ドヴォジャークとヤナーチェク

~30年間の友情~

ISAT


1.プラハでの 出会い

1874年の秋、若き教員ヤナーチェクはプラハの地を踏んだ。音楽教師の免許を取るために、オルガン学校で専門の音楽教育を受けるためにである。

ヤナーチェクの祖父と父も音楽好きの村の教師だった。ただ彼らは玄人はだしのオルガンの腕前で教会でオルガンを弾いたり、村人に合唱を教えたりしたけれど も、本職は文盲の多い村人や子供たちにに読み書きや算数などを教えることで、音楽はあくまでも余技であった。しかしヤナーチェクは既に教員免許を得ていた のに、あえて音楽教師の道を選んだのだった。

勤務先の師範学校長(後に義父となる)は、一年間の休暇を許可した。この間に、通常はオルガン学校で2年かかるカリキュラムを全て学んで、国家試験を通ら なければならない。いわば背水の陣であった。

紆余曲折の上入学を許されると、ヤナーチェクは勉強に没入した。しかし定収のない彼は生活に困窮した。彼のプラハの安下宿の屋根裏部屋には暖房設備すらな く、冬になると身も凍るような寒さに襲われた。ピアノを借りる金も無かったヤナーチェクは、やむなく机にチョークで鍵盤を書き、それに向かってバッハの フーガをさらったが「気が狂いそうだった。生きている音が欲しかった。」と後年回想している。窮状を見かねた知り合いの神父は、匿名で彼の部屋にピアノを 運ばせて時には食事を差し入れた。

プラハでは演奏会に通う費用はほとんど無かったが、教会には足繁く通ってオルガンや聖歌隊の合唱に耳を傾けた。そしてヤナーチェクは周囲の紹介でドヴォ ジャークの知己を得た。

「ドヴォジャークと私が最初に出会ったのは、みぞれの降っているミィエシュチャンスカー通りの聖母マリアの像の傍だった。」(注 この通りにヤナーチェク の下宿があった。)

寒空の下でヤナーチェクは黙って手を出して握手し、不得要領な自己紹介をした。そしてヤナーチェクはドヴォジャークがオルガニストを務める、国民劇場のす ぐ裏手にある聖ヴォイチェフ教会に通った。

「聖ヴォイチェフの小さな教会。歌い手たちの一群-紳士も淑女も-で一杯だった。羊のような顎鬚をした指揮者ヨゼフ・フェルステルがバルコニーのすぐそば に立っている。オルガン席に座っているアントニーン・ドヴォジャークはなかなか見えなかった。彼は控えめに即興を弾いた...」

ドヴォジャークは当時33歳。15年前にオルガン学校を卒業して以来、プラハに居を据えて小楽団でヴァイオリンやヴィオラを弾いたり、教会のオルガニスト をしながら生計を立てて、交響曲や室内楽、さらにはオペラの作曲を独学で続けていた。前年には結婚して長男も生まれ、生計は苦しかったが創作意欲は増す一 方だった。この年には音楽雑誌に初めて彼の歌曲が印刷されたり、スメタナの指揮で交響曲第3番が初演されたりと、プラハの新進作曲家として少しづつ認めら れつつあった。

二人は同じ学校の先輩・後輩ということもあり、すぐに意気投合して無二の親友となった。ヤナーチェクは先輩ドヴォジャークの音楽への情熱に刺激を受け、時 には夜を徹して語り合った。

1875年の1月、ヤナーチェクは下宿で寒さに震えながら勉強を続けていた。暖炉に焚く薪もなく、暖かい隣室に続くドアを開けっ放しにして、「暖気を盗も うとした」が、それに気付いた隣人はすぐにドアをバタンと閉めてヤナーチェクを落胆させた。

その頃、ドヴォジャークに転機が訪れた。ウィーンの帝国文化教育省は「若く、貧しく、才能のある」音楽家のための奨学金制度を設けていたが、その音楽部門 の顧問ハンスリック、審査委員でのウィーン宮廷歌劇場の総監督ヨハン・ヘルベック、そしてブラームスの目に、ドヴォジャークの作品がとまったのである。そ して彼は奨学金年額400ズラティーを支給されることになった。(彼が聖ヴォイチェフ教会のオルガニストとして受け取っていた謝礼は月額10ズラティーに 過ぎなかった。)

