メンデルとヤナ-チェク


ISAT


最近新聞に目を通すと、DNA、遺伝子組み替え食品、ヒトゲノム、生 命科学といった現代遺伝学に関する話題が毎日紙面を賑わせている。

この遺伝学は、現在のチェコのブルノの地で生まれた。中学校の理科の教科書の「メンデルの法則」でよく知られた、ヨハン・グレゴア・メンデルがその生みの 親である。(グレゴアは洗礼名。)

それでは、作曲家レオシュ・ヤナ-チェクについてご存知の方は、こう書いたら驚くだろうか?
「ヤナーチェクは、メンデルが遺伝の実験を行った修道院で、彼の下で少年時代を送った」
しかし、これは本当のことなのだ。それではブルノの2人の軌跡をみてみよう。

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メンデルは1822年に東北モラヴィア、ラシュスコ地方のヒンチーツェ(ハインツェンドルフ)という小村で生まれた。ヤナーチェク家のゆかりの地プシーボ ルやフクワルディは、東に20数キロしか離れていない。

ただ違っていたのは、メンデルの故郷の村はドイツ語圏で、彼の母語はドイツ語だったことである。彼は一生シレジア訛りのドイツ語で話し、チェコ語はあまり 得意ではなかった。

メンデルはこの農村で少年時代を送り、やがてシレジアのオパヴァ、次にオロモウツで学生時代を送った。このオロモウツでの恩師が、ブルノのアウグスチノ修 道院院長キリル・ナップと親しかったのが縁で、メンデルは1843年に、ブルノのアウグスチノ会修道士として迎えられることになったのだった。

メンデルはブルノの神学校で5年間学び、またズノイモやブルノの学校で代用教員としても教え始めた。生徒に慕われ、同僚からも尊敬される立派な先生だっ た。ナップ院長は彼に目をかけ、1851ー53年にかけてウィーン大学の聴講生として留学する機会を与えてやった。このウィーンで学んだ物理学・化学・数 学の知識が、遺伝に科学的な法則を発見しようとする直接の契機となった。

ブルノに戻ったメンデルは、翌年1854年の秋から修道院の庭でエンドウ豆の栽培を始めた。2年をかけて各形質の純種を得ると、1856年から本格的な交 雑実験が始まった。彼は1863年まで8年間実験を続け、雑種の6代目まで観察した。そして聖務と教職のかたわら実験結果の考察を続けて、遂に遺伝の法則 を発見するに至り、1865年にブルノでの農業研究団体の研究会で発表した。

ヤナーチェクがメンデルのいるアウグスチノ修道院に入ったのは、その年の秋のことだった。父の知り合いの修道士クシーシュコフスキー(1820ー 1885)を頼って、聖歌隊員として住み込むことになったのである。クシーシュコフスキーとメンデルはオロモウツ時代からの知り合いで、相前後して同じア ウグスチノ修道院に入った。メンデルは当然、友人クシーシュコフスキーの監督している11歳の少年ヤナーチェクを知っただろうし、またヤナーチェクも、彼 の通う小学校と同じ坂道を登って、旧ブルノ市街の高等学校へ出講のために歩いてゆくメンデルの姿を目にしたに違いない。

メンデルは親切で、生徒に慕われる誠実な教師であった。教え子の一人は回想している。

「...その要望は生来的には荒削りでいくらか無骨だったが、貴く秀で た精神がそこに一種の美と輝きとを加えていた。誰にも好感を持たせずにはおかない人 の良さに溢れていた。今でも教壇に立つ先生の姿をまざまざと思い出す。濃い金髪の巻き毛の下からじっと見下ろす親しみ深いまなざしが見え、かすかにお国訛 りを交えた声が耳に響く...」

翌1866年、プロイセン軍によるブルノ占領で、聖歌隊は一時的に解散されたが、身寄りのないヤナーチェクは一人修道院に残った。またメンデルも修道院に 踏みとどまり、聖務を守った。こうした中でメンデルの論文(ドイツ語)はブルノの農業会の会報に印刷され、世界各地の学術団体や研究者に発送された。しか し、反響は皆無だった。

1867年、老修道院長ナップは死去し、翌年に次の院長が修道士たちの互選で選ばれることになった。そして選出されたのは45歳のメンデルであった。この アウグスチノ修道院長の地位は非常に高く、ウィーンから新たなモラヴィア総督が着任するごとに、まず修道院長へ御機嫌伺いに伺候したという。

メンデルは修道院長の要職で多忙の中、自分の発見した遺伝の法則を追試すべく、ほかの植物での実験やミツバチの交雑実験も行った。同じ修道院の建物に起居 する少年ヤナーチェクは、そうした院長の姿を身近に見ていた。養蜂は彼の亡き父の趣味でもあった。

