の技量を考慮してのことだったらしい。

その後も黒や赤のインク、赤や黒や青のペン、さらにまた黒インクでの訂正がいくつか楽譜に書きこまれている。その詳細は省略するが、度重なる改訂で本来の荒々しさが損ねられた、という意見もある。
  ヤナーチェク家で1894年から家政婦をしていたマリエ・ステイスカロヴァーの回想によると、ヤナーチェクが『ミサ』の「クレード」の部分をズデンカ夫人にピアノで弾いてきかせたとろ、夫人は「ずいぶんとティンパニを使ったものね、まるで雷が鳴ってるみたい。とても祈りの音楽には思えないわ、神様を冒涜してるみたいで」と言ったとか。ヤナーチェクはしばらく考えた後でこのティンパニを削除したという。マリエが勤めはじめた頃ヤナーチェクは、教会でオルガンを弾き、神父たちの間にもたくさん友人がいたのに、いつの頃からか教会へはゆかず、祈りもしなくなったという。
  またプラハに住んでいた姪のヴィェラによれば、当時ヤナーチェクは教会の雰囲気を味わうため、よくエマウズ教会に通っていたが、それ以外では雨宿りに教会の庇をかりることもなく、「あそこにあるのは死と墓と受難の絵ばかりで、儀式と祈りと歌にも死の匂いがする」ともらしていたという。彼の神は教会以外の至るところに存在していたのだろう。
『グラゴル・ミサ』の初演は1927年12月5日(月曜)午後8時、ブルノのドヴォラン展示館(ソコル・スタディオン)で、フィルハーモニー協会第4回定期演奏会の折、作曲者臨席のもと、クヴァピル指揮ブルノ国民劇場オーケストラとベセダ合唱団により、クシチカのカンタータ『荒野での誘惑』についで行なわれ、「イントラーダ」を冒頭にも入れた9楽章として演奏された。この作品はプレチャン神父に献呈されている。

初演後、ヤナーチェクはテキストの点検を、スラヴ言語学者のワインガルト Miloš Weigart(1890~1939)に依頼しており、彼は後にウニヴェルザール出版社から出された楽譜の歌詞を監修している。ヤナーチェクが用いていたのは14世紀の手稿だが、ワインガルトは11世紀のものを原典としている。

1928年2月にルドヴィーク・クンデラ(1891~1971、「冗談」で有名な作家ミランの父親、ピアニスト)が、プラハの音楽雑誌『テンポ』書いた「・・彼も老年になって信心深くなった・・」という批評に応え、ヤナーチェクは3月8日の『リテラールニー・スヴィェト(文学世界)』紙上で「わしは老人でも、信者でもない」と怒りの言葉をのべている。

19世紀後半におこった教会音楽普及のためのチェチリア運動の影響をうけ、20世紀に入ると古代教会スラヴ語、正しくはグラゴル語によるミサ Mša Glagolskaja の作曲が行なわれた。既述のドウシャ以外に、ヤナーチェクの弟子だったコジュシニーチェクLadislav Kožušníček(1880~1922)は、1907年にキュリロス・メトデウス祭日(7月5日)のために、ア・カペラの『グラゴル・ミサ』を、フェルステル J. B. Foerster (1859~1951)も1923年に、オルガンと合唱のための作品123を書いている。現代スロヴァキア作曲家サルヴァ Tadeáš Salva (1937生)にも、1969年作の同名の作品があり、チェコ音楽界の長老ハヌシュ Jan Hanuš (1915生)の7番目のミサ(1985年作)も「グラゴル」の名前を冠している。

ヤナーチェクは、ブルノの聖アウグスティノ修道院音楽給費生だった1869年に、ブルノ東方約70キロ、かつての大モラヴィア王国の都だった、ヴェレフラトの壮大な巡礼教会で行なわれた、キュリロス没後1000年祭に参加し、師の Pavel Křížkovskýクシーシコフスキー(1820~85)指揮のもとで歌い、深い感銘をうけた。

862年にモラヴィアのロスチスラフ侯は、この地にスラヴ語のキリスト法を広めるため、ビザンチン帝国のミカエル三世に特使の派遣を要請した。かくて863年秋に送られてきたのが、マケドニアはサロニカ出身のコンスタンチヌス別名キュリロス(827~69)とメトデウス(815~85)の兄弟だった。二人はすぐさまバイブルや他の教会関係書の一部を、ギリシャ語から初期東バルカン・スラヴ語に翻訳した。

