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――杉本さんは、1947年、福井県生まれですね。子供の頃の環境や経験は、絵に大きな影響を与えると思われるのですが、どのような少年時代を過されたのですか?
杉本:私の父は書道家なんですよ。子供の教育に書は大事だということで、戦後、小・中学校の授業でも習字の時間を作るようにしたりとか、そういった事に力を注いだ人で、地方では知られた人でした。
もちろん、上野の美術館で開かれる展覧会・日展にも参加してたんだけど、そういうことで、家には、筆と紙がたくさんあったんですよ。それで父親の書き汚しの余白を使って、よく落書きをしていました。それがまず、物を描くことの始まりだと思うんだよね。
それは、考えてみると、まだ学校へ行く前のことだから、四・五歳の頃だと思います。小学校三年ぐらいになるとマンガとか、読み物の挿絵を模写するのが楽しくて、当時だと「赤胴鈴之助」だとか、柔道マンガの「イガグリくん」とか、そういうのをしょっちゅう模写していました。
その模写を指導してくれたのが、五歳年上の兄の友達で、村のガキ大将だったんだけど、その人も模写や絵を描くのが好きで、僕が絵を描いているのを見て、非常にかわいがってくれました。
――やはり、マンガの模写をするという事は、絵に影響を与えるのですか?
杉本:絵に影響というよりも、要するに目で見た形を手で表現できるようになるわけです。丸い顔に見えた物を、ちゃんと丸く描けるということだよね。それが結果的にはデッサンのもとになっていると思います。
その他にも、小松崎茂さんの戦艦とか海軍大将山本五十六元帥とかも模写していました。それはそれで楽しかったですね。
小学校五、六年の頃に模写していた画帳も残っています。中学生の時は、遊びが忙しくて、あまり絵を描いたりしていなかっただけど、高校にはいって、将来どうするんだろうというような年になってきますよね。やはり絵描きになりたかったんだけど、「絵描きは、食うのが大変だよ。」と、世間では言われていた。それで「デザイン方面の仕事に就ければいいかなあ。」と思うようになって、親に言ったら、高校の美術の先生に話をつけてくれて、それで先生に、一、二度課題を見てもらったんだけど、あまり長続きしなかったね。
そうしている内に、高校三年生になるわけだから、親ののほうがあせってしまって、「デザインの方向に行くのであれば、デザイン科の先生に見てもらったほうがいいんじゃないか。」ということで、金沢美大デザイン科の先生に、二、三ケ月見てもらった。福井から隣の石川県に、週一回か、二週に一回出かけて行って、与えられた課題を出して、見てもらいました。
大学受験では 三大学を受けたのですが結果的に希望大学はダメで、一年間京都で浪人生活を過ごしました。その一年間は非常に密度の濃いものでした。毎日のように、京都駅や四条河原町の高島屋デパートの食堂に行って、どこかに陣取ってお客さんたちをかたっぱしからスケッチしてたね。その当時は、スケッチブック一冊を、一日でつぶす、そんなペースで描いていた時代があったんです。
結局、浪人していると、数学、国語などの科目を全然勉強しなくて、学力が落ちてしまい、大学は断念してしまいました。その後、東京へ出てきて、デザイン専門学校へ行きました。
その専門学校は、今は無いんだけど、「東京デザインカレッジ」という専門校で、まず二年間、基礎や簡単な応用を学んでから、研究科に入るといったシステムの学校で、デザイン科、建築科、そして、漫画科が、ありました。教えてくださっていた先生方は、当時一線で活躍するデザイナーであったり、建築家であったり、漫画家であったりするそういう方々が、指導にみえていたんですよ。
デザイン科の場合だと、山城隆一先生、永井一正先生などが教えにきてくれていました。そこに、三年在学して卒業後は助手として残ったけど、残念ながら、半年ぐらいで辞めてしまいました。辞めたというより、その学校の経営者が亡くなってしまって、現実には運営できなくなって、辞めざるをえなかったんだね。助手に残った時も本来だと、朝八時半出勤という決まりがあるんだけど、部長さんより遅い、社長出勤ぐらいの時間に、いつも行くものだから、教務主任からよく叱られたもんですよ。それで、専門学校だから、夜間部もあったので、「夜間部の助手もしますから」ということで、許してもらったというか、そんなことを憶えています。
デザイン科の助手を辞めた後のヨーロッパ旅行からもどって来たばかりのデザイン事務所を開く方がいたので、そこに週三日のペースで、お手伝い的な形でのアシスタントになったんだね。
――それはグラフィックデザインの事務所ですか?
