スピーチ「チェコ音楽とヤナーチェクと私」

 ラドミル・エリシュカ(指揮者、チェコドヴォジャーク協会会長)


2004年11月に初めて来日が実現し、東京フィルと名古屋フィルとの公演で話題をさらったラドミル・エリシュカ氏の歓迎会を当 会主催で行いました。会の中でのエリシュカ氏のスピーチの大まかな内容は以下の通りです。


ラドミル・エリシュカ氏プロフィール

Radomil Eliska
1931年チェコ共和国ブルノ生まれ。
ブルノ音楽大学(ブルノ音楽アカデミー)卒。在学中に、ヤナーチェクの高弟ブジェチスラフ・バカラ教授に師事。その後、チェコユースシンフォニーオーケス トラを指揮した後、チェコの名門オーケストラ、カルロヴィヴァリ交響楽団(1835年創立、ドヴォジャークの「新世界交響曲」の欧州初演をした楽団でもあ る)の指揮者として1969年~90年まで活動した。チェコフィルハーモニー交響楽団やプラハ交響楽団などにも頻繁に指揮台に招かれ、「プラハの春音楽 祭」にも、たびたび出演するなど着実にその地位を固めていった。その他ドイツ、オーストリア、スペイン、旧ソビエト等に招かれ、その洗練された音楽性は高 く評価され、特にドヴォジャーク、ヤナーチェクといったお国ものはもちろんのことブラームスの大家としても高く評価されている。また、1978年からプラ ハ 音楽大学(プラハ音楽アカデミー)において指揮法を指導し、1996年から同大学指揮科教授の任にある。その他、チェコドヴォジャーク協会の会長も務めて い る。



先ず初めにこのたび皆さんのおかげで来日し、コンサートを指揮することができ、また演奏をお褒め頂き、心より感謝しております。

そして今、何よりも日本に「ヤナーチェク友の会」が存在する、ということに驚き、そのことに対して高く評価したいと思います。初めてその存在を聞いたとき には自分の耳を疑いました。

私はブルノのヤナーチェク・アカデミーで学びました。この音楽大学は、チェコ国内でも、最もレヴェルの高い音楽教育を施しています。
初めの1年は、チェコ・フィルの第二指揮者として、長い間ヴァーツラフ・タリフとともに活躍していたフランチシェク・ストゥプカに師事しました。けれども 高齢のためすぐに引退されたので、その後アカデミーに就任されたフランチシェク・バカラに師事しました。

ここに、ヤナーチェクに関する資料があります。残念ながら絶版になっているので、差し上げることができずに申し訳ないのですが、この中に若い時のバカラが ヤナーチェクの他の弟子たちと一緒に写っている写真があります。バカラは大変有望な指揮者でした。絶対音感を持つ、素晴らしいピアニストで、オルガン奏者 でもありました。確か2年間アメリカのフィラデルフィアでも活躍したと思います。とても美しい白髪で、背が高い方でした。今思うと、彼は私たちにとっては 優し過ぎましたね。私たちがバカラの持っている多くのことを学ぶためには、彼はもう少し厳しかった方が良かったと思います。

バカラとヤナーチェクはとても親しい間柄でした。例えば、バカラには子供が3人いましたが、3人とも洗礼を受けたときの名付け親がヤナーチェクだったので す。男の子が2人、女の子がひとりでしたがね。

ご存知のとおり、ヤナーチェクはとても気性の激しい人物で、ヤナーチェクに関する興味深い話をいくつもバカラから聞きました。例えば、ヤナーチェクはよくオペラの初演の批評を新聞に書いていましたが、ある時、プッチーニのオペラ「トスカ」の初演の時に座席の真ん中に座っていながら何か上演中に気に入らないことがあったらしく急に怒り出して大声を上げながら、人々が唖然として見ている中、席を立って出ていってしまったそうです(笑)。またある時は、教えていた音楽学校の教室のべーゼンドルファーのピアノが古くなってしまったので、プラハの文部省にピアノを買うお金を請求して、自ら電話をかけたのですが、文部 省がピアノ代を出すのを渋ったので、電話口でヤナーチェクが方言で「くれるの、くれないの!?Date nebo nedate (ダテ ネボ ネダテ)?! 」〈注:母音のaが短い〉と激しく怒鳴って電話を切ったそうです(笑)。