「これは現在マケド・ブルガリア古代教会スラヴ語として知られている、9世紀の原スラヴ語である。さらに彼らはその独自性を保つため、グラゴル(意味は言葉、響き)という新しいアルファベットを考案した。これはギリシャ語起源だが、文字はコプトやヘブライ、サマリア語の形をしている。メトデウスが死去した885年頃、このアイディアはスラヴ全域に浸透しはじめていたが、その発展は10、11世紀になると、マジャール族やゲルマン、ロマンス民族の侵攻により衰退し、ドイツ文化やラテンの典礼が支配的になっていった。スラヴ文化はビザンツに征服されるまでの970~1014年の間、ブルガリアとマケドニアで命脈を保っているだけだった。その後もスラヴの典礼は上記以外のセルビアやクロアチアの修道院に残されていた。1200年頃には簡便なキリル文字が複雑なグラゴル文字を圧迫し、グラゴル文字はクロアチアのみに残された。現在でもダルマチア海辺の修道院でその典礼書が用いられている」(ウィングフィールド著作の引用)。今もモラヴィアにはキュリロス=メトデウス信仰が残っており、各地にこの二人の聖人の像が建っている。

ヤナーチェクは、初期にいくつかの小さな宗教作品を作っているが、1907年から08年にかけラテン語につけた、混声合唱とオルガンのための『ミサ変ホ長調』が光っている。これはブルノ・オルガン学校で生徒たちに、模範例として作ったもので、「キリエ」「アニュス・デイ」と未完の「クレード」からなっていた。1942年になって弟子の作曲家ペトルジェルカ(1889~1967)が、当時の受講メモをもとに補筆、再構成し、1946年にオーケストラ用に書きかえた。この3つの部分はそれぞれ、1926年初稿の『グラゴル・ミサ』の中の対応部分に引用されていたが、のちの校訂時にカットされた。


「グラゴル・ミサ」の楽曲解説

変奏形式で書かれたこの曲は、およそ宗教的な感じのしない作品で、ティンパニを含むファンファーレと金管楽器の書法が、その直前に完成した『シンフォニエッタ』と酷似しており、8年前に独立したチェコ民族への賛歌となっている。

楽器編成: 4 Flauti( 1.,2. e 3. anche Piccolo), 2 Oboi, 1 Corno inglese, 3 Clarinetti in Sib ( 3. anche Clarinetto basso), 3 Fagotti ( 3. anche Contrafagotto ), 4 Corni in Fa, 4 Trombe in Fa, 3 Tromboni, 1 Tuba, Timpnai. Batteria ( Tamburo picc., Triangolo, Tamtam, Piatti, Campane ), 2 Arpe, Celesta, Organo, Quintetto d'archi

(○ Intrada イントラーダ):第3稿(原典版)では、最後の「イントラーダ」を最初にも演奏し、5つの合唱部分をはさみ前後に2つの器楽部分を配した、シメトリカルな構造(9楽章)になっているが、省略される場合が多い。

1.序奏 Úvod。モデラート、3/4拍子、変イ長調。ロンド風の形式。(77小節)
ティンパニを伴うホルン、トランペットの下降主題によるファンファーレにはじまり、ヴァイオリンの波うちと、木管の引き伸ばされた3つの音型が交互に現れる。

2.キリエ Gospodi, pomiluj。モデラート、2/2拍子、変イ長調。ABA’形式。(90小節)
  チェロとトロンボーンの下降主題6小節のあと、プレストの3小節でヴァイオリンが6連音で下降する。そのあとこの2つの音型が重なり、合唱は出だしと同じ旋律で歌われる。弦の上向音型による短い間奏を経てソプラノ独唱が加わり、最後のアダージオではティンパニが轟く。

3.グローリア Slava。9/4拍子、変ホ長調。ロンド風の形式。(228小節)
グロッケンシュピールと弦の短い清澄な前奏につぎ、ハープとヴィオラのアルペッジオの上で、3度音程の間でゆれ動くクラリネット音型を背景に、歌われるソプラノ独唱はオペラ「マクロプロスの秘事」のアリアを思わす。クラリネット音型を中心に曲は展開してゆき、合唱のあと、アレグロのせわしないオーケストラ間奏に入る。