杉本:主にグラフィックで、本の仕事も多かったね。その当時の仕事としては、もちろんデザインワークの三角定規やらデイバイダーを持ってのレイアウトの仕事もあったけど、むしろ、プレゼン用のダミー版を作るため、わきに素材(写真や資料)見て、先生が割り付ける位置にその絵を描いていく、そういうカンプ作りをよくやりましたね。
1970年に大阪万博があった時、サンケイ新聞が大阪万博を楽しく見る為のガイドブックを出版してけど、その本のアートデイレクターは、田中一光さんで、何人かのデザイナーが、いろんなセクションを受け持って、一冊の本を作ったと思いますが、その中で会場内パビリオンの案内図が必要だったので、パビリオンをシンボル化したものを描いてギャラをもらったのが、初めてのイラストの仕事でした。
当時、アシスタントをしている間に、ボールペンで描いていた絵を、自費出版したんですよ。で、五百部刷ったと思うんだけど、それを出版社や新聞社の住所がわかる所へは、編集部様とか、編集長様とかいう宛て名で三つ四つの仕事は、すぐにきたんですよ。
例えば読売新聞の日曜版というのがあるんだけど、そこに、「人間、この不可思議なもの」という見開きの大きい特集記事が毎週あって、そのイラストを、僕が担当したんですよ。それは1970年からなんだけど、これがたいへんで、担当者から簡単な内容の話を聞いて、だいたい二点から三点下絵を描いて、決まった曜日に下絵を提出して、そのうちの決定案を一日、二日で仕あげるというようなペースで、一年間やったんですよ。とても楽しかった。
もう終わりの頃だと思うんだけど、読売新聞の社屋が新しくなるということもあって、新館オープン記念の大きい企画紙面のメインイラストも僕が描いたんだけど、それは当時日曜版のイラストを描いていたから、その仕事がきたんだと思います。その頃は、まだデザインも僕、うるさくてね。新聞の記事にはいる写真だとか、レイアウトなども、僕がやっちゃった覚えがあるんですよ。「こうでなければいけません。」なんて言いながらね。担当者は図々しい若造と思ったろうけどね。
そこのデザイン事務所には三年いて、1972年にフリーになってすぐの時に、三菱自動車のディーラーに配るパンフレットのアートディレクションを担当して、それが、二回出たところで、撮影についていったり、コピーライターと打ち合わせをしたりレイアウトの指示や校正等をしなければいけないため、イラストを描いて
いる時間がなくなってしまい、結局半年ほどで辞めました。
――また、角川文庫の横溝正史シリーズのイラストを描かれていますね。
杉本:そう。一番世間的に知られたのは、角川書店が発行した横溝正史の金田一耕助シリーズのブックカバーを担当したということだと思うけど、これも、さっきお話しした自費出版の画集を、角川春樹さんが見て、僕を使おうとおっしゃったそうで、それから長く、横溝正史の文庫本を担当して、文庫と単行本をあわせると、おそらく百冊ぐらい描いたと思います。
――これはどれくらいのペースで描かれたのですか?
杉本:最初は、半年に一冊ぐらいだったんだけど、そのシリーズが売れ始めてからは、まあ、月に二冊ぐらいかな?
――本の内容を読んでから描かれましたか?
杉本:もちろん内容は、最初から最後まで読みました。個人的には推理小説が特に好きというほどではないんだけど、僕の描いているスタイルが、偶然、横溝作品にいいだろうと判断されたのではないかと思います。
昔だったら文庫本にカバーをかけるということは、ほとんど考えられなかったんだけど、この当時から角川春樹の発案で、文庫本にもカバーをかけようということになって、このシリーズのカバーを描くということになったんだよね。
――最初は「本陣殺人事件」ですか?
杉本:いや、一番最初は「八つ墓村」だった。その表紙は、今使われている表紙と違って、そこで初めて、エアブラシを使ったんですよ。
――エアブラシはそのころ盛んだったのですか?
