追分地蔵尊
 
追分地蔵尊で一服していきませんか、
追分地蔵尊の言い伝えを、私がご案内いたします。

仙人の隠れ家がある今市は、江戸と日光を結ぶ「御成り街道」(日光街道)と
会津藩と日光を結ぶ「会津西街道」、京都からの勅使が通った「例幣使街道」の
杉並木街道として有名な、日光三街道の合流点に位置する宿場町だったのです。

日光杉並木街道
  

日光東照宮を後に今市宿に入り、宿なかばで左に折れると会津西街道、
直進すると宿場外れで、御成り街道と例幣使街道に分れますが、
この分岐点には大きな石で出来た、追分地蔵尊が祀られています。

追分地蔵尊
  

日光から宇都宮を経由して江戸に向かう御成り街道(日光街道)と、鹿沼を経由しで
上州倉賀野で中仙道に抜け京都に向かう勅使の通った「例幣使街道」の分かれ道に
鎮座する、この追分地蔵尊は、丸彫りの坐像の石地蔵では、東日本有数の巨像で、
北関東では一番だそうです。 この地蔵尊は御成り街道と例弊使街道の分岐点に
祀られている事から、追分地蔵尊と名付けられています。

高さ約 2メートル、重さ約 8トン
  

お地蔵様には多くの伝説が残されており、日光市の文化財に指定されています。
                  
 江戸時代初期に石工が、大谷川(だいやがわ)の川原の砂に埋まっていた石を
割ろうとしてノミを打ち込んだところ、石から血がにじみ出てきたそうです。
 驚いた石工が掘り起こしてみると、この大きなお地蔵様でした。

左肩から背中にかけて、石割りクサビ用のノミ跡が幾つも、くっきりと残る石地蔵です。
  

それを村人達が運んで行くと、現在地で動かなくなったので、 ここに安置したそうですが、
後に如来寺という由緒あるお寺に移したところ、お地蔵様の泣き声が聞こえる様になった
そうです。  村人達は「このお地蔵様は日光の含満ヶ渕の親地蔵で、洪水で流されて来た
のだろう」と、日光の見える元の追分に戻して、元の日光に向けてここに安置したそうです。

ふつうは地蔵の手印は錫杖と宝珠であるが、この地蔵尊は密教系の胎蔵界大日如来の
法界定印という手印を結んでいるそうです。

制作年代は明らかではないが、享保13年(1728)徳川8代将軍吉宗の日光社参の時に、
すでに現在地にあったと記録が残されているそうですので、このお地蔵様はそれ以前の
大きな洪水で、流されて来たのでしょう。日光含満ヶ渕の並び地蔵は、明治35年(1902)
の大洪水でも、親地蔵と他の地蔵の幾つかが流された、との記録が残っているそうです。
            
 現在は日光連山と大谷川の治水工事が進み、大きな洪水は起こりませんが、私が幼い頃は
大雨や台風の後には、広い河川一杯の洪水になり、当時川からは1キロも離れた所にあった
我が家でも、大きな水音と「ガランガラン」と大きな石が流れる音で、怖くて眠れぬほどでした。
幼い頃に父から聴いた話ですが、洪水で日光の神橋が流されて来た事も有ったそうです。


追分地蔵尊の話は此処迄ですが折角ですから、この追分地蔵尊が始めに安置されて
居たのではないかと言われている、日光の含満ヶ渕の並び地蔵まで行って見ましょう。

場所は日光東照宮前の、朱塗りの橋の神橋より、さらに1キロ程上流です。



日光 満ヶ淵 の 化け地蔵

憾満ヶ淵(含満ヶ渕)

   

男体山から噴出した溶岩によってできた奇岩で、古くから不動明王が現れる霊地と言われている。
 
川の流れが不動明王の真言を唱える様に響くので、晃海大僧正が真言の最後の句の「カンマン」を取り、
憾満ヶ淵と名付けたと言う。   元禄2年(1689)に、 松尾芭蕉も奥の細道の行脚の途中立ち寄っている。

平成16年には巻柏仙人様も、この写真を撮影するために立ち寄っています。 って関係ないか。
 

 含満とも書くので「がんまん」と濁って読まれる事が多いのですが、
命名の由来から考えると「かんまん」と澄んで読むのが正しいそうです。

この含満ヶ渕を上流に向かい、左岸には並び地蔵(化け地蔵)があり、右岸は、
旧 田母沢御用邸で、現在は博物館及び、東京大学付属植物園に成っています。

大正天皇は日光をこよなく愛され、皇太子の時代から、ほぼ毎年の夏を、
川を挟んだ対岸の、田母沢御用邸ですごされたそうで、「水辺夏月」と題されて
「衣手も しぶきに濡れて 大谷川 月夜涼しく 岸づたいせり」 と詠んでおられます。


並び地蔵 ( 化け地蔵 ) 

慈眼大師天海の弟子約百名が
「過古万霊、自己菩提」のために
寄進したと言われている。
 
写真手前の、大きめな石地蔵は
(かんまん)の梵字を書いた、
山順僧正のものだそうです。
 
参詣者が、地蔵の数を数えてみると、
其のつど数が違うという事から、
化け地蔵とも呼ばれるようになったそうです。

 地元では「化け地蔵」の名の方が通りが良く、「並び地蔵」と呼ぶ人は殆ど居りません。

上流に向かって撮影


下流に向かって撮影


この化け地蔵は、上流に向かって数えて行き、下流に向かって数え直すと、
数が合わないとも伝えられています。 貴方もこの写真で数えてみませんか。

えっ、写真が端まで写っていないって、・・・・・ 贅沢言うな ! ってが。


は〜い、お疲れ様でした。
これで追分地蔵尊と、化け地蔵に纏わる話は終わりです。

どうだ、巻柏仙人様は巻柏以外の事でも、知識の豊富な事が解っただろう。
解らない事があったら、何でも聞いてくれ、立て札を読み直してくるから。

  

えっ、立て札に書いてない事でも解るのかって、そんな事まで俺が解る訳が無いだろう!。
立て札の文字だって、飛び飛びに読んでいるんだ、文句あるか !! 。




後日の写真追加

上記の写真は、平成16年の撮影でしたが、その後に行った時には、
お地蔵さまが赤い帽子と前掛けを付けていたので、撮影してきた写真を追加掲載します。

先ずは上流に向かっての撮影写真です。



以下の写真は上流側から下流に向いての撮影です。







手前のお地蔵様たち、忍術を使って姿を消した訳でも、
散歩に出掛けて留守にしている訳でもありません。

前を流れる大谷川(だいやがわ)の、過去の大洪水で流されてしまった跡のようです。




ついでに 憾満ヶ淵(含満ヶ渕)の写真も追加しておきます。



上の写真の中央部あたりです。








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