ヤナーチェクは、ドヴォジャークをとても敬愛していました。ドヴォジャークは彼にとって唯一の手本と言って良いと思います。私はチェコのアントニ-ン・ド ヴォジャーク協会の会長をしていますが、先日、(2004年9月に)私たちの協会でドヴォジャークが3年間オルガニストとして勤めていたプラハの聖ヴォイ チェフ教会でコンサートを催し、記念のプレートをかけました。ドヴォジャークは1941年に生まれ、ヤナーチェクは1854年生まれでドヴォジャークより 13歳の年下です。まだ若いドヴォジャークは生活費を稼ぐためにそこでオルガンを弾いていたのですが、ちょうどその頃ヤナーチェクはプラハのオルガン学校 の学生でした。彼らはその頃知り合ったのです。ドヴォジャークは寡黙な、どちらかといえば閉鎖的な人間でした。けれどもヤナーチェクには打ち解けて、二人 は休暇に一緒に旅に出てジープ山に登ったことがあります。その時、明らかにヤナーチェクはドヴォジャークから多くの事を学びました。またヤナーチェクはブ ルノでアマチュアの合唱団やオーケストラの指揮をしていた時に、ドヴォジャークの作品のいくつかをブルノで初演しました。

もちろん後年ヤナーチェクの音楽はドヴォジャークよりずっと現代的になっていきました。皆さんはご存知のことと思いますが、ヤナーチェクの最初のオペラは 「シャールカ」その次は「物語の始まり」、そして10年かけて作曲した「イェヌーファ」へと続きますが、「イェヌーファ」の作曲方法はその前にドヴォ ジャークが書いていたオペラよりもずっとモダンだったのです。「イェヌーファ」のブルノでの初演はちょうど100年前の1904年でしたが、その音楽の質 の高さを聴衆は理解できなかったので、1916年のプラハでの初演までの長い間ずっと上演されませんでした。当時の国民劇場の指揮者のカレル・コヴァジョ ヴィツが、イェヌーファの楽譜の改訂をして、その後もずっと使用されています。
とても興味深いのは、ヤナーチェクは1918年の第一次世界大戦終戦の年から10年後の28年に亡くなりましたが、その10年間は彼の生涯でももっとも作 曲活動が充実しており、彼の傑作を含む全体の4分の3、つまり75%の作品を生み出しています。ヤナーチェクはドヴォジャークのスタイルを受け継ぎました が、ヤナーチェクのそれを受け継いだものは誰もいませんでした。ヤナーチェクは自分が自らの作品の教師であったのです。彼のスタイルは独創性に富み、特別 なもので、クラシックなハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンといった流れとは違うものだったのです。

さらに面白いのは、彼は「イェヌーファ」を作曲し ていたころから既に何かモチーフが浮かぶとすぐにカフスに書き込んでいました。五線紙がないときは、すぐに自分で線を引いてそのモチーフを書き取りまし た。そのモチーフは必ずその時書かれたそのままの状態で作品に用いられなければならなかったのです。それは最終的な、そして決定的な作業だったのです。そ の最初のモチーフは後で決して修正したりしてはいけなかったのです。ヤナーチェクはそのモチーフの扱いが、ほかの作曲家たちと全く違ったので、誰とも比べ ることができないのです。彼はブルノの青空市場に好んで通い、「キャベツはここだよ!」とか「これを買っておくれよ!」など言葉の中のメロディー(発話旋 律とも言いますが)を聴きに行き、熱心に書き取っていました。要するに彼のオペラの中のメロディーのイントネーションは、ボヘミアやモラヴィアの言葉の中 のイントネーションをそのまま用いていて、後で手を入れたりしていません。

もう一つ興味深い話があります。合唱指導者のシュタイマンという人物が「さまよえる狂人」という、インドの文学者タゴールの詩を持ってヤナーチェクの家を 訪問しました。ヤナーチェクは詩を読み出すとすぐにこの詩に興味を持ち、シュタイマンが帰る頃には既に3つの作曲上のモチーフを作り上げ、最終的にこの詩 をもとにカンタータを書いたのでした。

今日、これらのことが要因になって、ヤナーチェクの音楽がいかに生き生きとしたものであるかが明らかになっています。ヤナーチェクの音楽は決してあとで手 を加えたり、意図的に書き換えたりしてはいけなかったのです。いつも「ひらめき」であるべきなのです。ヤナーチェクはいつも作品の中にはっきりした「ひら めき」がないと気に入りませんでした。自分の弟子のものや、その他の作品を聴いた時にオリジナルのひらめきや、良いひらめきがないと嫌だったのです。音楽 にはっきりした、本物のひらめきがなければならなかった、それがヤナーチェクなのです。