生計の安定を得たドヴォジャークはさらに作曲に邁進した。これ以後2,3年でドヴォッジャークの作品は広く認められた。1878年の『スラヴ舞曲集』は大 成功を収め、彼の人気と名声を決定的にした。

若きヤナーチェクにとってドヴォジャークは仰ぐべき先輩であった。同じスラブ的な題材やスシルの民謡集を使っても、彼より遥かに優れた二重唱曲を書き、民 族舞曲を生き生きとしたオーケストラ曲に生まれ変わらせる...ヤナーチェクは自分のノートに宗教合唱曲の習作を書き、室内楽の作曲も試みはじめた。


2.ブルノに戻って

1875年の夏、オルガン学校を優等で卒業したヤナーチェクは、夏休みをモラヴィアの田舎で過ごして民俗音楽に触れた後、ブルノに戻っ た。その年10月の国家試験にも首尾良く合格し、彼は念願かなって音楽教師の道を歩み始めた。そしてヤナーチェクの音楽への情熱は、今度は作曲と演奏活動 に向けられた。彼は教職のかたわら指揮者を務めていた労働者の合唱団、そしてブルノ・ベセダ(チェコ人市民の親睦団体)の合唱団の指揮と、ブルノでの音楽 活動に全力を注いだ。

彼はより規模の大きい合唱曲を書き、ドヴォジャークの『弦楽セレナード』などの作品の影響を受けて、弦楽オーケストラのための作品に手を染めた。彼の初め ての器楽作品『組曲』(全6楽章)と『牧歌』(全7楽章)は、こうして1877-78年にかけて作曲された。若きヤナーチェクの内気な叙情と、ナイーブな 音の運びが印象的な佳曲である。

ブルノに戻っても、ドヴォジャークとの親交は続いた。1877年にヤナーチェクは初めてドヴォジャークの作品をブルノに紹介し(『弦楽セレナード』)、そ の夏に2人はボヘミア南部の歴史的名所を遊覧する旅に出た。「私たちはプラハを列車で出発したが、乗ったのはほんのわずかだった。帰りの時も乗ったのはほ んのわずかで、後は足で歩いた。この3日間の旅行でドヴォジャークと交わした会話は、小さなカバン一個に詰まるほどだった。」とヤナーチェクは回想してい る。

この頃までに2人は互いを完全に理解していたので、言葉を交わす必要すらなかった。「自分の口から出ようとする言葉を、他の人が口にした時どう感じるか、 君は知っているだろう。ドヴォジャークといる時は、いつもそんな感じがしたものだ」。そして彼は付け加えた。「彼は私の心から音楽を取った。こうした絆を 引き裂くことのできるものは、この地上にはありはしない。」

当時37歳のドヴォジャークは、この年の秋に2児を続けて失うという不幸に見舞われるが、『スラヴ舞曲第1集』、『スターバト・マーテル』などの作品を書 き上げ、長い無名時代を終えようとしていた。

ドヴォジャークもヤナーチェクの招きで、ブルノを訪れた。1878年12月15日の『牧歌』の初演の際には、ドヴォジャークの作品『男声合唱とピアノのた めのスラヴ民謡の花束』(作品43、B.76)が演奏され、彼自身がピアノを弾いた。その後に、新たにオーケストレ―ションされたばかりの『スラヴ舞曲 第一集』から4曲が演奏された。ドヴォジャークの音楽はすぐにブルノでも人気を呼び、彼はブルノ・ベセダの名誉会員となった。

ヤナーチェクは翌1879年から80年にかけて、師範学校校長の特別の許可を得てライプチヒ音楽院とウィーン音楽院に短期間留学した。ヤナーチェクはライ プチヒではひどいホームシックに苦しめられたようである。友人もできず、彼は婚約者のズデンカ・シュルツォヴァーや知人たちに手紙を何通も書き送った。そ して音楽院の教授カール・ライネッケがゲヴァントハウス演奏会でドヴォジャークの『スラヴ舞曲』を取り上げると聞きつけると、ドヴォジャークに早速連絡し た。ドヴォジャークは返事を書いた。

