交響曲「ドナウ」

関根 日出男(チェコ文化研究家)


 
 
1923年3月下旬、ヤナーチェクは「カーチャ・カバノヴァー」のブラチスラヴァ初演のためこの地を訪れ、23日のミラン・ズザ(1881~1960)指 揮の上演に大満足だった。彼はこの町が気に入り、ここを流れるドナウ川についてのオーケストラ作品を書く構想がわいた。

この作品は1925年5月にほぼ出来上がっていたらしいが、同年6月2日にヤナーチェクは、ウィーン駐在チェコ大使ヴァヴェレチカに、ドナウ全行程(ドイ ツ、オーストリア、スロヴァキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ルーマニア、モルドヴァ)川下りの可能性を打診しており、さらに8月5日のカミラ・ス テッスロヴァー宛の手紙の中で、この作品の内容に触れ、のちにカミラが住まう南ボヘミアの町ピーセクを訪れ、音楽愛好家たちの前でその断片を弾いてきかせ ている。さらに1926年8月16日、この作品を初演しようとしたオストルチル(1879~1935)への返信で、「この作品は魅力的とはいえないが、急 いで仕上げねば」と述べているから、この時点ではまだ完成されていないことになる。

作曲者は「ドナウ川下り」をしてから、曲を完成させようと思っていたらしいが、この計画は政治的理由などで実現せず、「ドナウ」の草稿は1928年8月、 彼が最後に生地フクワルディを訪れた時、持参したオペラ『死の家』第3幕の草稿とともに別荘に残された。だからこの作品はスメタナの「ヴルタワ=モルダ ウ」、R・シュトラウスの未完の交響詩「ドナウ」、モイゼスの組曲「ヴァーフ川下り」のように、外面的描写をも含めたものではなく、ドナウ川を一人の女性 (カミラ)の象徴として捉えている。

1948年5月2日、フルブナ(1893~1971)の改訂版で、バカラ(1897~1958)指揮ブルノ放送交響楽団が初演。1985年にオストラヴァ のヤナーチェク・フィルの指揮者トルフリーク(1922年生)の依頼を受け、ブルノの作曲家ファルトゥス(1937年生)がM・シチェドロニュ(1942 年生)と共同で再構成した。

第1部:アンダンテ。弦楽四重奏曲「内緒の手紙」同様、上向4度 +1度というパターン(譜例1)ではじまる。「ローラ」という娼婦が、虚栄生活の末、世をはかなみ溺死する内容の、インサロフ(本名ソーニャ・シュパーロ ヴァー)という若い女流詩人の作によっている。「ローラ」がドナウ川に身を投げるくだりは、ヤナーチェクがつけ加えたもの。

第2部:アダージオ。ティンパニで悲劇が強調され、ヴィオラが 「娘の姿が見えなくなってから小一時間もたってなかった」を奏でる(譜例2)。「水浴みしていた乙女が若者にのぞかれ、恥ずかしくて入水自殺する」という パヴラ・クシチコヴァー(作曲家J・クシチカ1882~1969の妹)の詩による。

この楽章と次の楽章にはヴィオラ・ダモーレを用いるよう指定されていたが、他の弦楽器に置き換えられている。
 
第3部:トリオのないスケルツォ。クラリネットがウィーンの雰囲 気を警戒に描写し(譜例3)、途中からソプラノのヴォカリーズが入る。

第4部:「青服の少年たちの行進」を思わす愉快なデュエット(譜 例4)

「ローラ」の詩の概略は以下の通り:

「私に宮殿を下さい・・ああ! 人生は楽しげに微笑んでいる、
 ブレスレットが鳴り、個室の明かりは親しげに震え・・
 男たちの体は燃えさかる。情熱は炎の弧となって立ちのぼる、
 それを私に押しつけるのはだれ? 私にのしかかるのはだれ?」

「やがて夜は白み、もはや私を求める者はいない。
 私は寒い! 腹がへってる!―
 かつて私は魔力を秘めた赤い炎だったのに ―
 ああ、暖かい暖炉のそばで体を温めたい!」





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