杉本:いや、まだほとんど、やっている人がいなくて、初めて出たのが、70年頃だったと思うんだよね。
――「獄門島」は、映画のポスターも兼ねているので、原画が大きくて、着物の柄も細かく描いてあって、横溝正史フェアで見て感動しました。反対に「女王蜂」は、ほとんど女の人の顔のアップで、膚がみずみずしくて、シンプルで良かったと思います。
杉本:そういうのはエアブラシの技だよね。筆で絵具を塗ると、もう少しぎくしゃくすると思います。
――中、高生の時は、恐い表紙や、エロチックな表紙の金田一耕助シリーズはやはり、買いにくかったです。
杉本:そうでしょうね。エロチックな絵は描くのにふんぎりをつけるのがたいへんでした。駅のキオスクに本を置く出版社もあるので、「キオスクに置きますから、裸はあまり描かないでください。」といった注文をつけられたこともあるよね。
昔だったら文庫本にカバーをかけるということは、ほとんど考えられなかったんだけど、この当時から角川春樹の発案で、文庫本にもかカバーをかけようということになって、このシリーズのカバーを描くということになったんだよね。
――横溝さんの作品以外にはどなたの仕事をなさいましたか。
杉本:横溝さんのイラストを描いたおかげで、他の出版社からも、それに似かよった内容の本の仕事は、やはり、きましたね。オカルトとか、SFものとかね。SF作家の半村良さんの本のカバーも三十冊ぐらいやりました。半村さんの作品は、内容がおもしろくて、イラストを描くには非常に困った。
要するに、盛りだくさんすぎちゃってね。どの場面を描いてもいいんだけど、あれも描きたい、これも描きたいで、まとめるのがたいへんだった。
SF物を描いたおかげで、「サイボーグ009」というマンガがあるんだけど、そのシリーズも、小学館で、石ノ森章太郎さんのマンガを文庫本化する時に、カバーイラストを描きました。でも、編集者に聞くと、マンガ家さんは、自分の絵がカバーにならないことの不満というか、違和感を感じたみたいですね。
しかし、この時代、イラストレーターが、有名なマンガ本の表紙を描くということがはやっていて、そういう意味ではちょっとヘンな時代だったと思います。
あと、同じような時期に、やはり秋田書店の楳図かずおの恐怖シリーズのカバーを描きました。さきほどの新聞の仕事に関しては、下絵やラフを何点か出したりしたけど、今言ったようなマンガの表紙だとか、横溝さんのカバーだとかのイラストは全部おまかせで、出来上がりをただわたすという、描く側としては、非常に気持ちよく仕事ができたというかね、変に注文をつけられず自由に絵を描くことができ、いい時代だったなと、思っています。
――買う側としてもイラストレーターの方が自由に描いていらっしゃる絵を見て楽しいです。
杉本:でも、自分がすごく気にいっているカバーよりも、むしろ少し「これマズイかな。」と思っている物のほうが受けが良かったりするんだよね。理由はきっと、僕としては、「あれもやりたかった。これもやりたかった。」みたいなサービス精神がけっこうあるもんだから、それが盛りこまれていない作品は、もの足りなく思ってわたすんだけど、しかしタイトル文字だとか、作家名などが収まると、そっちの方がシンプルで強くて、「商業的にはよい。」ということになって、結果としてはたくさん売れるため、「杉本さん。あの時のカバーはいいですね。」と言われるわけだよね。
あとは、学研さんの「ムー」は創刊2号から、あるページをあてがわれて描き始めました。そのように、僕の場合はどうしてもSFだとか、本に関してはほとんど今日までそういう仕事で徳間書店では丹波哲郎さんが一時、霊のことを言いだした頃に、画集的な本を出したいということになって、四、五人のイラストレーターがその本には関わっているけど、その中でも僕は、「地獄篇」を担当して、要するに恐い内容の絵は僕が描きました。
丹波さんとはそういう関係で、二年ぐらいつきあいました。その後、霊界のビデオを作るということで、ビデオ用の絵コンテ的な下絵を描いてくれないか。」と言われて、描いた覚えがあるけど、それは現実化しなかったみたいだね。こういう暗い絵ばかりだろうと思われるのも癪なので言いますけど、サンケイスポーツという駅売り新聞の連載小説に一年半ぐらいエロチックな絵を描いたことがあります。あとね、教科書の仕事もたくさんやっています。
――教科書と言えば、社会科ですか?
杉本:うん。特に社会科なんだけど、もちろん他の教科も依頼があれば描いてましたが、主に社会科の歴史に関する部分だよね。要するに、写真類だとか的確な資料のないものを絵で表現するということで、例えば、旧石器時代の、木の実を採ったり、狩りをしたりして生活している村の様子や、平安時代の貴族の館や、武家屋敷の全体図と部分図、それに江戸時代の参勤交代図など多くの絵を描きました。
――その当時の服装から小物まで正確に描くのは大変そうですね。資料は編集部からもらえるのですか?