モデラートでまたソプラノ独唱となり、合唱は「Vezemľej grěchy mira 世の罪を除きたもうお方」を下降音型でくり返し歌う。ティンパニとオルガンが加わり「Sědej o desnuju Otca 父の右に坐したまう主よ」とテノール独唱が歌い、合唱とかけあう。
最後は「 Amin アーメン」の大合唱のうちにティンパニと金管、オルガンが轟き終止する。

4.クレード Věruju。コン・モート、2/4拍子。ロンド風の形式。(399小節)
全曲中もっとも長大な楽章。まずはヴィオラのトリルに支えられ、バス・クラリネットと低音弦が奏でるユニゾン主題(「韻ふみ歌 Říkadla」と同じ書法)と、短2度音程で上下する「Věruju われは信ずる」の2つの楽句を中心に展開する。トランペット・ソロに先導されテノールが「I v jedinogo Gospoda Isusa Chrsta 唯一の神イエス・キリストを」と歌いはじめる。半音階的に下降する4音を含む部分をへて、また「Věruju」が今度は、チェロのトリル、クラリネットとハープを伴って現れ小休止する。

中間部のアンダンテでは、舞台裏に配置された3本のクラリネット和音を背景に、叙情主題がフルートからチェロへと渡されてゆき、ピウ・モッソとなって金管が唸り、弦のトレモロが加わり小太鼓が鳴って、オルガン独奏となる。

ついで合唱はクライマックス「 Raspet že za ny われらのために十字架につけられ」に入るが、すぐに高音ヴァイオリンに導かれた静かなパッセージとなり、次第にアッチェレランドして大太鼓が鳴り、金管が唸り、ティンパニが轟いて小休止する。幾多の試練にもめげず、ふたたび冒頭の「Věruju」が歌われ、ティンパニと金管の咆哮、オルガンが入って休止。

弦の上向音型をしたがえてテノール独唱が「Katoličesku i Apostolsku Crkov 普遍にして使徒伝来の教会を信ず」を、バス独唱は「I života buduštago věka 世に命のきたらんことを」を歌い上げ、最後は「Amin アーメン」の合唱でしめくくられる。

5.サンクトゥス Svet。モデラート、4/4拍子、ホ長調。ABCB’形式。(206小節)
  低音弦の刻む4分音符の歩みの上で、ヴァイオリン、ハープ、チェレスタが天上の音楽を奏で、これにヴァイオリン独奏が加わる。ソプラノ、テノール、バス独唱、合唱の順で「Svet ! 聖なるかな」が唱えられる。コン・モートに入ってやや速度をはやめ、高音ヴァイオリンの常動的な音型の下で、ホルンが変ホ長調の旋律を力強く奏でる。

この楽章の中心をなすこのパターンは、何度もくり返される。合唱は「Plna sut nebesa i zemľa slavy tvojeje ! 主の栄えは天地に満てり」を3連音で歌い、鐘が鳴り、しばし同じ音型が続いてゆく。

メーノ・モッソになって順次ソプラノ、バス、テノール独唱が「Blagoslovľen gredyj v ime Gospodn’e 主のみ名により来たれる者に幸あれ」を歌い、ほんの少しアルト独唱も加わり、アレグロとなって合唱の「Osanna vo vyšn’ich いと高きところにホザンナ」となり、ティンパニが鳴ってテノール独唱が加わる。

6.アニュス・デイ Agneče Božij。ABA’形式。(53小節)
静かな弱音器つき8分音符、高音ヴァイオリンと、ゆったりした低音コントラバス、トロンボーン6小節前奏のあと、合唱が3度音程内で動く「Agneče Božij, pomiluj nas! 神の小羊よ、われらを憐れみたまえ」を歌う。ついで順次バス、テノール、アルト、ソプラノと独唱部分が経過し、最後は合唱でしめくくられる。

7.オルガン独奏 Varhany solo。アレグロ、3/4拍子。AA’A”形式。(154小節)
  これは対位法を駆使したパッサカリアで、最後は変イ短調主和音で終止する。ヤナーチェクにはオルガン独奏曲が、プラハのオルガン学校卒業時の1875年に作曲した「幻想曲」や「ヴァリト」など5曲ほどあるが、これはその集大成といえる。

