奥の細道 倶利伽羅篇
                                                    

富山県小矢部市

平成16年(2004) 6月16日

元禄二年(1689) 八月二十九日


卯の花山・くりからが谷をこえて、金澤ハ七月中の五日也。爰に大阪よりかよふ商人何処と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものハ、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに、
塚も動け我泣声ハ秋の風     ある草庵にいざなハれて
     
秋涼し手毎にむけや爪茄子    途中吟
     
あかあかと日ハ難面つれなくもあきの風

小松と云所にてしほらしき名や小松吹萩すゝき此所多太の神社に詣。実盛が甲錦の切あり。往昔源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ龍頭に鍬形打たり。実盛討死の後、木曾義仲願状にそへて此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まの あたり縁記にみえたり。     
   
むざんやな甲の下のきりぎりす

 この山は昔、木曽義仲が夜半の寝覚めにふり仰いで月を見た山なのか。月は今哀愁を含んで、白々と山を照らしている。

**この句の山は倶利伽羅峠ではなく敦賀への道、かつての古戦場湯尾峠から見た燧山である。

 

雑記


前夜高岡市の郊外雨晴海岸の高台に泊まる。ここから海越しの立山を期待したのだが雲がかかり見えなかった。帰り道、高岡の万葉歴史館を覗いてみたが生憎の定休日。入り口に菖蒲を見て高岡を後にする。蓑島の佐伯家の茅葺を見て小矢部町に入る。旧道のスタンドで給油し倶利伽羅の道を尋ねる。分かり易い道を紹介された為、峠に直行してしまい過程の史跡は見ずに終る。
40数年前、山中温泉から上州に向かう車中(蒸気機関車)で、倶利伽羅トンネルを抜け石動に差し掛かった折、近くに古戦場があることを思い出し、何時の日か行ってみたいと思っていたのがようやく実現したわけである。
寿永2年(1183)4万の軍を率いた木曽義仲は倶利伽羅峠に陣を張り、対する平維盛10万余の大軍を待ち受けた。このとき用いたのが上の写真「火牛の計」・・・峠に備えてある説明版のスイッチを押すと音声で長いこと説明してくれた。