杉本:もちろん資料をいただいて、それをもとに下絵を描いて、その下絵を、教科書を監修している大学の先生や、博物館の研究員にチェックをしてもらって、それでいいということであれば、本番の絵にはいります。
でもね。子供の本をやっていて良かった事は、その教科書を自分の子供も学校で使っていたりして、そうするとやはり鼻高々になれるんだよね。僕も地元の学校のPTA手伝ったりしていたので、「あっ、あの絵のお父さんね。」ということで、なかなか良かったですね。こうして、教科書をやっていたおかげで、僕の田舎に新しい中学校ができた時、校章のデザインをするとか、学校関係の仕事もやることができました。
こうして、デザインやイラストレーションの仕事をおよそ三十年ぐらいずっと続けてきたわけだけど、自分から発する物というか、「本当に描きたいのは何か」ということを、前々から考えていたので、ちょうど五十歳になった頃近所に版画工房ができたことだし、「じゃあいいタイミングだから」と思って、そこにお世話になることにしました。
それが版画の始まりで、昔、自費出版した本に載っているボールペンで描いた絵があるんだけど、一作目の版画は、それをモチーフに少し変形して作ったのが版画第一作目。こうして、版画のとりこになったかどうかはまだわからないんだけど、どうしてもデジタルの方向にいく今日この頃、技術的なことでちょっと無理も感じたし、やっぱり昔からずっと絵を描いていて、手を使うというか、手を汚してもいいんじゃないかと思って、版画の方に向かったと思っています。
およそ版画というのは、小さくても、密度というか、内容を込めることのできる表現手段です。そんなに大きくない物でも一枚描くのに、大体一ヶ月前後の時間をかけて作っています。最近では、個展やグループ展で作品の発表もしています。そこで気にいってくれる人もぼちぼち出てき始めました。
特に蔵書票――これは昔、本が財産だった時代に、この本は自分の本だという所有を表わす意味で、そういう票を見返しに貼っておいたらしぃんですね。蔵書票というジャンルの版画が、日本ではそれほどでもないけれど、ヨーロッパでは非常に人気があります。
これは、大体十センチ前後の大きさで作るわけだけど蔵書票を持ちたい人――つまり票主が、「杉本さん私の蔵書票を作ってください。」と依頼して来る訳です。蔵書票の制作は楽しいので、今後も続けたいと思っています。また、版画の世界で、「自分の技量は大体どういう位置にいるんだろう。」と思って、年に二回ぐらい、版画のコンペを捜し出して、出品しています。時には、受賞したり、入選することもありますし、そうした事は励みになるので、今後もどんどん参加したいと思っています。
やはり、デザインやイラストだと、これはマズイんじゃないかととか、あの人はどう思うだろうかとか、そんなことを思ってしまうから、やりにくい面もあるけど、版画は、恐いもの知らず的なところがあって、好きにやれるので、気持ちとしてはいいですね。
――最後に、今のイラストレーションや出版界について、思っていらっしゃることを話してください。
杉本:今の時代、出版界においても世間の経済事情が反映して、あまり明るいという気はしないんですよね。ですから、現実に立派な本が作れるかというと、なかなか難しいと思う。
立派な本を、お金をかけて作ったからと言って、それがベストセラーになる保証はどこにもないから、やはり出版する側だって、数字のあう所で本を作ってしまう。全部クリエーターの希望が通るような本作りが出来るかと言ったら、これから先、非常に難しいと思うんだよね。
あくまでも予算をたててそこからわり出せる数字の本しか、出来ないんだろうなあと思うんです。前々からデザイナー、イラストレーター達も印税を支払ってもらいたいという希望を長い間唱えてきたけど、結局、今の事情からぃけば、ちょっと尻すぼみで、出版界も積極的にそのことを取り入れようとはしないだろうと思います。
僕もイラストレーションで、たくさん本が売れた時代に、やはり印税の話を持ち出した事が何度かあるんだけど、その当時、「そういう前例がない。」ということで、たいがいことわられてしまったね。まあそれこそ、子供の絵本的な児童書をやれば今は印税がつくと思うけど、僕が昔、子供の絵本をやった時はまだついていなくて、買い取りですまされちゃったことがあります。それでギャラが高額ならガマンもできるけど非常に安くて、それ以降、子供用の絵本とか描くのはやめてしまいました。
――:そうですね。昔もそうかもしれませんが、今は、不況でさらにイラスト料が下がり、出版社の都合による直しでも、直しでも、直し料が出ることは稀で、これから考えていかなければならない問題だと思います。今日はどうもありがとうございました。
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