親愛なる友へ

先週のうちにライプチヒに行く用意は済ませた。しかしブラームスとヨアヒムが当地(プラハ)にいた。また『ヴァンダ』の新演出があるので、出発できなかっ た。しかし次の土曜か日曜には確実に出発できると思う。
ゲヴァントハウスの演奏会をぜひ聴きたい。次の火曜が最後の演奏だったね?駅で会おう。土曜の夕方か日曜の午前には到着する。ドレスデンで泊まることにな れば、電報を打つ。

ドヴォジャーク 1880年2月19日
 

またドヴォジャークは、この年ブルノ・ベセダの演奏会に出演し、自作のスラブ狂詩曲第2番とヘ長調シンフォニーを指揮した。たまたまブルノに休暇で戻って いたヤナーチェクも同席したようである。

そして留学を終えたヤナーチェクは、1881年7月13日に師範学校校長の娘ズデンカと結婚式を挙げた。翌日にボヘミア・モラヴィアをめぐる新婚旅行に出 発した新婚夫婦は、プラハでドヴォジャークに会った。ズデンカは初対面のドヴォジャークの様子を回想している。

「...私のドヴォジャークとの最初の出会いは、とてもおかしなものだった。レオシュと私が一緒に馬車に乗っていると、ドヴォジャークが向かいの道の歩道 を歩いていた。レオシュは喜びの叫び声を上げて、馬車を止めさせると彼の方に走って行った...ドヴォジャークは馬車にやって来て、馬車に頭を突っ込む と、私を見て目を丸くして大声で言った。「子供を妻にするなんて、君は何をやっているんだ!」 (注 ズデンカはこの時16歳になったばかりだった)

「それから、ドヴォジャークはしばしば私たちと共に過ごした。私の目にはドヴォジャークは飾り気がなく、親しみ深く、素っ頓狂な人に見えた。夫と私はそう した一例の後で、長い間笑ったものである。というのはドヴォジャークと私たちは一緒にカレルシュテイン城に行ったのだが、彼は搭でガイドが城守の呼び声に ついて説明するのを熱心に聞き入っていた。帰途彼はずっとその呼び声を戯画化した言い回しでぶつぶつと繰り返していたものだ。「城から離れて、5分離れ て。」ドヴォジャークの表情からは、彼が冗談を言っているのか真剣なのか分からなかった。」

ドヴォジャークは、そういう人だったようである。彼の音楽がヨーロッパ中で演奏されるようになり、プラハでスメタナに追随する音楽家たちの激しい嫉妬を受 けても、彼は無防備なところがあった。

プラハのジャーナリスト、マックス・ブロートは1924年にヤナーチェクに関する本を出版したが、その中にこんな記述がある。

「ドヴォジャークは知的な人ではなかったとしばしば言われているが、ヤナーチェクはそれに猛然と反論した。そうではなく、ドヴォジャークはいつも深く物思 いに耽っていたからなのだと彼は主張した。『彼の知性は特別な種類のものだった。彼は楽音についてだけ考えており、他のことには何も注意を払わなかっ た。』」

1884年にドヴォジャークは楽譜出版商ジムロックの要望に応じて、ピアノ4手のための作品を作曲した(『ボヘミアの森から』)。この曲集は、1883年 秋から84年にかけてドヴォジャークとヤナーチェクがボヘミアの森を散策した時の印象から生まれた。ドヴォジャークは「シューマンがよいタイトルをみな 取ってしまった」と言いながら、森の中を歩いた。「ヤナーチェクによると、2人はしばしば長い散策に出かけたが、お互いに滅多に喋らなかった。ドヴォ ジャークは口数が少なく、質問してもしばしば答えはなかった。」とマックス・ブロートは伝えている。

楽想にふけりながら、森の中を歩いている2人の音楽家の後姿が想像される逸話である。

この頃、ヤナーチェクはほとんど作曲をしていない。ウィーン留学中の作曲コンクール落選の屈辱は、彼の胸に深く突き刺さっていたのだろう。しかし、ドヴォ ジャークとの交流が作曲の試みを再開する契機になったのであろう。翌年から彼は合唱曲を書き始めた。


3.作曲の先生として

1885年にヤナーチェクは、自分の作曲活動の原点に戻って、民謡に取材した合唱作品を書き始めた。それが混声合唱曲『野鴨』、そして 『4つの男声合唱曲』である。

ヤナーチェクは『野鴨』を、勤務先の中学校の教材として作曲した。猟師に撃たれた母鴨が、死ぬ間際に自分の育てた子鴨たちのことを思い浮かべるという、ス シルの民謡集に収録された民謡の歌詞に、新たに旋律を付けた曲である。

