掲載日 掲載内容 備考
New ! 2015-03-03 史跡探訪8回目 忍城からさきたま古墳群を散策する
2015-01-31 史跡探訪7回目 谷中七福神めぐり
2014-12-31 史跡探訪6回目 所沢史跡探訪
2014-12-23 史跡クラブ 忘年会という名の桃源郷
2014-12-06 学園祭用展示パネル制作 奮戦記
2014-11-23 史跡探訪第5回目 川越歴史散歩
2014-11-19 史跡探訪第4回目 文京区の史跡を訪ね 東大の食堂でお昼を食べよう
2014-11-05 史跡探訪第3回目 高麗神社・聖天院・巾着田付近を訪ねて
2014-10-29 史跡探訪第2回目 吉見町の史跡を訪ねる
2014-07-29 史跡探訪第1回目 高坂岩殿観音と周辺の史跡を訪ねる
2014-07-26 専科6期「てくてく史跡クラブ」の紹介



2月28日 史跡探訪第8回目 忍城からさきたま古墳群を散策する

日時:2015年2月28日(土) 晴れ
参加者数:14名

真冬の探訪先探しは大変である。今回は、2班森口氏のご尽力で、行田市の「忍城」から「さきたま古墳群・県立さきたま
史跡博物館」を訪ね、さきたま史跡博物館で「まが玉」製作を体験をすることになっている。

公共交通機関利用の11名は、東松山駅バス停に集合し、9時発、熊谷駅行きのバスに乗り込み、熊谷駅から秩父鉄道
に乗り換え行田市駅で下車する。ここからスタートである。

秩父鉄道の行田市駅 銅人形その1

10時、行田市駅前から散策が始まった。駅前の道を南に2つ先交差点で国道125号に出る。ここを右折する。

この交差点の角に、櫓の上に乗った「銅人形」を見つける。”へえ〜、銅の人形なんて珍しいものがあるね!”。
しょっぱなから面白いものを見つけて皆楽しそうである。この先、行田市役所前までの道路沿いには様々な銅人形が
並んでいた。

銅人形その2 銅人形その3 銅人形その4 銅人形その5

●銅人形
銅人形の童たちは 国道125号線の市役所前から栄橋の間(860m)に全39基あります。電線類地中化整備事業に
伴い平成10年(1998)に、銅板造形家・赤川政由氏によって創られたもので、作品名は「童の記憶」との事です。

Mさんが、行田市商工センター手前の駐車場で、落ちている車のキーを見つけた。”どうする?その辺に置いておく?
それとも・・・” などと話していると、Mさんは毅然として、”落とした人にとっては大事なものだから交番に届けよう!”
と言って、しばし駐車場に駐めてある車のナンバーを調べたりしていたら、両者にとってラッキーなことに、落とし主が
戻ってきて、一件落着であった。お陰で気分良く、最初の訪問先「行田市郷土博物館(忍城)」を目指すことができた。

忍城を外から眺める(鐘つき堂と三階櫓) 行田市郷土博物館入り口

行田市役所を過ぎると、次に信号のある交差点先左側に「行田市郷土博物館(忍城)」がある。

本日の参加メンバーの内、3名が行田市郷土博物館で落ち合うことになっていた。3人はすでに到着していて、全員が揃
ったところで、博物館の見学を行った。
三階櫓の三階からの展望を期待して、長い階段を登ってみたが、ガラス窓の外側は外壁で、細いスリットがついているだ
けなので、余りよく見えなくて期待はずれであった。

●忍城と郷土博物館
関東七名城の一つとされる忍城は、室町時代の文明年間に築城されました。時は戦国時代の終わり、豊臣秀吉の関東
平定に際して、石田三成らによる水攻めにも果敢に耐えたことから「浮き城」の別名が生まれたと伝えられています。
関東7名城の一つに数えられた忍城は、忍藩十万石の城下町の象徴となりました。
現在の忍城御三階櫓は、明治6年に取り壊されたものを昭和63年に再建したもので、最上階からは市内の景色が一望
できます。昭和63年に開館した郷土博物館は、かつての忍城本丸跡地にあり、『行田の歴史と文化』をテーマとした展示
を行っています。(歴史のまち行田 見どころスポットより)

城門とお堀に架かる橋 遊歩道「浮き城の道」

30分程見学して、博物館を後にする。忍城の城門から堀に架かる橋を渡って外に出て、右に少し行く。三階櫓の前辺り
から東に向かう遊歩道「浮き城の道」を歩き、市役所の南側に出る。「行田市役所入口」交差点からの道に出て、右折し
南に向かう。

行田市民プール脇にある「SL」 水城公園

やがて、右側に「行田市民プール」があり、その先交差点の右側にC57タイプのSLが展示されている。
この機関車は1938年(昭和13年)製で、貴婦人の名で愛された旅客用の機関車である。ちなみに、秩父鉄道で活躍して
いるSLはC58タイプで、1944年(昭和19年)製のもの、我々に近い年代製だが、まだ現役で頑張っている年寄り機関車
なのである。

交差点を抜けると、右側に「水城公園」が広がっている。その先、Y字路になっている所の左側も水城公園になっていて、
「ホテイアオイ」で有名な「あおいの池」がある。
今回は、あおいの池側の公園の中を抜け、「佐間天神社」の境内にでた。

水城公園
忍城の外堀の沼を利用して整備された公園です。浮き釣り専用の釣り場として開放されている「しのぶ池」や、薄紫色の
絨毯を敷きつめたかのような「ホテイアオイ」が美しい「あおいの池」などがあり、心がなごむ癒しの場となっています。
(行田市観光協会ホームページより)

佐間天神社の境内(欅の大木がある) 佐間天神社

佐間天神社
延徳三年(1491)成田親泰が忍城を築城した際、谷郷の春日神社西をお堀の用水取り入れ口とし、南東側の天神坊を堀
の出口とした。
その天神坊を慈眼山安養院とし、守護神として天神社を勧請したのが「佐間天神社」である。創建当時より安養院が守護
神として別当を勤め、佐間村の鎮守となっていた。明治時代二十二年から大正四年まで社務所に佐間学校(忍学校第三
教場)が設置されていた。
神門は安政三年(1850)の大火で類焼したがここで火が止まった為、火防の門と呼ばれた。又、境内には9本の大欅があ
り、神門脇のご神木の樹齢は行田市教育委員会の推定によると400年とされている。(境内案内版より抜粋)

欅の巨木に驚きながら天神社を出る。光源寺を左奥にみて、「古墳通り」を南に行く。
1.2km程先で「忍川」を渡り、続いて「武蔵水路」を渡ると、「さきたま古墳公園」になる。

時刻は、11時50分。予約していた、家庭料理の店「さんぽ道」に到着。事前に各自メニューの注文をしておいたので、店
に入ると、全員の昼食が用意されていた。幹事に感謝である。

古墳をバックに店の前で記念写真 石田堤跡と突き当りに「丸墓山古墳」

12時30分、食事を終え、店の前で「二子山古墳」をバックに記念写真を撮り、「さきたま古墳公園」の散策を始める。

まずは、石田堤から「丸墓山古墳」を登り、続いて「稲荷山古墳」を登る。この2つの古墳は頂部に上ることができる。
特に、丸墓山古墳頂上からは360度の展望が有り、忍城の三階櫓がよく見えていた。
次に、将軍山古墳の東側にある「将軍山古墳展示館」を見学、「二子山古墳」を外から眺め、古墳通りを渡って南側の
公園に移動する。

丸墓山古墳(日本最大の円墳) 丸墓山古墳の上から三階櫓を眺める

丸墓山古墳
直径105mあり円墳では日本最大です。墳丘はさきたま古墳群の中で一番高く、約19m あります。
墳丘に使われた土の量は二子山古墳より多かったという試算もあります。出土した埴輪から、6世紀前半頃に築かれた
と推定されてされています。埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていません。
南側から古墳にいたる道は、1590年に石田三成が忍城を水攻めにした時に築いた堤防の跡といわれている「石田堤」
です。水攻めの際には、古墳の頂上に陣が張られました。 (丸墓山古墳 案内板より)

稲荷山古墳(後円墳側) 丸墓山古墳から見た「稲荷山古墳」の全景

稲荷山古墳
全長120mの前方後円墳です。周囲には長方形の堀が中堤を挟んで二重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には、造出しと呼
ばれる張り出しがあります。古墳が造られた時期は、5世紀後半ころと考えられ、さきたま古墳群の中で最初に造られた
古墳です。
前方部は、1937年に土取り工事で失われましたが、2004年に復原されました。1968年の発掘調査では、後円部から二つ
の埋葬施設が発見されました。そのうち礫槨はよく残っており、多くの副葬品が出土しました。
そのうちの一つである鉄剣からは、1978年に115文字の銘文が見出され、他の副葬品とともに1981年に国宝に指定され
ています。(稲荷山古墳 案内板より)

将軍山古墳全景 将軍山古墳展示館の入り口
玄室内の埋葬のようすを復元した復元模型 二子山古墳

将軍山古墳
全長90mの前方後円墳です。明治27年(1894)に横穴式石室が発掘され、多数の副葬品が出土しました。この石室には、
千葉県富津市付近で産出する「房州石」や、長瀞周辺で産出する緑泥片岩などが用いられており、古墳時代の関東地方
における地域交流を考える上で重要な古墳です。(房州石は船で東京湾〜古荒川を登って運ばれてきたと考えている)
周囲には長方形の堀が中堤をはさんで二重に巡り、後円部と中堤には造出しと呼ばれる張り出しがあります。
稲荷山古墳・二子山古墳と同じ形態です。古墳の造られた時期は、出土した遺物から6世紀後半と推定されています。
(将軍山古墳 案内板より)

二子山古墳
全長138mの前方後円墳です。かっての「武蔵国」(埼玉県、東京都、神奈川県の一部にあたる)で最大の古墳です。
周囲には、長方形の堀が中堤をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張り出しがあります。
現在遊歩道となっている高まりが中堤にあたります。内堀は、今は水堀になっていますが、古墳が築造された当時は水
はなかったと考えられています。
本格的な発掘調査はされていないため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など詳しいことはまだ分かっていません。
出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は、6世紀初め頃と推定されています。 (二子山古墳 案内板より)

埼玉県名発祥之碑 古民家(旧遠藤家住宅)

古墳通りを信号で渡り、南側の公園に入る。少し入った左側に「埼玉県名発祥之碑」がある。

●埼玉県名の由来
明治四年十一月十四日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕
生である。以後、幾度かの変遷を経て、明治九年八月に現在の埼玉県の区域が定まった。「埼玉」が県の名称とされたの
は、当初の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。(案内版より抜粋)

