『マクロプロスの秘事』あれこれ

 石川 尚


今年の冬は東京交響楽団により『マクロプロスの秘事』が上演されるそうだが(※2006年12月公演のこと)、一度聞いたら忘れられないアリアを持つわけでも舞台の上で大きなドラマが進行するわけでもないこの作品、筆者は、掴みどころがないという感想を長らく持っていた。最近、立て続けに2つの上演(シュトゥットガルトとチューリヒ)に接して、音楽面でも演出面でも『マクロプロスの秘事』は本当に難しいオペラであると痛感すると同時に、このオペラのもつ豊かな音楽に魅入られつつある。ここではこの特異で魅力的な作品のうち筆者が特に気に入っているところ、気になっている点を断片的ながら記してみたい。

○「対話劇」に近いオペラ
 シュトゥットガルトでの上演では、二階建ての舞台でヤナーチェクが登場人物を拵えたりその性格を試行錯誤したりしながらオペラを作曲していく、そして舞台上方にはスクリーンが備え付けられヤナーチェクの台詞として彼の作曲観やこの歌劇のコンセプトが延々語られるという趣向だった。まさにこのオペラが物語・ドラマというより対話劇として哲学や人生観を言葉で表現する場であると、演出家(ハンス・ノイエンフェルス)がアピールしているようであった。実際、この作品には3つの幕のそれぞれに、長大な対話の場面がある。対話を対話らしく演じるには、シュプレッヒシュティンメという言葉を使うのが正しいかどうか判らないが、あまりに朗々と歌われると違和感を生じる。チューリヒでの上演では何人かの脇役の歌唱でこの違和感を拭い去ることができなかった。

○ヴィオラ・ダ・モーレの使用
 ヴィオラ・ダ・モーレは弓でこする通常の弦の他に共鳴弦をもつ、バロック時代によく用いられた弦楽器である。ヤナーチェクはこの古楽器を愛し、「マクロプロス」「カーチャ・カバノヴァー」等で使用した。マッケラス盤を聴き慣れたヤナーチェク・ファンとしては作曲者の指示通りのヴィオラ・ダ・モーレでの演奏は当然と思いがちだが、実際的にはライブでこの音量の小さい楽器をソロとして使用するのはそう簡単なことではない。CDに慣らされた耳で、実演に接すると、恐らく音量のバランスに面食らうことになるだろう。DVDにもなっている2002年ザルツブルク音楽祭の「カーチャ・カバノヴァー」(カンブルラン指揮)でのヴィオラ・ダ・モーレ演奏(奏者をカーチャらのアパートの住人として舞台上で演奏させる)は印象的であり、音量上の必要性・オーケストレーション上の要求・演出における必然性を満たす名アイディアであった。チューリヒの「マクロプロス」ではピットの中の2台のヴィオラがヴィオラ・ダ・モーレのパートを受け持っていた。他の大都市の歌劇場に比べて一回り小さいチューリヒ歌劇場ですら、ヤナーチェクがこの楽器に与えた旋律を聴衆に届けるのに斯様な工夫を要するのかと思った次第である。

○多彩な動機
 『マクロプロス』の音楽はモティーフの積み上げである。「歌える」メロディはほとんど見られず、短い動機がベートーヴェンばりに織物をなして90分のオペラを構成している。ある時はオスティナートのような執拗な繰り返しが感情の高ぶりを表し、またある時は複数のモティーフが目まぐるしく交替して聴衆を煽り立てる。それぞれの動機は何を意味しているのか?それが一筋縄ではいかない。コレナティや「エミリア・マルティ」、「エレナ・マクロプロス」についた動機のように一目瞭然のものもあるが、概してヴァグナー流のライトモティーフではなく、動機にドラマ上の人物・性格・概念を一対一対応させることはできない。むしろ筋書き上からは予測できない登場の仕方をする動機群を見つけていくのが、まるで複雑な織物をほぐしていくようで興味深い作業といえる。