『4つの男声合唱曲』は『脅し』、『おお、愛よ』、『ああ、軍隊よ、軍隊よ』そして『お前の美しい目』の4曲で、1885年前半頃に書かれた。最初の3つ は『野鴨』と同じく、スシルの民謡集に新たな旋律を付けた曲である。第2曲ではかつてスヴァトプルク合唱団のために書いた『愛のうつろいやすさ』の歌詞を もう一度使っている。しかし曲は民謡の歌詞のドラマを劇的に描く手法には、これまでの作品には見られない大胆さがある。

ヤナーチェクはこの曲集をドヴォジャークに献呈した。ドヴォジャークは献呈を感謝する手紙を書いたが、その中でも驚きを隠さなかった。

 
「君の合唱曲を受け取りました。曲と献呈を心から誇りに思い、嬉し く思います。小包みを開けるとすぐに何度も曲の譜読みをしました。正直に言って、多くの パッセージと特に和声進行にはびっくりさせられて、私はうろたえました...けれどこれらの曲を通して1回、2回、3回と弾いてみると、私の耳は慣れて、 結局のところこれでいいと思うようになりました。しかしこれらの曲については、君とはまだ異論があるかもしれません。けれど、それは大したことではありま せん。これらの曲はわが国の貧しい文芸(これらの種の芸術については貧しい)を本当に豊かにすると思います。.これらの曲は独創的で、何よりも重要なこと に、真実のスラヴ魂を放射しています。「Liedertafel」では決してなく、魔法的な効果をもつパッセージがあります...」
  

長年の親友ドヴォジャークの率直で好意的な感想に、ヤナーチェクは力を得たことだろう。彼は再び作曲活動に本腰を入れだした。そして1887年に、今度は 一足とびにオペラの作曲に挑戦した。

「シャールカ」の伝説は、スメタナが『我が祖国』で音楽化したことで有名だが、19世紀のチェコの芸術家が競って取り上げた題材であった。ドヴォジャーク もこの題材でオペラを書くことを考え、詩人ユリウス・ゼイエル(1841-1901)に台本を依頼した。ゼイエルは台本を書き上げたが、ドヴォジャークが 一向に着手しないので雑誌に発表し、それがヤナーチェクの目に触れたのである。

ヤナーチェクは作曲に没頭し、わずか5ヶ月ほど後にドヴォジャークに全曲のヴォーカルスコアを送った。ドヴォジャークはまずまずの出来だが、手紙よりも顔 をあわせて話し合いたいと返事したが、それも待たずに彼はゼイエルへ作曲許可を求めた。しかしゼイエルはきっぱりと拒絶した。

それにもかかわらず、ヤナーチェクは翌年の前半に、恐らくはドヴォジャークの助言に従ってほぼ全面的に書き改めて、第1幕と第2幕の総譜を作成した。だが さすがのヤナーチェクもここで断念し、作品はお蔵入りになった。

このオペラは今日でも滅多に上演されない。1時間ばかりという中途半端な長さのせいもあるが、何よりもフィビヒのオペラ『シャールカ』の陰に隠れているか らである。それでもこのオペラは若きヤナーチェクの意気込みを伝える佳作と言える。ロマン派的な合唱の多用など後年のオペラと全く異なった特徴もあるが、 真摯な性格描写は、ヤナーチェクの作曲家としての成長を見事に証明している。

こうしてヤナーチェクの創作活動は、ドヴォジャークの助言と励ましのもとに飛躍し始めた。しかしまだ30歳を過ぎたばかりの彼が本当に自分の音楽を見つけ るまでには、まだ時間が必要だった。そしてドヴォジャークはまた新たな目標として、彼の目の前に現れるのである。


4.作曲の先生として(2)


30代前半のヤナーチェクは、チェコの民謡を素材にした合唱曲を書きながら、ロマン派的なオペラ(『シャールカ』)にも挑戦するなど、作風としては迷いの 時期にあった。しかし、1885年に彼はモラヴィアの民俗学者と出会い、民謡のフィールドワークを始めたことが決定的な転機となった。