その先、左側に古民家「旧遠藤家住宅」がある。右側には「埼玉県立さきたま史跡の博物館」がある。

また、遠藤家住宅の東側には、瓦塚古墳、鉄砲山古墳、奥の山古墳、中の山古墳、浅間塚古墳の5つの古墳郡がある。
浅間塚古墳の上には、「前玉神社(さきたまじんじゃ)」が鎮座している。この古墳は円墳か前方後円墳かは不明とのこと。
他は前方後円墳である。これらの古墳群は、北側にある大型古墳群よりは小さく、中型古墳と言っていいだろう。

瓦塚古墳 手前:奥の山古墳、奥:鉄砲山古墳

今日は、「埼玉県立さきたま史跡の博物館」で、「まが玉」作りを体験することになっているので、体験開始時間までの間、
博物館の見学、遠藤家住宅の見学、大急ぎで瓦塚古墳・鉄砲山古墳・奥の山古墳・中の山古墳を巡ってみた。

埼玉県立さきたま史跡の博物館(同館HPより) 手作りのまが玉

まが玉作りですが、初めに受付でまが玉の材料を購入する。材料はL字型の石で、これに型紙を当てて形を書いてから
水に浸し、水の中で削って作る。材料は、白:250円、ピンク・黒:300円であった。但し、黒は固いので、初心者にはお薦
め出来ないとのことであった。

体験室では、何人かの指導員がおられて丁寧に作り方の指導をして頂いた。
こすったり、磨いたりすること1時間、何とかまが玉らしいものが出来上がったが、かなり根気が必要な作業であった。
しかし、手作りするというのは楽しい作業でもあった。

これで、本日の探訪と「まが玉」作り体験が終了。お疲れ様でした。
帰りは、博物館前からタクシーの相乗りでJR「行田駅」に出て、「行田駅」から高崎線で「熊谷駅」まで行き、熊谷駅から
バスで、「東松山駅」まで戻り、東松山駅で解散となった。

                                                            投稿担当 原 善明


1月7日 史跡探訪第7回目 谷中七福神めぐり

日時:2015年1月7日(木) 晴れ
参加者数:16名

2015年度のてくてく史跡クラブの活動開始は、「谷中七福神めぐり」から始まりました。
やはり、新年は初詣を兼ねて七福神めぐりが良かろうということになり、どうせなら東京方面に行きたいとの要望で谷中
七福神に決まりました。

「谷中七福神」は、台東区・荒川区・北区の七ヶ寺で構成される七福神めぐりです。江戸時代中期に始まった最も古い七
福神巡礼で、宝暦年間(1751〜1764年)に開創されたといいます。毎年元旦から1月10日までがご開帳期間となってい
ます。折角お参りに行くのだから、ご開帳されている時に行こうとのことで、松も取れない7日に行くことになりました。

コースは、山手線「田端駅」−東覚寺(福禄寿)−清雲寺(恵比寿)−修性院(布袋尊)−富士見坂−夕焼けだんだん−
昼食−天王寺(毘沙門天)−谷中天王寺五重塔跡−長安寺(寿老人)−旧吉田屋酒店−護国院(大黒天)−森鴎外居
住の家−不忍池弁天堂(弁財天)−上野「時の鐘」−上野大仏−上野駅(ゴール)
 約7kmです。

スタートの田端駅に集まったのは16名で、部員のほとんどが参加となり、賑やかな七福神巡りとなった。
駅前は平日だというのに、七福神巡りで待ち合わせる人達でごった返していた。我々と同世代の男女がほとんどでした。

10時田端駅北口をスタートする。1番目は「東覚寺(福禄寿)」です。駅前の通りを南(不忍通り方面)に400m程先の信号
を右に入ると、右側に「東覚寺」があります。

希望者は、ここで七福神めぐりの色紙を購入し、7箇所の御朱印をいただきます。大変混雑しているので、一人ひとりが
御朱印を頂きにいくと時間がかかってしまうので、まとめてY嬢が御朱印をいただくことにしました。Y嬢、ご苦労さまです。
東覚寺の赤紙仁王(石造金剛力士立像) 東覚寺

東覚寺(福禄寿)
 山門の手前に、赤い紙に包まれた2対の石像があります。これは赤紙仁王尊(石造金剛力士立像)で、いつの頃から
かこの仁王像に、自分の体の悪いところと同じ場所に赤紙を貼ると、ご利益があると信じられるようになりました。
 東覚寺は真言宗豊山派の寺院で、御府内八十八ヶ所霊場66番札所、豊島八十八ヶ所霊場66番札所、上野王子駒込
辺三十三箇所観音霊場29番札所、谷中七福神の福禄寿 となっています。
 また、本堂の裏側にはご開帳の期間のみ見ることができる、見事な庭園があります。

2番目は、「清雲寺(恵比寿)」です。清雲寺は、西日暮里駅の近くですので、1km程歩きます。
西日暮里駅の下を通る「道灌山通り」の「西日暮里四丁目」交差点を渡るとすぐ左側に清雲寺があります。

清雲寺の入口 清雲寺

清雲寺(恵比寿)
 青雲寺は、臨済宗の寺院で、江戸時代の中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれ、庶民に親しまれてきた。この地は、四季
折々の花を楽しむ人々で賑わった。そのため青雲寺は修性院・妙隆寺などと共に、花見寺ともいわれていた。
 現在は谷中七福神のひとつ「恵比寿」が祀られている。境内には、滝沢馬琴の筆塚の碑(文化六年)をはじめ、硯塚
の碑(寛政十年)、日暮里船繋松の碑、狂歌師安井甘露庵の碑など、江戸を代表する文人の碑が多く残っている。
(荒川区教育委員会)

清雲寺を出て南に120m程行くと、薄いピンク色の塀に布袋尊の絵が幾つも描かれた寺院がある。
ここが、3番目の「修性院(布袋尊)」である。

ピンク色の塀に布袋尊の絵が描かれている 修性院

●修性院(布袋尊)
 日蓮宗寺院の修性院は、天正元年(1573)豊島郡田中村に創建、寛文三年(1663)当地に移転したと伝えられます。
 境内に仮山を造り多数の花樹を植えた景勝地として「花見寺」とも称されていました。また、谷中七福神の布袋尊が
祀られている。

修性院から50m程先、左側に「富士見坂」がある。この坂は、都心部唯一の富士見坂であったが、文京区千駄木に建設
されたビルに遮られ、2013年6月に見られなくなってしまった。下右側の写真は2013年の正月に地元の人が撮った写真
です。

西日暮里富士見坂 富士見坂から見えた富士山の写真

富士見坂から230m程先で交差点に出る。右側は谷中銀座、左側は「夕やけだんだん」で、夕日が綺麗な場所と言われ
ています。ここで、時刻は11時半となってしまったので、そのまま直進し、昼食のために日暮里駅の西側に向かう。
今日のお昼は「さくら水産」の昼定食にしました。この店はワンコインでお昼が食べられる、超お得な店です。

西日暮里の「夕やけだんだん」 ワンコイン定食を楽しむ

お腹が一杯になったところで、午後の七福神めぐりに出発する。日暮里駅の東側に出て、線路沿いの道を北に行くと、
4番目の「天王寺(毘沙門天)」がある。谷中霊園の南の外れにあるこの寺は、この付近の寺院に比べると広い境内を
持つお寺です。毘沙門天は、本堂の右側にあるお堂に祀られています。

天王寺の山門 毘沙門天を祀ったお堂

天王寺(毘沙門天)
 天王寺は、もと感應寺という日蓮宗寺院として、鎌倉時代に創建され、9ヶ院を擁する本寺だったが元禄十二年(1699)
幕府の命令で、天台宗に改宗する。また、天保四年(1833)天王寺と改めた。東京で現存する寺院では、江戸時代以前
創始の寺院は多くない。
 享保年間には富くじ興行が許可されたので、湯島天満宮、目黒不動龍泉寺と共に江戸の三富と称され、大いに賑わっ
た。戊辰戦争では、当寺に彰義隊の分営が置かれたことから、本坊と五重塔を残して堂宇を全て焼失、さらに昭和三十
二年の放火心中事件で五重塔を焼失してしまった。なお、谷中七福神の毘沙門天が祀られている。

天王寺から、谷中霊園の中を西に抜けて、5番目の「長安寺(寿老人)」に向かう。
途中、霊園内の交番の裏にある「天王寺の五重塔跡」に寄る。現在は、何もなく、記念碑が残っているだけである。

この通りは、桜並木で有名で、花見の季節は大いに賑わうようである。
交番の四つ角を西に行くと、正面に長安寺がある。長安寺の境内は狭く小さな寺院である。

長安寺の入口 長安寺の境内(中程右側が本堂)

長安寺(寿老人)
 長安寺は、臨済宗妙心寺派の寺で、老山和尚禅師(享保九年(1724)寂)が開山、正徳二年(1712)大道山長安寺の
寺号が認められ、当地に移転したといいます。上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場22番札所、谷中七福神の寿老人
になっている。

長安寺前の道を北に向かいます。510m程で「言問通り」の「上野桜木」交差点に出ます。
交差点の左角に「台東区立下町風俗資料館付設展示場」のある「旧吉田屋酒店」がある。

●旧吉田屋酒店
 吉田屋酒店は、旧谷中茶屋町(現谷中六丁目)の一角にあった江戸時代依頼の老舗で、昭和61年まで営業していた
が翌62年、台東区により当地に移築され、同年5月より下町風俗資料館付属展示場として公開しています。
 1階店舗部分と二階及び道具・文書類が台東区の有形民俗文化財に指定されています。

交差点を渡って直進すると東京芸大前の交差点にでます。ここを右折し100m程左側に、6番目の「護国院(大黒天)」が
あります。

護国院入口 護国院

護国院(大黒天)
 護国院は、天海の弟子生順が、釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手奥に開創した。二度程移転し
た後、宝永六年(1709)現在地に移転したといいます。
 三代将軍家光から贈られたと伝えられる大黒天画像は谷中七福神の一つとなっています。また、上野王子駒込辺三十
三ヶ所観音霊場14番になっています。

護国院を出て、上野高校に沿って南に行きます。すぐに、左手に上野動物園が現れます。動物園に沿って更に進むと、
護国院から500m程で、右側に「水月ホテル鴎外荘」があります。このホテルの玄関を入ると、中庭になっていてそこに
森鴎外旧居が残されています。ここは、ぜひ見学しておきたい場所です。