1869年、15歳になったヤナーチェクは、修道院を出て師範学校の奨学生として自立した。人望あるメンデルは修道院長だけでなく、ブルノの各種の学術・ 社会団体の役員や会員も兼務していたが、合間には気象観測を熱心に行い、気象に関する論文を雑誌に発表した。

1872年、師範学校を卒業したヤナーチェクは、また古巣の修道院に通うようになった。その年秋にクシーシュコフスキーがオロモウツ大聖堂の聖歌隊の指導 に当ることになったので、ブルノの修道院の聖歌隊の副指揮者に任命されたからだった。彼は補助教員として勤務するかたわら、毎日1時間聖歌隊に練習をつ け、院長メンデルの執り行う日曜のミサでもオルガンを弾いた。これは苦学生ヤナーチェクには有難い救いだった。というのも昼食と夕食を修道院の食堂で取 り、ミサの後にオルガンを自由に弾くことができたからである。

メンデルがミサを執り行っていると、時として雰囲気が緩むことがあった。じっとしていられないヤナーチェクは、オルガン席から中央の階段を下りてきて祭壇 まで降りてきたり、また上っていったりしたからだった。ミサが終わると聖歌隊の少年たちはオルガンの周りに群がって、先輩ヤナーチェクの弾くオルガンの妙 技に聴き入ったという。

しかし、やがて修道院は大きな問題に渦中に巻き込まれた。1874年にオーストリア=ハンガリー帝国政府は、帝国内の修道院の所有財産について新たに税を 課す法案を通過させた。メンデルはその法案に従ってアウグスチノ修道院の所有財産を申告したが、それに対して政府からは、1880年まで毎年7,336グ ルデンを納入すべしという命令が届いたのである。(ちなみに、ヤナーチェクが得ていた年間奨学金は100グルデンであるから、この課税額の大きさの一端が 知れよう。)

メンデル院長は修道院の運営を危うくするとして、この課税に異議を唱えた。それは温和で人望あるメンデルを知る人には意外に思われるほど断固としたもの だった。彼はウィーン政府に異議申し立てを行い、それに対してウィーン政府は再度の支払い命令を下し、という泥仕合となり、1876年4月には遂に修道院 の動産の一部が差し押さえられる事態となった。メンデルはさらに政府へ抗議し、紛争は9年間続いた。ウィーン政府はメンデルを精神病者扱いし、修道院内部 ですら院長の精神状態を疑う声も出た。

しかし、メンデルは狂気したわけでは決してなかった。抗議活動を続けながら、彼は1879年、82年とブルノの気象についての論文を発表している。そして 自分の発見した遺伝の法則について、年少の研究者に語った。「今に私の時代が来る」と。

一方正教員になっていたヤナーチェクは、1879年にライプチヒとウィーンへの留学の機会を掴み、一年間国外にいた。そして1880年に師範学校校長の娘 ズデンカと婚約したが、帰国後は強情なまでの愛国者となっていた。婚約前はズデンカの親類とドイツ語で親しく会話し、ズデンカとはドイツ語で手紙を出し 合っていたのに、今やチェコ語以外は一言も話そうとしなくなったのである。帰国後もヤナーチェクは修道院の合唱指揮を続けていたが、その26歳の彼にウィ ーン政府に一人反抗を続けるメンデルの姿はどう写っただろうか?

しかしメンデルは、この果てのない紛争で心身を消耗した。この頃彼は甥に漏らした。私は皆につけまわされている、精神病院へ押し込める計略がある、いや命 まで狙われているのだと。そしてメンデルは1883年には慢性の腎臓炎と心臓肥大で倒れ、修道院で病臥していたが、病状は悪化し1884年1月6日に他界 した。享年62歳。

その3日後の1月9日、追悼のミサが聖マリア聖堂で行われた。大勢の市民が参列するなか、聖歌隊の指揮を取ったのはヤナーチェクであった。そして遺体はブ ルノの中央墓地に運ばれ埋葬された。

メンデルの遺伝の法則が再発見されたのは、彼の死後16年の1900年のことであった。1910年には日本を含む各国から寄せられた基金を元に、修道院広 場にメンデルの大理石像が建立された。

ヤナーチェクの音楽が国内外で広く認められるのはそれから6年後、1916年の『イェヌーファ』のプラハ上演の大成功が契機であった。

メンデルとヤナーチェクは、今は同じ墓地で眠っている。23歳離れた2人だが、同じ修道院で過ごした日々が、ともに人生の転機となったのは奇縁というべき だろうか。


修道院長メンデル


参考文献
メンデル伝        フーゴー・イルチス著 長島礼 訳  創元社   1942年
遺伝学の誕生-メンデルを生んだ知的風土  中沢信吾 著 中公新書  1985年
メンデル散策-遺伝子論の数奇な運命    中沢信午 著 新日本新書 1998年

Leos Janacek: A Biography, Jaroslav Vogel, revised and edited by Karel Janovicky, W.W. Norton, 1981



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