奥の細道  末の松山篇
                                                                                         

                     宮城県多賀城市八幡

平成14年(2002) 5月30日

元禄二年(1689)六月二十四日

それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、籬が嶋もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀也。其夜、目盲法師の琵琶をならして奥上るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず。ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。

     

末の松山は一流の歌枕として多くの歌人に親しまれ詠まれている。どんな大波もけっして越えない(私の心は決して変わらない)
というように「愛の契り」に関わって用いられる場合が多く古今和歌集,千載和歌集等などに数多く入集されている。



雑記


多賀城からさほど離れていない寶國寺(ほうこくじ)に末の松山はある。寺の前には新しい駐車場も完備され小学生の修学旅行だろうか観光バスも入っていた。まず沖の石に行く。周りを住宅に囲まれた小さな池に大小の岩が重なって海岸のようになっており松も植えられている。よもやここまで波がくることはなかろうが、案内板が由緒ある処だよと教えてくれる。

坂の小道をあがって行くと正面に二本の松が見える。これが百人一首に詠まれている
末の松山である。写真の右側の松、幹の中程に切った跡が見られるが、これは平成13年の大雪で枝が折れてしまったその痕跡だという。

  *清原元輔とは清少納言の父である。