森鴎外旧居 旧居舞姫の間へ

水月ホテルを出て暫く行くと、右に上野動物園のこども動物園が現れる。その先、右側に不忍池が見えてくる。
不忍池の中央にある「不忍池弁天堂(弁財天)」が最後の7番目の七福神である。
ご開帳なので、お堂は五色の幔幕が張られていた。ここで、全員揃って無事に七福神めぐりを終えた記念にパチリ。

最後の七福神「不忍池弁天堂」 全員無事に七福神巡りを終えました

不忍池弁天堂(弁財天)
 弁天堂は、東叡山寛永寺弁財天堂といいます。寛永寺の伽藍の一つで、備中松山城主の水谷伊勢守により建設され
ました。弁天堂に祀られている弁財天は、谷中七福神の弁財天、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場30番札所です。

無事に谷中七福神めぐりを終え上野駅に向かいます。途中、余り知られていない名所「上野の時の鐘」「上野大仏」
に寄ることにしました。

弁天堂から、道路を渡って、階段を登ると「寛永寺清水観音堂」があります。観音堂の前を左に行くと、上野精養軒があり
ます。精養軒の南側の道路脇に「上野の時の鐘」があります。時の鐘の向かい側の高台に「上野大仏」があります。

時の鐘 上野大仏

上野時の鐘
 花の雲 鐘は上野か 浅草か 芭蕉が詠んだ句はここの鐘のことです。
 時の鐘は、はじめ江戸城内で撞かれていたが、寛永三年(1626)になって、日本橋石町三丁目に移され、江戸市民に
時を告げるようになったという。
 元禄以降、江戸の町の拡大に伴い、上野山内・浅草寺のほか、本所横川・芝切通し・市谷八幡・目白不動・目黒円通寺
・四谷天竜寺などにも置かれた。

上野大仏
 この場所に最初に大仏が建ったのは寛永八年(1631)粘土に漆喰塗りの釈迦如来坐像だった。その後、万治年間(1660)
に青銅製の釈迦像となり、元禄十一年(1698)には大仏殿も建立された。上野大仏は像高約 6m の釈迦如来坐像だった。
 その後火災や地震の度に修復を繰り返してきたが、明治八年に上野恩賜公園の整備に際し、仏殿が撤去され露座に戻
った。
 関東大震災では頭部が落下した為、大仏は解体された。その後再建されないまま昭和十五年(1940)戦況の悪化による
金属供出令で顔面をのぞく頭部、胴体が軍に供出され、上野の大仏様は無くなってしまった。
 しかし、昭和四十二年(1967)関東大震災の50回忌にあたり上野観光連盟が願主となって大仏パゴダを建立。昭和四十
七年(1972)寛永寺に保管されていた顔面部がレリーフとして元の場所に安置され現在のお姿となった。 

これで、本日の全てのスケジュールが完了である。公園内の東京文化会館にある Cafe HIBIKI にて打上げのお茶?を飲
んで帰路に着く。皆さんお疲れ様でした。Y嬢お世話様でした。
※寺院の写真は12月に下見に行った時のものと、1月7日に撮ったものが混在しています。7日は大変な混雑で極力写真は控えました。

                                                             投稿担当 原 善明


12月12日 史跡探訪第6回目 所沢史跡探訪

日時:2014年12月12日(金) 晴れ
参加者数:15名

今回は、所沢周辺の探訪である。見所は色々あるので、2箇所に分けて訪ねることになった。
1カ所目は、小手指駅周辺。2カ所目は、所沢駅から航空公園駅までの探訪である。

前日は雨、今日は曇りで、とりあえず雨の心配はなさそうである。
今回も楽しい探訪となりそうだ。それと言うのも、探訪後に予定されている史跡クラブの忘年会があるからである。

10時西武池袋線の小手指駅に到着する。まずはトイレに寄って改札口を出る。もう本日の参加者達は、私達東上線組
の到着を待っていた。本日の参加者は、総勢15名であった。                  

1.小手指周辺の探訪
 このコースは、
 小手指駅−北野公園−庚申塔・馬頭観音−誓詞橋−埋蔵文化財調査センター−白旗塚−北野天神社−小手指駅
 約 5.4kmである。コース地図は、こちら から。

まずは、所沢入間バイパス(国463号)にある、「誓詞橋」交差点を目指す。
駅前通りのドウダンツツジが色づき始めていたが、いまいち色づきが悪い。今年は寒暖差が少ない為だろうか。

全員揃いました! 北野公園中央にある「大槇」

次の信号で一本西側の路地に入ると「北野公園」がある。公園の中央には八方に枝を広げた大榎がド〜ンと鎮座して
いた。葉を落としているので、見事な枝振りが見える。

この「大榎」は、かって北野を通っていた鎌倉街道の枝道「川越道」の傍らに立っていたもので、根本には「馬頭観音」
が祀られていたそうだ。それが、昭和43年から北野土地区画整理事業のため移動する事となり、大榎は「北野公園」
内に移されたとのこと。公園の西側は市営プールになっている。

所沢入間パイパスの「小手指ヶ原」交差点に出る。交差点から北に70m程先、三差路角に上記の「馬頭観音」と同じく
街道沿いにあった「庚申塔」が祀られている。庚申塔は小さなお堂の中に安置されていた。

街道沿いにあった「庚申塔」 大榎の根本にあった「馬頭観音」の道標

馬頭観世音は、道標となっていて、(台石正面右端)「南 八王子道」、(台石右面)「東 江戸道」、(台石左面右)「西 青
梅道/北 川越道」/正面に大きく「馬頭觀世音」と陰刻されている。しかし、本来の場所から移動しているので、方向
は怪しくなってしまった。

再びバイパスに戻り、西に行く。約900m程で、「誓詞橋」交差点に出る。交差点手前に「誓詞橋の碑」と「百番供養塔」
がある。百番供養塔は、西国(33)・坂東(33)・秩父(34)百観音札所巡りをした記念に建てられたものである。

誓詞橋の碑 百番供養塔

●誓詞橋
誓詞橋(せいしがはし)は新田義貞が所属した軍兵に忠誠を誓わせた所と伝えられている。現在は国道463号線が通り、
よく注意して見ないと橋を見落としてしまいそうな小さな橋になっている。

誓詞橋交差点から案内標識に従い、南東の道を行くと、右手に「所沢市立埋蔵文化財調査センター」がある。
ここに寄って、センターの学芸員より埋蔵文化財についての説明を受ける。

学芸員の話では、武蔵野は水がなく稲作に適さないため、縄文時代以降の史跡はほとんど無いのだそうだ。従って、弥
生・古墳時代の史跡はほとんど無いとのことであった。ここでは、何故かミヤコタナゴの繁殖を行っていました。
時間はすでに11時になっていたので、急いで文化財調査センターを後にする。

市立埋蔵文化財調査センター 白旗塚記念碑の前で

次に、文化財調査センターの南側にある「白旗塚」に行く。
塚の入口にある白旗塚の碑の前で、記念写真を撮る。つづいて記念碑の西側にある、白旗塚に登ってみる。

此の塚は古墳ではないかとの話も出ているが、先程の学芸員に確認した所、此の辺は、関東ローム層で水が無いため、
稲作が始まった弥生・古墳時代の遺跡は無いとのことであった。従って、白旗塚は古墳ではないとの話である。

白旗塚 白旗塚上の碑

白旗塚の登り口に「白旗塚土盛修復記念碑」が建っている。其の両側面に以下のような説明文が書かれていた。

●白旗塚(右側面)
 この白旗は太平記の古戦場の一画にあり一説には古墳とも言い伝えられてきたが、慶應四年村民の手により浅間神社
(富士仙元)の石祠を建て浅間信仰の塚となった。以降百四十年余りに亘り風雨に晒され表土の流出が続きここにきて白
旗塚碑・石祠共土台が露出転倒する事態となった。
 さて白旗塚隣接地に農園を持つ北野中学校(校長都筑正則)では郷土の文化財を守ることは教育上の意義あることと考
え体験活動の一環に取り入れ塚主の快諾を得、平成十九年九月修復工事に着手した。
●白旗塚(左側面)
 盛土の土は地元の岩田清氏が提供、教員生徒全員が一眼となってバケツに土を入れ山頂と周辺部に運び上げ五ヶ年の
歳月をかけて修復し、砂防に「著莪」を植え、平成二十四年一月三十一日をもって本事業を完了した。盛土の総数量約50
立方メートル生徒数(白旗塚自治会の協力を含む)延べ三百五十名。この間文化財の奉仕活動に尽力された北野中学校
生徒の功績を讃え此処に記し碑文とする。平成二十四年三月吉日

ということで、この塚は古墳ではなく「富士塚」として造られたものであることが分かった。

次の目的地は「北野天神社」である。途中、標識が出ているので注意して歩けば問題ない。
白旗塚の碑の前の道を南東に約1km程で、「北野天神社」の鳥居前に出る。天神社前の道は、狭山湖・多摩湖方面に続く
道で、非常に交通量の多い道である。

北野神社の西参道 北野神社

●北野天神社
 当社は社伝によれば、景行天皇の御代、大和武尊が東征の折、この地にニギハヤヒ・ヤチホコの二神をまつり、物部天
神・国渭地祇神として尊称したという。古来武蔵国の延喜式内社入間郡五座の一に数えられていた由緒ある神社である。
 その後、長徳元年(995) 菅原道真五世の孫修成が武蔵守となって武蔵国に下向し、この地に京都の北野天満宮を祀っ
たので、以後北野天満宮と称せられるようになった。
 武家の信仰も厚く、源義家・頼朝・足利尊氏・前田利家などによりしばしば社殿が造営されたという。現在の本殿は安永
年間(1770年代)の建築であり、拝殿・幣殿は平成6年の改築である。(案内版より)

「北野」の地名は、この北野天神社に由来している。
さすがに、式内社の神社である。立派な拝殿と其の裏に本殿を構えている。

参拝と見学を終えると、再び小手指駅にもどる。
神社前の道を北に歩く。車に注意しながら、770m程で国463号の「小手指ヶ原」交差点に出る。交差点を渡って、来た時と
同じルートをたどって小手指駅に出る。北野天神社から約1.7km程の距離であった。

続いて、所沢駅周辺の探訪を行う為に、小手指駅から所沢駅まで2駅電車移動をする。

2.所沢周辺の探訪
 このコースは、
 所沢駅−実蔵院−新光寺−所沢神明社−薬王院−旭橋−熊野神社−航空公園駅 約 4.5km である。
 コース地図は、こちら から。

