奥の細道 平泉篇(毛越寺) |
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岩手県西岩井郡平泉町 |
平成14年(2002) 5月31日 |
元禄二年(1689) 六月二十九日 |
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。 夏草や兵どもが夢の跡 卯の花に兼房みゆる白毛かな (曽良) 兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て雨風を凌。暫時千歳の記念とはなれり。 五月雨の降のこしてや光堂 |
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慈覚大師が開基、藤原二代基衡により再建され、中尊寺をはるかに凌ぐ規模で築かれたとされているが、戦火で焼失してしまい
芭蕉が訪れた当時は全ての堂塔はなく、大泉ケ池は草原の中に姿を隠し寺は荒れ放題で、遺すは南大門の基礎石だけとという
有様、それこそ「夏草や兵ものどもが夢の跡」だった
雑記
一ノ関の街で思わぬ渋滞に巻き込まれ、平泉での宿も決まって無く焦ってしまう。ようやく中尊寺に着き、登米から電話していた宿に再度連絡したら、そこは中尊寺からさらに20分山の中に入った所だという。携帯も思うように繋がらず、諦めて平泉の駅前に戻る。5時観光案内の人が帰るところを引き止めて宿を探してもらう。幸い駅から近い志羅山旅館に泊まることが出来た。客は誰もおらず夕食は多少遅れたが料金の割にはご馳走だった。宿は築浅く綺麗でおすすめの宿だ。 女将の助言で翌早朝(5.30)の毛越寺へ行く、勿論門は閉ざされており少し離れた通用門から入れさせてもらう。玉石を踏む音を気にしながら、誰もいない貸切の毛越寺境内の散策をした。浄土庭園と呼ばれている「大泉が池」は本当にすばらしい。池を一周する散策路もあり途中には日本で唯一の曲水の宴(ごくすい)の舞台となる遣水(やりみず)もある。 新緑も良いが紅葉の頃はまた格別綺麗だろうと思う。藤原氏が築いた極楽浄土である。 |