親愛なる友へ 先週のうちにライプチヒに行く用意は済ませた。しかしブラームスとヨアヒムが当地(プラハ)にいた。また『ヴァンダ』の新演出があるので、出発できなかっ た。しかし次の土曜か日曜には確実に出発できると思う。 ゲヴァントハウスの演奏会をぜひ聴きたい。次の火曜が最後の演奏だったね?駅で会おう。土曜の夕方か日曜の午前には到着する。ドレスデンで泊まることにな れば、電報を打つ。 ドヴォジャーク 1880年2月19日 |
「君の合唱曲を受け取りました。曲と献呈を心から誇りに思い、嬉し く思います。小包みを開けるとすぐに何度も曲の譜読みをしました。正直に言って、多くの パッセージと特に和声進行にはびっくりさせられて、私はうろたえました...けれどこれらの曲を通して1回、2回、3回と弾いてみると、私の耳は慣れて、 結局のところこれでいいと思うようになりました。しかしこれらの曲については、君とはまだ異論があるかもしれません。けれど、それは大したことではありま せん。これらの曲はわが国の貧しい文芸(これらの種の芸術については貧しい)を本当に豊かにすると思います。.これらの曲は独創的で、何よりも重要なこと に、真実のスラヴ魂を放射しています。「Liedertafel」では決してなく、魔法的な効果をもつパッセージがあります...」 |
ドヴォジャーク氏のスコアには、対位法についての巨匠の筆の冴えがあると確信する。彼
は明晰かつ興味深い方法で、ひとつの旋律を和声付けすることだけに満
足せずに、2、3、あるいは5つの変化する主題を結びつける。彼のスコアは一幅の名画にたとえられよう。単一の楽想が断片化された音型となって、多くのグ
ループを成して再現するが、そのひとつひとつが特有の表情を持っているのである。同様に、ドヴォジャークのスコアは興味深い音型が沢山見られる。それらは
結合して非常な和声上の創見を生み出すが、似通っているものは皆無である。音楽家は目が高くなるにつれて、ドヴォジャークのスコアに魅了されることだろ
う。何よりも重要なことは、ドヴォジャークはその音型を一定の声部に固定しないことである。一つが我々の興味を捕らえると、別のところから現れて注意を引
く。そして我々は常に興奮させられているのだ。 Hudební listy Vol.IV, 1888 p.33 |
『アルミダ』の最終リハーサルの時ほど、アントニーン・ドヴォ ジャーク博士が激怒しているところをかつて見たことが無かった。無理もない。指揮者はオーケ ストラを掌握できず、プターク氏は病気のため姿を現さなかった。出演者たちは舞台衣装を脱ぎ、リハーサルは中途半端で終わった。彼は私の方に走ってきた。 あの時なぜ彼は私を指差して、唐突に言ったのだろう。「君の『イェヌーファ』はきっと上演される。」と。 |
「1904年のある日、私は夕刻遅くに生まれて初めてワルシャワの地を踏んだ。
総督のスカロン
将軍に招かれていたのである..音楽院は紛争のただ中にあった。カリキュラムと使用言語について、論争が続いていたのである。妥協に至らないので、ロシア
人は私に院長職を提供した。 彼らは音楽院内部の難しい問題と、数か国語を使って教授す る必要性(注)に触れた。しかし私はそうした困難ではひるまなかった。私はやる気で一杯で、働き たくてたまらなかった。それに私は ィウィスワ川の川岸にある首都に足を踏みいれた途端、ポーランドとポーランド人に熱い共感を覚えていた。 翌朝早く、私は音楽院の理事たちの会議に出席した。驚いた ことに、理事の多くは軍人であった。私は音楽院の教育と運営についての試案を提出して、お歴々は 私の説明にメモを取っていた。次の日私はスカロン将軍との内々の面談に招かれた。将軍は恐らく私のロシアとロシア人に対する政治的信条について、探りを入 れたかったのだろう。 (注)音楽院の公的な場ではロシア語が使われていた。 |
1904年5月1日、私はワルシャワ・フィルハーモニーの最初の演奏会で最初の和音が
鳴り響くのを待っていた。すると支配人が舞台に立ち、ドヴォジャーク
の死を告げた。私は自分の耳を信じることができなかった。あれほど多くの音符に命を吹き込んだマエストロが、もう生者のなかにいないだと?追悼のために
『フス教徒』がプログラムに加えられ、その輝かしい和音が鳴り響き始めた... Lidové noviny, XIV, No.125, 27th April 1906 |