プロペラ通り ファルマン交差点

所沢駅の西口を出て、「プロペラ通り」を歩く。その先「ファルマン通り」交差点に出る。
この付近の通りには、飛行機に関係のある名前が付けられた通りが幾つかある。
ファルマン通りに出て、西に歩く。600m程歩くと、「元町」交差点に出る。交差点のすぐ先、左に「実蔵院」の参道がある。

野老山(ところさん)の寺号石を見る 実蔵院

●実蔵院
野老山(ところさん)実蔵院と呼び、真言宗豊山派に属している。由来については2度の大火で、古文書、縁起類、一切
を失い定かでないが、古半鐘には正平七年(1352)新田義興によって開基されたとの銘があったので、正平七年(1352)
の創建とされている。
書院前の築山園は名園として知られ、本堂裏の墓地には女流詩人・三ヶ島葭子の墓がある。参道では今でも300年の
伝統を持つ三八市が開かれている。
「野老(ところ)」とは現在の「所沢」の古い呼び方である。

実蔵院の西側から南北に通る道に出る。この道は鎌倉街道の上道であり、南は「南小学校」から北は「新光寺」まで、
往時の街道筋がそっくり残っている。もちろん、舗装道路になっているが、れっきとした鎌倉街道である。

鎌倉街道を北に歩き、突き当たった所の左側に「新光寺」がある。
山門は特徴のある小形な「竜宮門」である。門は閉じられているので、くぐることは出来ませんが、左側から境内に入る
ことが出来ます。

新光寺の竜宮門 八角円堂

境内を入ると正面に、八角円堂の新しいお堂の新光寺がある。

●新光寺
 寺伝によれば遊石山観音院と号し、本尊の聖観世音菩薩は、行基菩薩の作と伝え、慶安二年(1649)に観音堂領として、
幕府から六石の朱印が出されている。寛政二年(1790)の寺社書上には「三間四面のお堂」と記録され、草堂に観音像を
安置したのが当寺の始まりで、所沢地方の人々に信仰されて来ている。
 「観音祭り」は、その昔「馬のまつり」として四方に宣伝されて有名であった。馬が唯一の交通機関であった頃の馬に対
する尊敬心から、年に1回馬の慰労と、交通の安全を祈願する初午の行事として、初観音の縁日を馬の町とよんで、旧く
は二月十八日に行われ、馬が本堂のまわりを回ったものです。現在は、四月十八日に行われている。(案内版より抜粋)

鎌倉街道はこのお寺の前で消えていますが、お寺の前を東に30m程行くと「県道所沢狭山線」で、ここを北に向かう坂を
「峰の坂」といい新光寺前で消えた旧街道はこの坂の途中辺りで繋がっていたと思われます。
坂の途中で県道の東側に見える森に神明社があります。

神明社長い参道 神明社

●所沢神明社
 所澤神明社は所沢市の産土(うぶすな)の神であり「所澤総鎮守」でもあり「関東のお伊勢さま」としても知られる。
 主祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)です。 境内には摂社も多数あり、 樹木が生い茂り、ことに御神木の樫は
数々の伝説を秘めた老木です。 また、西大門の参道には二丈余りの老けやきが立ち並び、古社ならではの神威を一層
深めております。
 1911年(明治44年)4月に日本最初の飛行場として開設された所沢飛行場において、その初飛行のパイロットとなった
徳川好敏が前日に関係者数名とともに正式参詣したことから、今日では特に飛行機と空の安全に関する祈願のために
参拝客も訪れている。

神明社を出て、更に東に行くと、深井醤油工場に突き当たる。少し南に下って、「武蔵野の味たまり漬本店」前の道を東に
行くと、「薬王院」に出る。
今回は、たまたま薬王院山門前に出る道が工事中で、薬王院の境内を抜けて、山門をくぐりました。

武蔵野の味たまり漬本店 薬王院

●薬王院
武蔵野合戦に敗れた新田義宗は、家をお堂に替え、戦死者を弔いながらこの地で亡くなったと言われている。
境内には「新田義宗臨終の地」の記念碑や江戸末期の女流俳人・三上里恵の句碑もある。

「新田義宗臨終の地」の記念碑 国登録有形文化財の「旭橋」

薬王院の山門を出て、東に約450m程で「飛行機新道」に架かる国登録有形文化財の「旭橋」に出る。

●旭橋
所沢駅と旧飛行場を結ぶ、飛行機新道が東川にかかる橋。昭和5年に造られた鉄筋コンクリート製の橋で、白タイル張
りの欄干や電灯の台座が特徴。親柱は、巨大な赤御影石には彫刻を施し、欄干には青銅、タイルで装飾、六角形の唐
草模様をあしらった豪華な青銅の電燈を要所に取り付けられていた。しかし、戦争がたけなわになると青銅部分は全て
供出されてしまい、現在は台座だけが残されている。
今でも現役で活躍していて、2009年には国の登録有形文化財に指定されている。

西武線のガードをくぐり東川に沿って「東川桜通り」を行くと、左側に「熊野神社」の鳥居が現れる。
鳥居をくぐり、熊野神社に寄る。

鳥居に巻き付く蛇 熊野神社

一の鳥居をくぐると二の鳥居は木製の両部鳥居で笠木の下にある貫の部分に藁で造った顔は龍、胴体は蛇(足がない)
のようなものが巻きつけられていた。これは、蛇とのことであるが、角のある蛇はないであろう。

●熊野神社(大蛇のあるお宮)
 言い伝えでは、安閑天皇の世に創られたと言われるがそれを裏付けるものはなく、通称鎮守様・産土様・または「オクマ
ンサマ」等といわれ、地域の信仰の中心となっている。
 古くは「熊野宮中氷川大明神」と呼んだが、兵火・野火等により一切の記録を失い衰退したものを、長禄三年(1459)に三
上山城守が神感を得て熊野宮を再興したとの古文書に記されている。また、里人の口伝には、当地の鈴木氏の先祖が
紀州より勧請したとも言われています。
 大晦日から元旦にかけて行う「若〆神事」のいわれは、昔境内のご神木に白蛇が棲み参詣の人や境内に遊ぶ子供がこ
れを見ると、原因不明の高熱や病に罹るため、毎年新しくお姿を作り替えお祭をするので災いのないようにお願いしたとこ
ろ、現れなくなったとの言い伝えにより、大晦日の夜、近隣の人々二十余名が奉仕して、藁で大蛇〆縄を作り、午前零時に
打ち響く一番太鼓のなか鳥居や社殿に懸替えを行います。
 この神事に奉仕の人・見物の人・初詣の人々は、古い大蛇や〆縄、各戸より納めた札の「お焚き上げ」の火で暖まると一
年間無病息災に過ごすことが出来るといわれています。(境内案内版より抜粋)

参拝を終えて境内の東側から外に出る。北側には「所沢航空記念公園」がある。
公園前の道路を渡って、航空記念公園に入る。中は広々とした芝生になっている。公園の中央部に巨大な電波塔の様な
「放送塔」が立っている。

巨大な放送塔 C−46中型輸送機(天馬)

其の脇に、「C−46中型輸送機(天馬)が展示されていた。この輸送機は、昭和30年航空自衛隊の輸送機としてアメリカ
のカーチス・ライト社から購入したもので、この輸送機は空の「デゴイチ」とも呼ばれ、航空自衛隊では災害時の緊急物資
輸送などに広く活躍した。(案内版より抜粋)

航空公園駅前のYS−11 航空公園駅

公園内を抜けて、西武新宿線の「航空公園駅」前にくると、そこには国産の名機「YS−11」が展示されている。
機体をよく見ると、操縦席の後ろ側に「エアーニッポン」と書かれていて、操縦席の下側には郵便マーク「〒」が書かれて
いる。ということは、郵便物の輸送に使われていたのだろうか。
また、エアーニッポンは、かつて存在した日本の航空会社で、全日本空輸の子会社であった。

今回の歩きは、ここ「航空公園駅」でゴールとなった。時刻は、丁度2時であった。
今日はこの後、新所沢駅傍の「ぎょうざの満洲本店」にて史跡クラブの忘年会が予定されている。

                                                            投稿担当 原 善明


史跡クラブ 忘年会という名の桃源郷

日時 平成26年12月12日 14:00〜16:30
場所 所沢 ぎょうざの満洲本店

私にとって 近年に無いハッピーでドキドキの今年。
今年を忘れるなんて・・・。と少しイジケテいたのですが・・・。

 餃子が運ばれ、エビチリ から揚げ ビールがやって来るに及ん
でソワソワガヤガヤ。 “まだ飲んじゃダメ 待って!乾杯しようよ!”
とグラスに手をかける者、餃子をつまみ上げる者を制する声が上
がる。
 いよいよ開演 いや開宴である。 部長の挨拶は声が小さいので
聴こえない そうじゃあない 周りがうるさすぎるのです。

 そんなわけで乾杯もそこそこに雪崩れ込むように始まった。
 カラオケである。カラオケ大会の開演である。それにしても餃子屋に立派なカラオケスタジオがあるなんて!?
恨みがましく下を向いたのは私一人かしら。

 ”津軽海峡冬景色”トップバッターは我らのマドンナである。皆一緒に唱っている。手拍子を敲いている。手を高く振って
いる。
 一気に高揚した。早くも桃源郷の入り口に差しかかる。 餃子なんか食ってる場合じゃない。”さーよなら私、私帰りまー
す・・・”半世紀のタイムスリップ、皆顔が紅い 皆乙女と青年だ 皆酔っている 歌とビールに ああ。

 続いてデユエットあり 艶歌あり ムード歌謡ありと留まるところを知らない。 ハーモニカのヒロシさん登場。これは皆を
唸らせた。人には一芸も二芸もあるものだ。
“城ヶ島ブルース”だ。”ウマイ 大統領”の声が飛ぶ。思わず噛むのを忘れて唐揚げがノドにつっかえる。

 テーブル2ツを15人で囲んでいる。8人と7人だ。何故か8人テーブルは乙女と青年仲良く4人づつ、7人テーブルは青年
のみ。いやが上にも8人組が盛り上がっている。 歌もダンスも8人組だ。”そっちのテーブルはどうした”と声が掛かると森
の古武士がすっくと立上がり、それではお手前がとばかりマイクを一閃”逢わずに愛して”と来た。

 苦みばしったイイ男、潔よし。こうして青年7人組も火がついた。桜の旦那”祭り“、“北の旅人”部長は”はぐれ草”、
”神田川” 新人のおーさんは“恋の街札幌”と8人組と刺し違えんばかりに声を嗄らした。

  デユエットで“銀座の恋の物語”、”居酒屋”などにのせてダンスに歌に酔っている。 頬を寄せるかと思えば 華麗に頭
上高く手をあげクルリと回る。踊る2人は酔いしれている。(悔しい、50年前のあの時レッスンを受けていれば)
 こうして次々と踊る二人組は無論であるが 15人の皆が桃源郷に遊んだのである。 エースも吟ちゃんもウドもみんな歌
った。みんな桃源郷の中にいた。
 半世紀の時を超えて しばし乙女と青年。嗚呼 桃源郷!!