モラヴィア民謡を熱狂的に吸収したヤナーチェクは、1889年から民謡を自作に取り込んだ作品を発表し始めた。前年まで手掛けていた『シャールカ』のよう な作風は捨て去られた。まずヤナーチェクが試みたのは、モラヴィアの民俗舞曲をドヴォジャークの『スラヴ舞曲』のようなオーケストラ曲として再現して普及 につとめること、そして民謡を出版することであった。

ヤナーチェクは、フル・オーケストラのための舞曲を書いた経験は皆無だった。そのため彼はドヴォジャークの『スラヴ舞曲』やオーケストラ作品のスコアを徹 底的に学んだ。また1888年にはブルノ・ベセダが『幽霊の花嫁』を取り上げ、ドヴォジャークもプラハから駆けつけてヴィオラを弾いた。

ヤナーチェクが1888年にベセダの音楽雑誌に寄稿した記事には、次のようなくだりがある。


ドヴォジャーク氏のスコアには、対位法についての巨匠の筆の冴えがあると確信する。彼 は明晰かつ興味深い方法で、ひとつの旋律を和声付けすることだけに満 足せずに、2、3、あるいは5つの変化する主題を結びつける。彼のスコアは一幅の名画にたとえられよう。単一の楽想が断片化された音型となって、多くのグ ループを成して再現するが、そのひとつひとつが特有の表情を持っているのである。同様に、ドヴォジャークのスコアは興味深い音型が沢山見られる。それらは 結合して非常な和声上の創見を生み出すが、似通っているものは皆無である。音楽家は目が高くなるにつれて、ドヴォジャークのスコアに魅了されることだろ う。何よりも重要なことは、ドヴォジャークはその音型を一定の声部に固定しないことである。一つが我々の興味を捕らえると、別のところから現れて注意を引 く。そして我々は常に興奮させられているのだ。

Hudební listy Vol.IV, 1888 p.33 


こうしてヤナーチェクの『ラシュスコ舞曲』は作曲され、1889年2月21日に Starodavny 1 と Pilkyが初演された。このように民俗舞曲を管弦楽曲にするという発想はドヴォジャークの影響によるものだが、ヤナーチェクは既に自分の道を進みだして いる。『スラブ舞曲』はスラブ的なリズムや音型をもとにドヴォジャークが作曲した作品だが、『ラシュスコ舞曲』(当初はワラシュスコ舞曲と呼ばれていた) は、ヤナーチェクが現地で収集した原曲に基づく。そしてブルノでの初演の際には、ヤナーチェク自身と協力者の舞踏家の指導で、フォークロアに関心をもつブ ルノの女性たちが実際に舞台で踊った。(『イェヌーファ』第一幕、第三幕の舞曲は、こうした舞曲研究の名残である。)

ヤナーチェクは民謡の研究に没頭した。以後数年間の間にヤナーチェクが作曲・編曲した民俗的音楽は数知れない。オペラ『物語のはじまり』、バレエ曲『ラー コーシュ・ラーコーツィ』、ピアノ曲『モラヴィア民俗舞曲集』 等々。こうした過程を通してヤナーチェクは西欧的な音楽発想から決別した。そして彼自身の 個性を刻んだ作品が、次第に立ち現れてくる。

その最初の結実『イェヌーファ』の萌芽といえる作品群は、この時期から現れる。その最初の作品、男声合唱曲『嫉妬する男』は1888年5月14日に完成し た。この作品は後に『イェヌーファ』の序曲として作曲された序曲『嫉妬』と同じ民謡旋律を用いた注目すべき作品である。原曲は嫉妬のあまり愛する女を刃で 傷つけようとする山賊のバラットであり、『イェヌーファ』のラツァと共通するモチーフと言えよう。そして序曲『嫉妬』のクライマックスの音型は、ラツァが イェヌーファを傷つける場面で瞬間的に鳴り響くのである。

ヤナーチェクはこの作品をドヴォジャークに送って意見を求めた。そして作品はドヴォジャークの遺稿の中から1940年に再発見された。ドヴォジャークの意 見は伝わっていないが、ドヴォジャークは1890,1892年とブルノを訪れているから、互いの作品について意見を交わす機会はふんだんにあった。