 1幕のコレナティとマルティの対話。ドラマとしては起伏の乏しく単調に陥りかねないところである。音楽も前半は「コレナティの動機」を軸に平穏に進んでいく(それでも1幕冒頭でヴィーテクが歌った「グレゴル対プルス」のモティーフが顔を出したりするのが面白い)。しかし「以前、個人が立ち寄ったのですよ」(コレナティ)で突然オーボエが新しい旋律を奏する(一見唐突な楽想の転換の意図はいずれ考えてみたい所である)。そして、直後「全ての財産を譲ると言うことを」というところでもう1つの新たな動機が加わり、これら2つのテンポのよいテーマが絡み合って、対話の後半には実に闊達な音楽がつけられることになる。チューリヒの舞台は、舞台の中央奥に蒸気機関車、エミリア・マルティは最後せり出してきた機関車にひき殺されるという、シュールな演出(クラウス・ミヒェル・グリューバー)だったが、この場面では巧みな照明の切り替えで楽想の変化を裏打ちしていて感心させられた。もう1つ、この対話全体に登場する動機がある。「待って待って、それは彼の息子のことですよ」でModeratoで現れるヴィオラ・ダ・モーレの2回2度ずつ下降する旋律である。このテーマが次に現れるのは「仕方がないでしょ。母親の考えだったのだから」であり、これはこのテーマがここではいわばマルティの母性愛を象徴する役目を担っていることを示唆している(別の場面ではマルティ以外の登場人物、例えばクリスタによっても歌われる)。実際、対話のはじめでコレナティにグレゴルを紹介されたマルティが「この人が?」と言うとき、また、「あの人(=フェルディナンド・プルス)亡くなったの?」と驚くとき、共にこの旋律は不完全ながら鳴らされていることに気づく。

○動機はダイナミックに生成される
 あたかも自由自在に現れたり消えたりするモティーフ群であるが、それらは決して独立して突然現れる訳ではない。注意して聞くと多くの場合モティーフが現れる前に伏線とでも言うべき部分があることに気づく。例えば1幕の幕切れを支配している追い立てるようなモティーフは「そんなに変なことですか?」から始まるが、40小節程前(「しかし、まだ足りないんです」の直後)に一瞬現れてフィナーレが近いことを予感さす。また、1幕はじめ、クリスタの登場を(まるで「マタイ受難曲」のイエスの台詞でのように)神秘的に伴奏する弦の音型も、数小節前から断片的に現れていることに気づく。このようなダイナミックな動機を意識させてくれる演奏、すなわちモティーフ群をクリアーに表現し、かつモティーフから次のモティーフへの転換をわざとらしくなく聴かせる演奏こそが説得力を持つと思うのである。

○他の作品と共通のモティーフ
 昨年の本誌でご紹介した「弦楽四重奏を思わせるモティーフ」は2幕にはじめて登場し、変奏を重ねて最後は3幕の劇的なマルティの告白場面を大きく支配するのだが、同様に同時期の他の作品にも聴くことのできる「マクロプロス」のモティーフはいくつかある。例えば、プルスがエミリアの誘惑を受け入れる場面で劇的に鳴らされる短3度の下降音型は「カーチャ」でも効果的に使われている。

○登場人物の性格付け
 チューリヒの上演で最も新鮮だったのが、エミリア・マルティの性格づけであった。グラインドボーン音楽祭のDVDにおけるアニア・シリアが、言ってみれば、337年の人生を経て何を見てもシニカルに、誰にも斜に構えた態度でしか接しないマルティだったのに対し、ガブリエラ・シュナウト演ずるチューリヒのマルティは始終ふさぎの虫に取り付かれたよう。前者は達観から絶望への転落という聞かせどころを有する半面、演技上の難しさも秘めていることは想像に難くない。一方、マルティの登場から悲劇性を意識させる後者のアプローチはどうしても舞台が終始重苦しくなりがちではないか。
 マルティの振る舞いによって例えば2幕でのハウクのあり方は大きく変わってくる。取り巻く賛美者に辟易としているエミリアが、唯一心動かされるのが、昔の恋人ハウクの登場なのだが、エミリアのことを「昔の恋人エウゲニアにそっくり」だと言うハウクをみとめたエミリアは「おぅおぅ」と驚きの声を上げ、しまいには「私にキスして」と回顧の情愛を示す。ところがハウクの接吻を受けたエミリアは「お馬鹿さん、帰るのよ」と叫び、ハウクは「また来ます」とその場を立ち去る。グラインドボーンのDVDでは(シュトゥットガルトの上演でも)最後まで2人は意外な再会の喜びに有頂天であった(そして3幕での再開を期待・確信するかのようであった)が、チューリヒのハウクは(他の取り巻きと同様)シュナウト・マルティの不興を買って打ちひしがれながら追い出されるのであった。狂言回しとしてのハウクというステレオタイプな解釈とは一線を画そうとしているのだろうが、筆者には納得の行かない演技であった。ハウクといえばもう一点、3幕でプルスと入れ替わりにハウクが入ってくる場面。ヴォーカルスコアでは「ハウクが入ってくる」というト書きとプルスの「大馬鹿者」という叫びが同時に書かれている。どちらが早かったかによって、プルスの「大馬鹿者」がマルティに向けたものか、ハウクに向けたものか異なる解釈となる。細かいことだが、この場面になると楽しみに目を凝らすところでもある。

 それにしても、かような緻密な音楽が付いている対話劇、日本人の我々としては優れた対訳こそ何にも増して求めていたものである。セミステージ形式の上演に先立って今秋に出版される対訳本が大いに楽しみである(※刊行済)。

(2006年度会報より)
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