                                                           投稿担当 前田 静男


学園祭用展示パネル制作 奮戦記

何かを作る、創り出す事は楽しいことである。
それも同好の仲間と一緒に作業を進めるのは、とりわけ楽しいものである。

●10月10日(金) 第1回目「スタートミーテイング」
 部長K氏の音頭で、クラブのエースH氏を筆頭にマドンナK嬢、才媛J嬢、ウドM、部長のK氏の5人が制作担当に
決定した。 無論クラブ全員が応援団であり、都度支援の手を差し出すサポータである。
 展示パネルは、例年並みに180×120cmボードに合わせた模造紙に6月からの探訪先を紹介する写真&説明
文を貼り付けるスタイルで制作スタートと相成った。

具体的作業を進めるにあたって準備担当を次のように決めた。
@メインデッシュである写真、ルート地図&説明資料はエース。
A器である模造紙は部長。
Bスパイスとデコレーションの制作資材(糊、両面テープ、矢印テープ、鋏、etc)は才媛&マドンナが担当。
これだけ決めるのに小1時間を要する喧々諤々。
兎にも角にもスタート地点には立った、次回のミーティングに向けてスタートした。ゴールのことは考えていない、それは
走りながら皆で決めていこうとなった。

●10月24日(金) 第2回目「準備作業」
 各々が準備の品を持って「東松山ウオーキングセンター」に集まり具体的作業の一歩を踏み出した。
エースの構想を基に、探訪先である第1回「高坂ルート」、第2回「吉見ルート」、第3回「高麗ルート」の周遊ルート地図
を中央に置き、それを取り巻くように写真&説明文を配置することになった。

完成作品をイメージするには実際に模造紙上に置いて見
ようとなり作業開始。

 マドンナ「写真が小さくない?」
 エース「2倍ぐらいでもいいな」
 ウド「ルート地図もB4サイズじゃないか?」「拡大コピー
 をしてくるよ」
 エース「そーして、それとルート線は赤で太くしよう」
 エース「写真不足だなあ、高麗神社と高麗家住宅は撮り
 に行こう
 ウド「いつ、明日、良いですよ、一緒にランデブー?」
 才媛「写真は四角ばかりは硬くない?丸いのも欲しいな」
 エース「そーだネ 簡単だから作るヨ」 等々

意見続出 実際に模造紙上に並べて見ると解り易いものである。
とりわけ 説明文の文字はサイズアップが必要だ。それに余白が有り過ぎると散漫で間抜けな感じだ。部員の集合写真
も1枚欲しい。
そんなことで、全体のサイズアップ、追加の写真撮影、ルート地図の修正、B4サイズ上質紙カラーコピー準備が必要と
決まった。 大半がエースの作業だ。神様 仏様 エース様 何卒よろしく。

10月31日(金) 第3回目「準備作業」
 今日も学園が使用できない日だそうである。学園祭に向けて化粧を整えるワックスがけの日だそうだ。
そんな事情があって作業場所は、若葉ウオークの中にある鶴ヶ島市市民活動推進センターとなった。
 エースと才媛はウドの車で東松山のカラオケスタジオ(学園祭の歌と踊りの稽古)から若葉ウオークに向かった。
マドンナは既に到着していた。1時ころからの昼食の約束だ。

 戦の前の腹ごしらえ、先ずはじめに昼食ありきである。ウドの提案でピザとパスタにしようとなり、2Fのフードコートに
向かった。店はそこそこ混んでいる。やはり若いお母さん達がほとんどだ。
席についてピザ2枚&パスタ2皿とサラダバーをオーダー。マドンナと才媛が普段見せない甲斐甲斐しさでサラダを取
り分けてくれる ああ。
サラダを食べ終わる頃、パスタ ピザと次々に運ばれてくる。これまた二人が取り分けてくれる ああ。
心なしかエースの顔は上気がさしてほんのり紅い。四人でテーブルを囲むのがこんなにも心が躍るなんて!!

各々二人前を分け合ったのだが、食べきれない程のボリュームだ。         
  才媛「残しちゃあだめ 食べなさい!」 
  マドンナ「私 ひとつ食べる だから食べて!」
エース「うわー 残すのは むむむ・・」などと言いつつ食べきった。

腹をなでながら降りていくと部長が待っている。
すぐに市民活動推進センターのテーブルにつき作業開始だ。

テーブル一杯に模造紙を広げ、写真 ルート地図などを貼
っていく。
「つかないよ」とウド、「両面テープだから 一枚はがすのよ
 もお・・」と才媛。
「これだから・・ボケが・・ ね」とマドンナが追い打ちをかける。

女性群は両面テープを忙しく切って貼り付け担当の男性陣
に渡す。「はい なに まだ」と部長もエースも煽られている。
部長は汗と息切れに見舞われているやに見える。


ルート地図3枚を中段に配置してその周辺に探訪先の写真
&説明資料を置いていく。前回の反省から1.5倍サイズで作
成したが それでもなお余白が目につく。

「この前行った東大の安田講堂の写真を上段中央に入れよ
う、全員の集合写真も少し大きくするよ」エースがテキパキと
決めていく。

「4日までに準備するよ」「リボンの矢印テープと周囲の枠は
その時やろうよ!」と手際よく段取りが進む。
それでも全体の配置は決まり概ね完成作品がイメージ出来
るところまで漕ぎ着けた。

「4日に完成と言うことで今日はこれまでにしよう」部長とエースが締めくくった。そこで、センターの係員に頼んで記念の
写真をパチリ!。
「保管は気をつけてよ、じゃあよろしく」部長がウドに指示を出して散会かと思いきやチョットお茶となり いつものように
ほんわかと名残惜しげに さようなら。

●11月4日(火) 第4回目「最終仕上げ(?)」
 今日は学園祭実行委員会の終了後にボードに貼り付け全て完成のはずであった。
雨のスリーデーマーチで風邪を背負い込んだエースと学園祭内会場係の部長が参加出来ず、マドンナとウドで取り掛かる
ことになった。
先ずは模造紙全体をボードに貼り付ける。これがなかなか難しい。先に模造紙に両面テープを貼っていく。
  「ハイ これぐらいでいい?」マドンナがテープをウドに渡す。
  「テープを縦4本 上下2本位貼ろうか?」ウド。
次々に両面テープを張り付けていくはずだった。5本ばかりテープを切り進めたところで、
  「テープ終わったよ、他にテープないの?」マドンナが悲鳴を上げる。
資材袋を探すが両面テープは愚か透明テープすら無いのである。
両面テープを貼ったとろだけを頼りにボードに貼り付けてみると見事なウエーブが描かれた。
  「これは無理だな 波を取るのにスコッチテープで引っ張るか・・」ウドが頼りない声を出す。
こんな訳で、次回7日のリハーサル日に持ち越す羽目となった。
7日は、しわ取りから始まって ルート矢印テープ 安田講堂 集合写真 枠取り コーナーリボンの取り付けと多くの作業
がありそうだ。その上エース肝いりの詳細説明文をぶら下げる作業もある。
やはりウドのやることはこんな程度なのかしら。チョット肩を落として家路に。

●11月7日(金) 第5回目「リハーサル日の最終仕上げ」
 部長は身内の不幸で急遽帰宅。それでもエースは復帰、才媛 マドンナ ウドと顔が揃った。ウドはスコッチテープをはじ
め作業で予想される資材を準備していた。
説明文吊り下げ用ビニール紐 穴あけパンチ ホッチキス クリップ カッターナイフその他 考えられる物は何でもリュック
に入れて来ていた。

しわ取りから始まった作業は順調に進んだ。
  マドンナ「ルート矢印の長さは?もっと長く?はいよ」
  才媛「集合写真も貼っていい?ああ もっと下かな?
  エース「安田講堂はやっぱりあってよかった。
  全体的に纏まったね」

こうして緑の枠もコーナーの花も“てくてく史跡クラブ”のタイト
ルも無事に納まった。
  才媛 マドンナ「まあまあかな いいんじゃない いいよ!」
  エース ウド「間にあったね いいよ!いいよ!」

こうして長くて短い 楽しくて清々しい戦いは終わった。
この作品はエースの作品である。エースが企画し写真や地
図など全てを準備した。

しかしそれに携わった才媛 マドンナ ウドも満足している。
それは どんな素材も料理する人の腕だけでは心を満たす料理にならない事を知っているから。器も膳も大事 でももっと
大事なのはもてなす心であることを。

                                                           投稿担当 前田 静男


11月14日 史跡探訪第5回目 川越歴史散歩

川越の象徴「時の鐘」 レトロなボンネットバス「川越巡回バス

日時:2014年11月14日(金) 快晴
参加者数:16名

本日は朝から快晴で、川越の歴史散歩に打ってつけの暖かな1日となった。
本日の参加者は16名で、これまでで最大の参加人数となり、賑やかな散策となった。

今日のコースは、
   川越駅(スタート)−小江戸蔵里−仙波東照宮−喜多院−てんぬま(昼食)−富士見櫓跡−三芳野神社−
   本丸御殿−川越市立美術館−川越城中ノ門跡−川越まつり会館−菓子屋横丁−時の鐘−本川越駅(解散)

9時40分 川越駅を出発する。商店街「クレアモール」を通って最初の訪問先「小江戸蔵里」に向かう。

クレアモールを歩く 小江戸蔵里

1.小江戸蔵里
 1875年創業の鏡山酒造跡地に作られた商業施設。当初マンションの建設が予定されていたが保存運動の声に
押され市が購入して商業施設に改造した。
 明治蔵、大正蔵、昭和蔵の3棟に分かれレストラン、物品販売所などに利用されている。入口右側に新富町1丁目
の山車庫「家光の山車」がある。

新富町一丁目の山車庫 西小仙波町の山車庫

小江戸蔵里で、朝から日本酒の試飲をしたり、買い物をしたりした後、次の目的地「仙波東照宮」に向かって東に歩く。
途中、西小仙波町の山車庫前を通ったので、素戔嗚尊の山車を見学する。
「東照宮中院通り」を経て、仙波東照宮の門前に出る。