彼はとても情熱的なことで有名でした。彼はよくモラヴィアにあるルハチョヴィツェという温泉保養地に通い、そこで1917年に初めてカミラ・シュテッスロ ヴァーに会うことになります。彼は妻帯者でしたが、二人の子供は既に亡くなっており、一人でルハチョヴィツェに通っていました。ヤナーチェクにとってカミ ラ・ステッスロヴァーは知り合うとすぐに彼のその後の多くの作品にインスピレーションを与える重要な存在となり、その関係はヤナーチェクの生涯の終わり まで続きました。その中で最も典型的な作品は、まずオペラ「カーチャ・カバノヴァー」です。また弦楽四重奏第2番「ないしょの手紙」などです。室内楽では もっともよく知られた「消えた男の日記」もその中の一つです。この作品はテノールのソロとアルト、女声の三重唱、そしてピアノという編成で書かれていま す。これは、ブルノの新聞に載った、20歳ほどの若者の書いた匿名の詩をもとに作られています。美しいジプシーの娘に恋をした若者が全てを捨てて、日記だ け残して姿を消してしまいます。
ヤナーチェクの死はカミラとの出会いに関係しています。ヤナーチェクの故郷フクワルディにカミラが子供を連れて来たのですが、その子供が森で道に迷ってしまい、74歳だったヤナーチェクがカミラとともに汗だくになりながら、その子を森に入って探したのです。その無理がたたって、その後モラヴィアの第二の都 市オストラヴァの病院で亡くなりました。フクワルディはラキア地方ですが、葬式は大規模にブルノで行われました。

カミラとの関係はあまり周囲によく評価されませんでした。彼女とのことで残念な事件があります。ご存知のことと思いますが、私たちの共和国の初代大統領は マサリックです。彼は初めウィーンの大学の教授で、後にプラハのカレル大学の教授となりました。彼は人格者で、モラルを重んじる性格でした。マサリックが プラハでヤナーチェクの「シンフォニエッタ」の初演を聴きに来た時、マサリックは大統領席に座りました。そのちょうど反対側の特別席に、ヤナーチェクがカ ミラと一緒に座りました。マサリックはカミラが誰なのかをたずね、愛人だと知ると、コンサートの終わりにヤナーチェクを自分の席に招くことをしませんでし た。それは芸術がどうこうという問題ではなく、モラルの問題だったのです。

話しが長くなってしまったので、この辺りでそろそろ閉めたいと思いますが、最後に一つお話ししたいことがあります。ヤナーチェクの音楽は彼が亡くなると長い間演奏されませんでした。もちろん、ヤナーチェクの葬儀はブルノで盛大に行われましたし、皆ヤナーチェクの名前は知っていましたが、例えばドヴォジャー クやスメタナのように演奏されることは彼の死の後はしばらくありませんでした。

今の時代は驚くべきことに、世界中で演奏されるチェコの音楽の中で、ドヴォジャークの作品の次にすぐにヤナーチェクのものが続きます。私は一昨年の世界の オペラ上演記録のリストを見ましたが、世界中の著名な劇場で本当に多くのヤナーチェクの作品が上演されています。彼は世界でもまず第一に、オペラ作曲家と して認められているのです。

 先ほど、ヤナーチェクの音楽がなぜドラマチックに訴え かけるかをお話ししましたが、もう一つ思い出すのは、ヤナーチェクはいつもオペラの台本作成に自ら関 わっていたということです。特に「イェヌーファ」というオペラでは初めて台本の歌詞を韻文形式ではなく、散文形式で書きました。これが効果を上げていま す。また、他の作曲家がフーガなどの技法を使って音楽を盛り上げるような時に、ヤナーチェクはティンパニを何度も使うような手法を使いました。また、オペ ラの最後の場面でよくある、もう死にそうな主人公が5分間もアリアを歌い続ける、というような不自然なことは決してしませんでした。

もう、かなり多くの事をお話ししましたね。最後に私の話にお付き合い下さり、心より皆さんに感謝を申し上げたいと思います。
(2004年11月23日 於:スタジオAMU / 構成:沢 由紀子)


来日中のエリシュカ夫妻

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