ピアノ曲「Ei Danaj」は1892年4月2日に完成された。この曲の主題は『イェヌーファ』第一幕でシュテバと仲間たちが踊るOdzemek の踊りそのものである。同じ旋律はすぐ後に書かれたオーケストラ伴奏による混声合唱曲「Zelené sem sela(私は緑を蒔いた、赤を刈り取るだろう)」にも現れる。ヤナーチェクはこの合唱曲を1892年11月20日に自分の指揮で初演した。

(注)ヤナーチェク研究者のB.Stedron は、ピアノ曲「Ei Danai」が先に書かれ、それを基に「Zelené sem sela」が書かれたと結論している。更に1897年にヤナーチェクは「Zelené sem sela」を改訂し、別の歌詞を付けて、「イェヌーファ」第一幕の「Daleko siroko」の合唱と、シュテバと仲間たちが踊る「荒々しい踊り」となった。(「Janacek's Works」P80-81 参照)


ドヴォジャークが自作の演奏のために最後にブルノを訪れたのは、1897年のことであった。3年前にアメリカ滞在を終え、今や世界的な作曲家となっていた ドヴォジャークだが、ブルノ・ベセダは資金難に苦しむチェコ人歌劇場のために謝礼無しでの出演を乞い、了承されたのだった。この1897年5月8日の演奏 会では、ドヴォジャークの指揮で『交響曲第9番 新世界から』、交響詩『真昼の魔女』、序曲『謝肉祭』が演奏された。ヤナーチェクは既にベセダと喧嘩別れ していたが、この演奏会には出席し、手に持っていたプログラムの『新世界から』の箇所に走り書きで「velkolepe」と書き入れた。

1897年から翌年にかけて、ヤナーチェクはドヴォジャークの交響詩『水の精』、『真昼の悪魔』、『弦楽四重奏曲第13番』、『金の紡ぎ車』、『野鳩』を 次々と楽曲分析し、雑誌に発表している。
ヤナーチェク自身、後に『フィドル弾きの子供』(1913年)を初めとして『タラス・ブーリバ』、『ブラニークのバラット』などの交響詩を作曲した。

しかし1897年の時点では、ヤナーチェクは未だに40代の無名の音楽教師だった。この年『イェヌーファ』の第一幕は完成したようだが、第二幕に着手する まで相当長い空白があった。学校を掛け持ちする多忙な生活、病気がちの娘と、生活も楽ではなかった。しかし、ドヴォジャークには『イェヌーファ』の作曲の 進捗について知らせ、ほかの作品が完成すると送付して意見を求めた。

しかしドヴォジャークも徐々に老いていった。1897年に56歳になった彼は、この年には恩人ブラームスの死を看取らねばならなかった。以後彼はオペラの 作曲に専念した。1899年『悪魔とカーチャ』、1900年『ルサルカ』が完成し、いずれもプラハで上演された。

最終作『アルミダ』は1902年から1903年にかけて作曲された。そしてプラハ国民劇場で初演されることになったが、プラハの楽壇はいわゆる「スメタナ 派」と「ドヴォジャーク派」に二分され、国外で成功したドヴォジャークを嫉妬して、足を引こうとする動きは絶えなかった。

『アルミダ』の最終リハーサルには、ヤナーチェクも同席した。1904年、彼は愛娘を失い、前年に書き上げた『イェヌーファ』はプラハ国民歌劇場に拒絶さ れ、失意の中で50歳を目前にしていた頃である。そのリハーサルの有様を彼は後年回想している。

『アルミダ』の最終リハーサルの時ほど、アントニーン・ドヴォ ジャーク博士が激怒しているところをかつて見たことが無かった。無理もない。指揮者はオーケ ストラを掌握できず、プターク氏は病気のため姿を現さなかった。出演者たちは舞台衣装を脱ぎ、リハーサルは中途半端で終わった。彼は私の方に走ってきた。 あの時なぜ彼は私を指差して、唐突に言ったのだろう。「君の『イェヌーファ』はきっと上演される。」と。

 そして1904年3月25日に『アルミダ』初演が行なわれたが、ドヴォジャークは体の不調を感じ、幕間に退場した。頑健で知られた彼だった が、これ以後は坂道を転がるように病状が悪化した。

運命の日1904年5月1日。病床のドヴォジャークは小康を得て、昼食のために食卓に向かった。しかしスープを一口食べると不調を訴えた。彼はすぐベット に戻されて医者が呼ばれたが、すでに意識を失っていた。脳卒中の発作に襲われたのだった。