仙波東照宮の入口 仙波東照宮の拝殿

2.仙波東照宮
 1616年家康の遺骸を久能山から日光に運ぶ途中喜多院に留め、天海僧正が薬師堂で4日間の大法要を営んだ。
その関係で1633年建立され、日光、久能山とともに3大東照宮と呼ばれている。

仙波東照宮の境内を北に抜けると、喜多院の境内となり、左側の1段高くなった所に「慈眼堂」が建っている。

慈眼堂 慈眼堂

3.慈眼堂
 慈眼堂は、厨子に入った天海僧正の木造が安置されているお堂である。天海僧正は、徳川家康の側近として、江戸
幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した僧である。入寂後、徳川家光より「慈眼大師」の諡号をおくられた。

慈眼堂の前を過ぎると、左側に「喜多院」の「慈恵堂」がある。

喜多院本堂の「慈恵堂」 多宝塔

4.慈恵堂
 慈恵堂は、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる堂宇です。現在、喜多院の本堂として機
能し、中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りしています。

本堂の右側には、二重の塔「多宝塔」が建っている。
本堂に向かって右奥に連なる 庫裏・書院・客殿は、川越大火の後、江戸城「紅葉山」より移築された建物である。
庫裏(寺務所)にて拝観受付をして、ここから書院・客殿・本堂へと渡る。明るい照明になれた現代人にとって、昔の住宅
は、かなり暗く感じられた。

最後に、本堂に渡り、初めて本堂内部で参拝をすることができた。よい厄落としになったような気がする。

庫裏の入口 境内にある「五百羅漢」

見学と参拝を済ませ、境内の東側角にある「五百羅漢」を見て回る。羅漢像を前に写生しているご婦人がいました。

5.五百羅漢
 日本三大羅漢の一つとのことです。この羅漢さまは、川越北田島の志誠の発願により、天明二年(1782)から文政八年
(1825)の約50年間にわたり建立されたものです。十大弟子、十六羅漢を含め、533体のほか、全部で538体が鎮座し
ています。

そろそろお腹が空いてきた。今日のお昼は喜多院の西側にある「天婦羅 てんぬま」である。お待ちかねの昼食は20食
限定の和定食であった。温かい天婦羅が美味しかった。美味しいものを食べると皆幸せそうな顔になっていた。

てんぬま前でパチリ! 幸せなひととき

お腹も一杯になり、元気を快復したところで、午後の歩きに入る。
次の目的地は「川越城本丸御殿」であるが、途中にある「川越城富士見櫓跡」と「三芳野神社」に寄ることにする。

富士見櫓跡の登り口 富士見櫓跡でパチリ!

喜多院から北に向かう。川越城富士見櫓跡は、川越城本丸御殿の南側にある。階段には弱い我々であるが、お昼を
食べた後なので、全員揃って元気に階段を登り、櫓跡に到着。周囲は木が茂っていて、残念ながら見晴らしは余り良
くない。ここでも記念写真をパチリ。

6.川越城富士見櫓跡
 川越城は天守閣を持たない平城であったため、この富士見櫓が天守閣の代わりをしていた。ここが城内では一番高
い場所であった。富士見櫓の復元が川越35万市民の悲願であるとのこと。

北側に下った所に、浅間神社・御嶽神社・お稲荷様など3社のお堂がある。続いて、東に200m程行った先、左側に童謡
「とおりゃんせ」の発祥の地「三芳野神社」がある。

三芳野神社「とおりゃんせ」の参道 三芳野神社

7.三芳野神社
 三芳野神社は、童謡「とおりゃんせ」発祥の天神様。川越城は太田道真・道灌親子が築城したのだが、三芳野神社は
川越城が出来るずっと以前からこの地に鎮座しいていた。川越城が築城されるにあたり、三芳野神社はそのまま川越
城内に鎮座することになってしまった。ここは、川越城の「天神郭」となった。
 従って、普段は町人のお参りは許されなかったが、年に数回お参りができた。しかし、帰りに何か持ち出していないか
厳しい身体検査があった。それが「行きはよいよい帰りは怖い」のフレーズになったとか。

三芳野神社拝殿の左側から裏側に抜けると、左側に「川越城本丸御殿」がある。

川越本丸御殿 本丸御殿前でもパチリ

8.川越城本丸御殿
 現在の建物は1848年松平斉典の建造。当初は16棟1025坪の規模を誇ったが明治維新後に大半が解体された。
家老詰所は上福岡の民家に移築されていたものを譲り受け復元した。
 江戸時代の本丸御殿は日本に2棟しか残っていない。川越と高知城の本丸御殿が現存する2棟である。鴬張りの御殿、
京都二条城は二の丸。姫路城も本丸御殿は焼失している。
 2008年(平成20年)10月から2011年(平成23年)3月まで保存修理工事が行われ、修理工事が終わったばかりである。

今日は県民の日なので、本丸御殿の入館料は無料であった。
本丸御殿をゆっくりと見学したあと、川越市立美術館に向かう。美術館では、「没後300年記念 柳沢吉保とその時代」
特別展を行っていた。美術館と隣に建つ川越市立博物館の2箇所に分けて特別展を行っていた。

美術館では、狩野常信「六義園の図」が補修を終わり展示されていた。六義園は、前回「文京の史跡を訪ねる」で訪ね
たばかりである。

美術館を後にして、次に訪ねたのは「川越城中ノ城門堀跡」である。

川越城中ノ城門堀跡の入口 川越城中ノ城門堀跡(左側が城側)

この空堀も太田道真・道灌親子が縄張りして造ったものである。深さが7m、幅18mもあったとのこと。

9.川越城中ノ城門堀跡
 川越城は明治維新後大半が解体されて堀も埋められた。跡地は学校や役所に利用されていたが一部残っていた堀
の跡を市が復元し公開したのがこの堀跡である。

時刻も3時に近づいてきた。次は、伝統的建造物群保存地区(一番街)に出て 祭り会館・菓子屋横丁・時の鐘 を巡る
ことになっている。

10.伝統的建造物群保存地区(一番街)
 @1975年文化財保護法の改正により伝統的建造物保存地区制度が導入された。歴史や文化を色濃く残した「集落」
   や「町並み」が都市化により失われ、画一化した町並みに危機感を持って保存を訴える運動が全国で起こった。
 A1999年12月に一番街地区通称「蔵の街通り」が指定された。時の鐘はこの地区のシンボルで高さが16m(奈良の
   大仏と同じ)ある。この景観を守るためこの地区の建物は高さ11mに規制されている。
 B大沢家住宅は約220年前に建造された。明治26年の大火で焼け残りその価値が認識され、その後の土蔵造りの
   原点になった。大半の土蔵造りの建物は明治27年以降に造られている。
 C川越まつり会館は2003年10月会館。常時2台の山車を展示し迫力のある映像と合わせ川越まつりの臨場感が味
   わえる。

「札の辻」交差点を左折し、一番街に入る。まずは、「祭り会館」に寄ることになった。

祭り会館 大沢家住宅

祭り会館では、説明員から話しを伺い、川越まつりの映像鑑賞をした。勇壮な川越祭りの映像を堪能した後、館内を
見学して外にでる。

続いて「大沢家住宅」の前を通り、菓子屋横丁に向かう。大沢家住宅は本日はお休みということで、住宅内を見ること
はできなかった。菓子屋横丁では、子供時代を思い出すお馴染みの駄菓子などを眺めながら散策をする。

再び、一番街に戻り、「時の鐘」を目指す。道の両脇は、蔵造りの店舗が並び、まさに歴史的建造物群のオンパレード
である。

蔵造りの店が並ぶ「一番街」 「やまわ」の店舗
「亀屋」の店舗 「松崎スポーツ」の店舗
りそな銀行 時の鐘

「時の鐘」で本日の川越歴史散歩は終了である。
川越は何度も訪れているが、今回は史跡クラブによる探訪なので、歴史を学ぶということでは、とても充実した探訪と
なった。担当幹事さんご苦労様でした。
                                                投稿文章 稲庭正男  写真 原 善明


10月26日 史跡探訪第4回目 文京区の史跡を訪ね 東大の食堂でお昼を食べよう

東大安田講堂(2011年撮影) 東大「三四郎池」


日時:2014年10月26日(日) 晴れ
参加者数:12名

今回のコースは、
 巣鴨駅(スタート)−江戸六地蔵−とげぬき地蔵−六義園−駒込富士神社−吉祥寺−赤目不動−駒込土物店跡−
 八百屋お七の墓−ほうろく地蔵−海蔵寺−夏目漱石旧宅跡−根津神社−根津教会−弥生式土器発掘地跡− 東大
 食堂(昼食)−三四郎池−東大赤門−別れ橋跡−鱗勝院(春日局)−湯島天満宮−千代田線湯島駅(ゴール)
距離は約8kmです。コース地図は コチラ を参照下さい。

当初、探訪予定日は22日(水)であったが、生憎の雨で本日に変更となった。午前中は、曇りがちのお天気であったが、
昼前から快晴となり、少々蒸し暑さを感じることも有ったが、絶好の探訪日和となった。

10時に山手線の巣鴨駅に集合。今回も、二度と来ないだろうと思われる探訪先が満載である。期待を込めて巣鴨駅前
をスタートする。

巣鴨駅前 さーこれからスタートだ! 巣鴨地蔵通商店街入口

まずは、巣鴨地蔵通商店街入口を目指す。商店街入口の手前左側に最初の訪問先である「眞性寺」がある。
参道を入ると、正面、本堂の左側に唐銅製の坐像のお地蔵様が鎮座している。
江戸六地蔵(第四番)である。像の高さは2.7m、台座を含めると約3.5mと大きなものである。

眞性寺 江戸六地蔵(第四番)

@眞性寺(江戸六地蔵)
 この寺の創建年代等については不詳であるが、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開いたことが伝えられている。
江戸時代に入り元和年間(1615年〜1624年)に中興されている。江戸時代、正徳四年(1714)に江戸六地蔵の第四番
が安置された。ここは「中山道」の江戸への出入口に当たります。
・江戸六地蔵
 江戸深川の地蔵坊正元が、宝永三年(1706)に発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に丈六
の地蔵菩薩坐像を造立した。病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵にならって造立
したものである。
 第1番:品川寺 旧東海道、第2番:東禅寺 奥州街道、第3番:太宗寺 甲州街道、第4番:眞性寺 旧中山道、
 第5番:霊巌寺 水戸街道、第6番:永代寺 千葉街道(現存せず)

地蔵通商店街の入口右側に妙なものを見つけました。「すがもんのお尻」である。すがもんは、巣鴨のゆるキャラとのこ
とであるが、何故お尻なのかな??? 触ってみるとふわふわしていて手触りのよいお尻であった。

