ヤナーチェク「死者の家から」を演奏して

 吉井 瑞穂(マーラー・チェンバー・オーケストラ首席オーボエ奏者)



 この作曲家のピアノソナタと組曲の録音を,ルドルフ・フィルクスニーさんの演奏で偶然手にしたのは,中学生の時でした。哀愁のある何とも言えないメロディーに,初めて聞いたはずの曲なのに,なんとなく懐かしい思いを抱かされたのを,はっきりと記憶しています。それ以来,ヤナーチェクは私の中で,他の作曲家とは全く別の色を持つ,特別な作曲家です。

 ですから,そのヤナーチェクの「死者の家から」を公演するプランが私のオーケストラで発表されたとき,胸の鼓動が高鳴ったのは言うまでもありません。指揮がマエストロ,ピエール・ブーレーズというのも,喜びに拍車をかけました。

 ブーレーズさんと御一緒させて頂くのは,今回が初めて。ウィーンのMusikvereinでの数日間のオーケストラ練習。初日は,ざっと約一時間半のこのオペラをとおす。良くオーガナイズされたブーレーズさんの指揮はとても解りやすくて,拍子が目紛しくかわるこのオペラも,きっちり整えられるようでした。

 約一週間の集中リハーサル期間,同僚とよく話題にのぼったのが,この曲の密度の高さとメロディーの多面性についてです。東欧の匂いのするメロディーが流れたかと思うと,突然ラヴェルのオーケストラ曲のようなフレンチ風が吹いたり,かと思うとアルバン・ベルクのような和音がなったり。様々なキャラクターのパズルが,上手い具合に組み合わさっているよう。一見,つかみ所のないように思われたこの曲も,吹けば吹くほど,聞けば聞くほど,耳に,そして心に馴染んでいきました。

 リハーサルの内容ですが,基本的に隅々を整理整頓しながら整えていき,メロディーをどのように歌うとか,音楽的な事は全面的に我々演奏家に任せて下さった形になりました。歌い手とオケに表現する自由を与えて下さることによって,舞台上とピットの中の間で常にお互い聞き合うアンサンブルが自然と出来あがっていったのは,言うまでもありません。

 オペラというのは毎回,ライブならではの色々なハプニングが起こりますが,合計11回のパフォーマンスの全てで,常に共通したものがありました。それは,ピットの空気の凛とした静寂さとスタビリティー。どんなに曲が盛り上がっても,ステージのかなり激しい演出で 毎回色々なサプライズが起こっても,‘気’の中にピーンと張ったポジティブな緊張の線。曲の冒頭から最後の最後まで。毎公演。ヤナーチェク特有の作風が醸し出した立体的な音の空間に,マエストロのオーラ,そしてオーケストラが加わってできたその不思議な現象を,この文を書いている今でもはっきりと覚えています。

 エクサンプロヴァンスでは,このオペラと同時にモーツァルトの‘フィガロの結婚’を違うプロダクションで演奏していたのですが,ヤナーチェクの音楽が刺激する脳のパートと,モーツァルトのそれがかなり違う事にも驚かされました。ヤナーチェクの方が短い公演時間にもかかわらず,使うエネルギーは全く変わりません。その上,「死者の家から」の演奏終了は夜の10時頃でしたが 毎回毎回,例外なく明け方まで目が冴えていました。なにか麻薬というか魔法にかけられてしまったような状態になるわけです。こんな事は,後にも先にもないのではないかな,と思っています。

 2007年のこのオペラ公演は,私にとって一生忘れがたい経験になるでしょう。このプロダクションに関わった全ての方々に深謝いたします。





リハーサルでのブーレーズとシェロー(吉井瑞穂氏提供)

(会報 Vol.9 より)


※編集者注
吉井瑞穂さんは,マーラー・チェンバー・オーケストラの首席オーボエ奏者として2007年5月から7月にかけてウィーン,アムステルダム,エクサンプロヴァンスで上演されたブーレーズ指揮による「死者の家から」に参加されました。 

~オーボエ~ 吉井瑞穂のヨーロッパ日記


この上演はDVD化されております。


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