その頃、ヤナーチェクはロシアからワルシャワ音楽院院長職の打診を受けて、ワルシャワに滞在していた。作曲家として不遇のままブルノに残るか、外国で有力 なポストを得て移住するか、彼は少なからず迷ったようである。

「1904年のある日、私は夕刻遅くに生まれて初めてワルシャワの地を踏んだ。 総督のスカロン 将軍に招かれていたのである..音楽院は紛争のただ中にあった。カリキュラムと使用言語について、論争が続いていたのである。妥協に至らないので、ロシア 人は私に院長職を提供した。

彼らは音楽院内部の難しい問題と、数か国語を使って教授す る必要性(注)に触れた。しかし私はそうした困難ではひるまなかった。私はやる気で一杯で、働き たくてたまらなかった。それに私は ィウィスワ川の川岸にある首都に足を踏みいれた途端、ポーランドとポーランド人に熱い共感を覚えていた。

翌朝早く、私は音楽院の理事たちの会議に出席した。驚いた ことに、理事の多くは軍人であった。私は音楽院の教育と運営についての試案を提出して、お歴々は 私の説明にメモを取っていた。次の日私はスカロン将軍との内々の面談に招かれた。将軍は恐らく私のロシアとロシア人に対する政治的信条について、探りを入 れたかったのだろう。

(注)音楽院の公的な場ではロシア語が使われていた。


しかしヤナーチェクはワルシャワ総督に会うことはなく、この話自体も流産に終わった。ワルシャワ交響楽団のコンサートで、重大な知らせを受けたからだっ た。

1904年5月1日、私はワルシャワ・フィルハーモニーの最初の演奏会で最初の和音が 鳴り響くのを待っていた。すると支配人が舞台に立ち、ドヴォジャーク の死を告げた。私は自分の耳を信じることができなかった。あれほど多くの音符に命を吹き込んだマエストロが、もう生者のなかにいないだと?追悼のために 『フス教徒』がプログラムに加えられ、その輝かしい和音が鳴り響き始めた...

Lidové noviny, XIV, No.125, 27th April 1906

30年にわたった彼とドヴォジャークとの友情はこうして終わった。30年前、プラハの街角で出会っ33歳と20歳の若き音楽青年たちはもういなかった。一 人は偉大な作曲家として世界に知られる存在となったが、残されたヤナーチェクは、作曲の唯一の師であり親友を失った。

しかしドヴォジャークの予言は、彼の死後12年目に実現した。1916年、『イェヌーファ』は遂にプラハ国民劇場で上演され、大成功を収めるのである。以 後、ヤナーチェクは10数年の間に4つのオペラ、3つの管弦楽曲、5つの室内楽曲を書き残した。その多くは今も世界中で演奏され、近年益々上演の機会が増 えている。

1928年、ヤナーチェクは故郷フクワルディで死を迎えた。ドヴォジャークのような子孫も残さず、最後まで一匹狼を貫いた生涯であった。しかし唯一人兄事 したドヴォジャークとの30年の友情が、彼の一生を変え、作曲家として大成させた。


参考文献

Slavné Hudebni Osobnosti v Brne  Viitech Kyas, Opus musicum 1995
Leos Janacek: A Biography, Jaroslav Vogel, revised and edited by Karel Janovicky, W.W. Norton, 1981

Janacek ve vzpominkach a dopisech, Stedron, Bohumir, Prague: Topicova edice, 1946, 1st English ed.,Prague: Artia, 1955

Janacek's uncollected essays on music
Selected, edited and translated by Mirka Zemanová, Marion Boyars Publishers Inc, 1989

Leos Janacek - Zivot a dilo
Max Brod, Hudební Matice Umelecké Besedy, 1924

Antonín Dvorák - Letters and reminiscences
Otakar Sourek, translated by R.F.Samsour, Artia,

『スメタナ/ドヴォルジャーク』 大音楽家 人と作品 19  渡鏡子 音楽之友社 1966年
『ドヴォルジャークーわが祖国チェコの大地よ』 黒沼ユリ子著  リブリオ出版 1982年
『ドヴォルジャーク』 クルト・ホノルカ著 岡本和子訳  音楽之友社 1994年


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