「すがもんのおしり」 高岩寺の山門

賑やかな商店街を200m程行くと、右側に高岩寺(どげぬき地蔵)の山門が現れる。
山門をくぐると正面が本堂である。本堂の左側に有名な「洗い観音」がある。

高岩寺 「洗い観音」を洗う人達

A高岩寺(とげぬき地蔵)
 高岩寺(こうがんじ)は東京都豊島区巣鴨にある曹洞宗の寺院。山号は萬頂山。本尊は地蔵菩薩(延命地蔵)。
一般にはとげぬき地蔵の通称で知られる。病気の治癒改善にも利益があるとされる「御影」が配布されている。
 御影は、縦4センチ横1.5センチの和紙の中央に尊像が描かれている。
・洗い観音
 境内に立つ石造の聖観音像で「洗い観音」と通称される。これが「とげぬき地蔵」と勘違いしないように。
かくいう私は最初勘違いしていた。「とげぬき地蔵」は秘仏で、本堂の中に安置されていて拝観できません。
 自身の治癒したい部分に相応する観音像の部分を洗う、または濡れタオルで拭くと利益があるという。
 かつては像の表面をたわしで擦っていたため、摩耗が激しく、2代目の像が製作された。現在の像は1992年
(平成4年)に奉納されたものです。

ここまでが、豊島区での探訪である。これから、いよいよ文京区に入る。
一旦、巣鴨駅前に戻り、今度は「白山通り(国17号)」を南に歩く。千石一丁目交差点の手前、みずほ銀行の脇を左に
入る。600m程で「六義園(りくぎえん)」の正門前に出る。

皆さん、胸を張って「シルバー割引」で入園する。対象は、65歳以上となっているのだが?
たまたま、ガイドのボランティアがいて、園内の案内をしてくれるということで、短い時間ですが案内をしてもらった。

六義園の正門 庭園内の池

B六義園(りくぎえん)
 元禄八年(1695)五代将軍綱吉の側用人、柳沢吉保が綱吉から下屋敷として賜った地に、7年の歳月をかけて「回遊式
筑山泉水庭園」を造り上げた。社殿を「六義館」庭園を「六義園」と称した。「詩経」の「六義」から園名が付けられている。
 江戸時代は度々の大火を免れ、関東大震災や東京大空襲からも被害を受けず、造園当時の面影を現在に残している
貴重な歴史的な遺産である。六義園は小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられている。

20分程庭園内の散策をしたあと、六義園を後にし、「本郷通り」に出る。本郷通りを右折し南に歩く。

300m程先で「富士神社入口」の交差点に出る。この信号を左に入った所に「駒込富士神社」がある。
「富士社」の額がかかった石の鳥居を入ると、正面に急な階段があり、その上に富士神社が鎮座している。

駒込富士神社 富士神社の境内にて

C富士神社(駒込富士神社)
 本郷村の名主が天正元年(1573)、現在の東京大学の地に駿河の富士浅間社を勧請したことに始まる。
寛永五年(1628)加賀前田家が上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間社を現在地に移した。拝殿は富士山に見立てた山
(前方後円墳)の上にあり、江戸期の富士信仰の拠点の一つとなった。

「駒込は一富士二鷹三茄子」 と、歌われた川柳の富士は、この富士神社のことである。

・富士講(富士信仰の講)
 狭義の富士講は、戦国時代から江戸時代初期に富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)で修行した角行藤仏という行者
によって創唱された富士信仰の一派に由来する。
 享保期以降、村上光清や食行身禄によって発展した。最盛期では数多くの講社があり、江戸時代後期には「江戸八百
八講、講中八万人」と言われるほどであった。

富士神社を後にして、更に本郷通りを南下する。350m程先、左側に「吉祥寺」がある。
山門には「栴檀林」の額が架かっている。山門を入って本堂迄は280mもの長い参道が続いている。

吉祥寺山門 鐘楼の先に本堂がある

D吉祥寺
 太田道灌が江戸城築城の際、井戸を掘ったところ、「吉祥増上」の刻印が出てきたため、現在の和田倉門のあたりに
「吉祥庵」を建てたのが始まりといわれる。徳川家康の時代に水道橋際へ移ったが、明暦三年(1657)明暦の大火で焼
失し現在地に移転。
 山門には『旃檀林(せんだんりん)』の額が掲げられています。旃檀林は、文禄元年(1592)創立の曹洞宗(そうとうしゅう)
の学校(禅学の中心道場)で、現在の「駒沢大学」の母体である。境内に『八百屋お七』のお七・吉三の比翼塚(ひよくづか)
や、江戸時代では都内唯一の経蔵、また茗荷稲荷があります。
 武蔵野市の「吉祥寺」は地名で、お寺がある訳ではない。明暦の大火によって、水道橋際に存在した吉祥寺の門前町
が焼失した際、幕府は都市計画に基づき同地を大名屋敷とし、吉祥寺門前の住人を始め居住地・農地を大幅に失った
者達に対し、現在の武蔵野市の東部に移転させたが、移転した人達が懐かしんで「吉祥寺」という地名にした。

境内の社務所の前に、大きな栴檀(センダン)の木が植えられていて、青いナツメの様な実を沢山付けていた。
栴檀の木は邪気を払う霊木と言われている。

吉祥寺を出て、本郷通りを更に200m程行った先、右側に「南谷寺(目赤不動)」がある。

南谷寺(正面) 目赤不動尊(境内の右側)

E南谷寺(なんこくじ)(目赤不動尊)
 「南谷寺」の境内に「目赤不動尊」が祀られている。目が赤いわけではない。伊勢国「赤目山」で授けられた不動尊なの
で「赤目不動」と言われていたが、三代将軍家光から「目赤不動」にせよと言われ目赤になったとか。
 ちなみに江戸時代には、目赤(文京区)、目白(豊島区)、目黒(目黒区)の3不動が知られている。後世になって、目青
(世田谷区)、目黄(台東区・江戸川区)の2不動が追加され、五不動が「五色不動」として知られるようになった。
五色不動は、五行思想の五色(白・黒・赤・青・黄)の色にまつわる名称や伝説を持つ不動尊を指し示す総称である。

「五色不動」を勉強して、南谷寺を出る。その先「駒本小学校前」の交差点に出る。交差点に架かる歩道橋の右脇に
「天栄寺」があり、その門前に「駒込土物店跡」の碑が立っている。

F駒込土物店跡(天栄寺門前)
 天栄寺の門前に「駒込土物店跡碑」と「青果市場跡碑」が建てられている。近隣の農家が土物(人参、牛蒡など土
の付いた野菜)を販売し、後に「やっちゃ場(青果市場)」に発展した場所。
 やっちゃ場の「やっちゃ」は、競り市場の掛け声で「やっちゃやっちゃ」と聞こえてくるところから「やっちゃ場」と呼ば
れるようになった。やっちゃ場の始まりは戦国時代から安土桃山時代の頃といわれる。

この交差点を右斜に細い路地に入る。すぐに、白山通り(国17号)の「白山上」交差点に出る。

白山通りを南に250m程先、横断歩道の信号機のある丁字路を右に坂を下る。
坂の途中、右側に八百屋お七の墓のある「圓乗寺」がある。特に、山門はない。

駒込土物店跡の碑 圓乗寺入口

G圓乗寺(八百屋お七の墓)
 江戸観音十二番札所としても知られる天台宗の圓乗寺。井原西鶴の名作「好色五人女」などで有名なお七(1668〜
1683)の墓がある。お七の生家は駒込片町(一節によると本郷追分とも)の有数な八百屋であった。
 天和二年(1682)十二月の天和の大火で家が焼け、菩提寺の圓乗寺(吉祥寺説は誤り)に避難したが、避難中に圓乗寺
の小姓山田佐兵衛と恋仲になった。やがて家は再建され戻ったが佐兵衛あいたさに付け火をした。放火の大罪で捉えら
れたお七は、天和三年(1683)三月火あぶりの刑にされた。
 お七の墓石は三基あるが、三基の墓石のうち中央は寺の住職が供養の為に建てたものである。右側のは寛政年間
(1789〜1801)岩井半四郎がお七の演じが講評だったので建立したものである。左側のは近所の有志の人達が、270回忌
の供養で建立したものである。

再び白山通りに戻り、左に少し戻ると、右側に「大圓寺」の寺号石が立っている。
ここを右に入ると、突き当りが「大圓寺」の山門である。山門を入った突き当りに「ほうろく地蔵尊」がある。
地蔵尊のお堂の前には、沢山の素焼きの「ほうろく」が重ねられていた。

八百屋お七の墓 ほうろく地蔵尊

Hほうろく地蔵(大圓寺境内)
 「八百屋お七」にちなむ地蔵尊、天和二年(1682)におきた天和の大火の後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を
犯し、火あぶりの刑を受けた「お七」を供養するために建立されたお地蔵様である。
 寺の由来によるとお七の罪業を救うために、熱した焙烙((ほうろく)素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱
の苦しみを受けたお地蔵様とされている。亨保四年(1717)にお七供養のために渡邉九兵衛という人が寄進したといわれる。
その後このお地蔵様は、頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治す霊言あらたかなお地蔵様として有名になった。 

大圓寺の塀に沿って細い路地を東に行くと、再び「本郷通り」に出る。右折し、すぐ先の信号を渡り路地を東に直進する。
路地が突き当たったところの右側に「海蔵寺」がある。

海蔵寺の山門脇には、先ほど訪ねた富士神社と関係のある「身禄行者(食行行者)」の墓がある。
また、境内には三味線を用いた世相漫談や都々逸などで名をなした「都家かつ江」の墓と碑がある。

海蔵寺 海蔵寺 都家かつ江碑

I海蔵寺(身禄行者の墓・都家かつ江の碑)
 曹洞宗の寺。天文年間(1532−1554) 勝庵宗最禅師を開山として現在の和田蔵門内に創建された。その後明暦年間
(1655−1657)に現在地に移転してきた。
 著名な墓碑等は、江戸庶民に富士信仰を広めた富士行者「身禄の墓」、江戸後期の儒学者立原翠軒夫婦の墓がある。
・身禄行者
 身禄行者、寛文十一年(1671)〜享保十八年(1733)は、食行行者ともいい、江戸庶民を中心に栄えた富士信仰の中興
の祖としてしられた人。
 庶民の苦しみを救おうと富士七合五勺の烏帽子岩近くの石室で断食入定(食を断って死ぬこと)した。身禄の教えは広
く庶民の信仰をあつめた。身禄行者の骨が分骨埋葬されたといわれる墓の墓碑は、富士山をかたどった溶岩の山上に
建てられている。