8.イントラーダ Intrada。モデラート、3/4拍子、ハ長調。(49小節)
シンコペーションをきかせた高音ヴァイオリンのアーチをかけるような音型に先導され、ティンパニのオスティナートを伴って、トロンボーン、ホルンによる祝典的なファンファーレではじまり、このパターンがくり返される。

ヤナーチェクは1879年にブルノで、ベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』を指揮している。これは『グラゴル・ミサ』のほぼ100年前、巨匠の有力な後援者だったルドルフ大公のオロモウツ大司教就任(1820年)を祝って作曲されたもので(完成は1823年)、汎神論的なこの作品にヤナーチェクは共感を抱いていたらしい。だから『ミサ・ソレムニス』における「サンクトウス」での「ベネディクトゥス」以降のヴァイオリン・ソロや、「アニュス・デイ」フィナーレでの金管とティンパニの使用が、ヤナーチェク自身は否定しているが、『グラゴル・ミサ』に影響を与えているような気がする。

もっともL・クンデラによれば、祭日のミサの「イントラーダ」に、トランペットとティンパニが用いられるのは、18世紀初頭からチェコでは習慣になっていたという。



「グラゴル・ミサ」初演以後の演奏について
1928年4月8日にはプラハのスメタナ・ホールで、クヴァピル指揮チェコ・フィルにより、冒頭にも「イントラーダ」を入れた『グラゴル・ミサ』が演奏され、ステッセル夫妻と臨席した作曲者は、理想的な出来だと激賞した(向かいのボックス席には、令嬢のアリツェを従えたマサリク大統領が坐っていた)。1929年2月28日には、ベルリン高等音楽院でツェムリンスキの指揮で、同年4月7日にはジュネーヴで開かれた第7回国際現代音楽祭で、クヴァピル指揮するスイス・ロマンド交響楽団により、1930年10月23日にはノーウィチ音楽祭でH.ウッドの指揮で、同年10月26日には、ボダンスキ指揮によるニューヨークのメトロポリタン・オペラにより演奏された。

その後の目ぼしい演奏を拾ってみると、「プラハの春音楽祭」の掉尾を飾り、1948年6月5日にクベリークの指揮で、ヤナーチェクの全オペラが上演された「ブルノ音楽祭」期間中の1958年10月20日にフォーゲルの指揮で、1964年のエジンバラ音楽祭ではクルムプホルツの指揮で演奏されている。1968年と1969年には Ch.ドフナーニイの指揮ロンドンso.で、1972年12月7日にはM・デイヴィス指揮で、1974年1月にはA・デイヴィスの指揮で演奏されている。日本では1972年10月19日のコシュレル指揮、東京交響楽団を皮切りに、1976年10月19日には、ノイマン指揮チェコ・フィルとプラハ合唱団が、NHKホールで演奏した。1978年から79年にかけては、フィンランドからアメリカまで20以上の国々で演奏されている。


録音(年代順、いずれも40分前後)
(1951) バカラ : ブルノ放送so.
(1963) アンチェル : チェコ・フィル
     バーンスタイン : ニューヨーク・フィル
(1964) クベリーク : バイエルン放送so.
(1973) ケンペ : ロイヤル・フィル
(1978) ノイマン : チェコ・フィル、
     スロヴァーク : スロヴァキア・フィル
(1979) コシュレル : スロヴァキア・フィル
     マタチッチ : ザグレブ・フィル
(1980) イーレク : ブルノ・フィル
(1981) ラトル : バーミンガム市so.
(1984) マッケラス : チェコ・フィル
(1988) ギーレン : 南西ドイツ放送so.
(1990) ショウ : アトランタso.
(1991) デュトワ : モントリオールso.
     マズア : ゲヴァントハウスso.
     トーマス : ロンドンso.
(1994) マッケラス : デンマーク放送so.(原典版9楽章)
(1995) インバル : ベルリン・ドイツso.
(1997) シャイー : ウィン・フィル
(1999) スヴァーロフスキー: ブルノso.

主な参照資料:
Jaroslav Smolka: Česká kantáta a oratorium, Supraphon, 1970.
Paul Wingfield : Janáček = Glagolitic Mass, Cambridge University Press, 1992.
クンデラ編集ピアノ譜 UE 9544 (歌詞監修ワインガルト) Universal Edition, 1928.
ポケット・スコア   UE 13366(歌詞監修ワインガルト) Universal Edition, 1956.


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