海蔵寺の西側の塀に沿って路地裏を辿り、夏目漱石旧居跡に出る。ここで、うっかり道を間違え夏目漱石旧居跡を通り
過ぎてしまった。以前に撮っておいた写真を掲載します。塀の上を歩く猫のブロンズ像が面白い。

「吾輩は猫である」の猫のブロンズ像 夏目漱石旧居跡

J夏目漱石旧居跡(猫の家)
 この地に、夏目漱石が、イギリス留学から帰国後の明治三十六年三月から三十九年十二月まで、現在の西片一丁目
に移るまでの3年10ヶ月住んだ家があった。
 当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めての創作の筆をとった。その作
品「吾輩は猫である」の舞台として「猫の家」と呼ばれ親しまれた。
 この地で、「倫敦塔(ろんどんとう)」「坊っちゃん」「草枕」などの名作を次々と発表し、一躍文壇に名をあらわした、漱石
文学発祥の地である。

日本医大病院の脇を通り、「日本医大前」の交差点で左折し、坂を下っていくと、右側に「根津神社」の鳥居が見えてくる。
鳥居をくぐると、すぐ右側に赤い鳥居が立ち並んでいるのが目に入る。「乙女稲荷神社」である。鳥居のトンネルをくぐって
乙女稲荷神社を参拝し、その先に続く鳥居のトンネルを抜けて、根津神社の唐門前にでる。

乙女稲荷神社の鳥居 根津神社の唐門(国重文)

K根津神社
 根津神社は、日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一社に数えられている。この地は、五
代将軍綱吉の兄である甲府中納言綱重の屋敷で、六代将軍綱豊(家宣)が生まれた地である。このため、根津神社は
その産土神となった。
 宝永三年(1706)綱吉は現在地に社殿を造営した。権現造りの完成形として見事な姿を残す建築は、本殿・拝殿・唐門
・桜門・透塀は国の重要文化財に指定されている。
 正徳四年(1714)に行われた「天下祭」は空前絶後の壮大華麗さで後々の語りぐさになった。

根津神社の正面の大鳥居をくぐり、外にでる。この地には、もう一つ国登録有形文化財の「根津教会」がある。

根津神社の大鳥居 根津教会

L根津教会
 日本基督教団の教会堂である。1919年(大正8年)に「本郷福音教会」として建立された木造平屋建て切妻造で、外壁
は下見板張りとし、切妻の妻面に窓を開けた尖頭アーチのデザインである。玄関部のトンガリ屋根を載せた角塔が地域
のランドマークとなっている。
 2001年(平成13年)に、門及び塀とともに国の登録有形文化財に登録された歴史的建造物である。

この先、路地裏の道を歩いて「言問通り」にでる。右側一帯は東大農学部である。
通りの向かい側は、東大浅野キャンパスで、工学部がある。

浅野キャンパスの西側角に「弥生式土器発掘ゆかりの地碑」がある。このキャンパスの中に弥生式土器発掘場所として
有力な場所の一つがあるが、今回は時間の都合で入らなかった。

弥生式土器発掘ゆかりの地碑 浅野キャンパス内の発掘場所

続いて東大本郷キャンバスの塀沿いに歩いて、東大の正門に出る。
いよいよお楽しみの東大の食堂でのお昼である。正門を入ると、道の両脇にはイチョウ並木が続いている。
正面に、安田講堂が見えてくる。現在安田講堂は、補修作業中で、半分ほどがシートに覆われていて全貌が見られない
のが残念であった。

食堂は、安田講堂前の地下にある。地下1階でメニューを見て、食券を購入し、地下2階にある食堂に降りる。

東大の正門 東大の食堂にて

今日は日曜日なので、食堂は午前11時から午後2時までとなっていた。休日のせいもあり、食堂はかなり空いていた。
ここで食事をすることは、まず無いことだと思います。我々にとっては貴重な体験であった。

都会の喧騒を忘れる「三四郎池」 東大赤門

45分程のランチタイムを楽しんで、食堂を出る。第3代・第8代総長を務めた濱尾新(はまおあらた)の銅像をながめ、
「三四郎池」に向かう。ここはまさに都会のオアシスの様な所である。三四郎池は、正式には「育徳園心字池」という。

M三四郎池(育徳園心字池)
 加賀藩主前田氏が現在の赤門から池にかけての一帯を将軍家から賜ったのは、大阪の役の後のこと。園池を大築造
したのは寛永十五年(1638)、前田利常のときである。彼の死後、綱紀がさらに補修して当時江戸諸侯邸の庭園中第一と
称せられた。
 育徳園と命名され、園中に八景、八境の勝があって、その泉水・築山・小亭等は数奇をきわめたものだといわれている。
池の形が「心」という字をかたどっており、この池の正式名称は「育徳園心字池」なのだが、夏目漱石の小説「三四郎」に
登場して以来、「三四郎池」の名で親しまれている。

三四郎池を散策した後、赤門に向かう。
東大の校舎の多くはアール・ヌーヴォー風のレンガ造りで、時代を感じさせる造りであった。

N赤門
 加賀藩十三代藩主前田斉泰(なりやす)は、文政十年(1827)に十一代将軍家斉の第21女「溶姫」を正室に迎えた。
当時の習わしとして、三位以上の大名が将軍家から妻を迎える際には、朱塗りの門を建てた。
 築様式は、薬医門で切妻造りとなっている。左右に唐破風造りの番所を置いている。国の重要文化財である。
赤門は、火事等で消失してしまっても建て替えることは許されなかったので、大火の多かった江戸では唯一残っている
門である。

赤門を出ると再び「本郷通り」である。南に300m程歩くと、右下に下る坂(菊坂)がある。菊坂周辺は明治大正期の文豪
や芸術家が多く住んでいた地域である。この坂の入口に「別れの橋跡」がある。詳細は下の案内板の写真をクリック。

「別れの橋跡」の案内板(クリックすると拡大) 江戸の外れ「かねやす」

その先の信号が「春日通り」の「本郷三丁目」交差点である。交差点の右向かい側角に、「本郷もかねやすまでは江戸の
内」と川柳で歌われた「かねやす」がある。

Pかねやす
 「本郷も かねやすまでは江戸の内」と書かれたパネルが掲げられているが、これは、「この先は田舎だよ」と山の手
をからかった江戸っ子の川柳である。現在は洋品店だが、もともとは享保年間に兼康祐悦なる人物が「歯磨き粉」を売
りだした老舗の店である。夏目漱石の三四郎にも出てくる店である。

本郷三丁目交差点を左に曲がり、東に歩く。400m程先、左側に「春日局の墓」がある「鱗勝院」がある。

鱗勝院山門 春日局の墓(貫通した穴がある)

Q鱗勝院(春日局の墓)
 鱗勝院は徳川三代将軍家光の乳母春日局の菩提寺として知られている。寛永元年(1624)春日局の願いによって創建。
局はここで余生を送り、その没後境内に墓地が造られた。墓は、無縫塔(たまご型の塔)で、その上部は四方に穴が貫通
していて、死後も正道を正すといわれている。
 当時はお寺の周囲にカラタチの生け垣をめぐらせていたので「からたち寺」と親しく呼ばれていたそうです。夏目漱石の
小説「三四郎」にも「からたち寺」の名が出てくる。
 明治二十年(1887)には井上円了が、この寺の境内の一棟を借りて東洋大学の前身である「哲学館」を創立した。その
ため「東洋大学発祥之地」でもあり、碑も建てられている。

鱗勝院をでて、坂を下ると「湯島天神入口」の交差点に出る。信号の右側に「天満宮」の大きな鳥居が立っている。
鳥居をくぐると、その先左側に湯島天満宮の入口がある。

湯島天満宮の入口 境内では結婚式が行われていた

さすが、学業の神様だけあって、ものすごい量の絵馬がかかっていた。今日は、大安吉日であるので、神社では結婚式
が行われていた。
やっと、本日の探訪は終了である。一息入れたあと、本日のゴール「地下鉄千代田線湯島駅」に向かう。

午後3時、無事に「地下鉄千代田線湯島駅」に到着。このあと、西日暮里駅に出て、山手線で池袋に向かう。
池袋駅で下車して全員でお茶して解散となった。やれやれ、お疲れ様でした。

                                                             投稿担当 原 善明


9月26日 史跡探訪第3回目 高麗神社・聖天院・巾着田付近を訪ねて


                                                                           巾着田の彼岸花
日時:2014年9月26日(金) 晴れ
参加者数:13名

今回のコースは、
高麗川駅(スタート)−高麗神社−高麗家住宅−聖天院−巾着田−河原で昼食−高麗郷古民家(ゴール)
コース地図は コチラ を参照下さい。

JR川越線高麗川駅に集合すると、そこには我々と同世代の同じスタイルのグループが溢れていた。準備体操をする
グループ、大声で点呼を取るグループ それぞれに明るい笑い声と元気一杯の様である。

本日も天気晴朗 絶好の探訪日和に恵まれた。 地元育ちのJY嬢、同S氏の先導で高麗神社へ向けて高らかに出発
した。時刻は10時である。

高麗神社の鳥居前にて

他のグループが駅前の大通りを進む中、我がグループは
近道と思われる民家や幼稚園脇に歩を進めた。

朝の光を浴びて皆意気軒昂の足取りである。しかし10分
20分と傾斜の強い登り坂が続く頃には歩速は次第に落ち
て、息切れすら覚える人もちらほら。

高麗川にかかる「出世橋」を渡ると、左手奥に「高麗神社」
が鎮座している。

神社の鳥居前で全員集合 記念撮影 ”ハイ チーズ!”で
にっこり出来ずに変に固まるのは私だけだろうか。


@ 高麗神社
平成28年は、武蔵国に高麗郡が置かれて1300年との事。この高麗郡は、かって朝鮮半島北部および中国東北部を
支配した高句麗の人々が渡来しこの地に住まい、高麗人(こまひと)と呼ばれたのが始まりと言われています。

6世紀の初め朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済の三国が並立していましたが、7世紀に入るとその三国は激しく争う抗争
時代へと突入します。この抗争の中で高句麗は新羅・唐連合軍によって668年に滅ぼされます。
滅亡2年前に高句麗の使者として天智天皇朝廷を訪ねたのが高句麗王若光です。この若光は国の滅亡もあり日本に留
まり、従五位下の官位を授けられています。

律令制度の整備の中716年に武蔵国の中に高麗郡が置かれ近隣諸国7か国の高麗人が集められました。その時若光も
この地を治めるべくやって来たと考えられています。

高麗神社鳥居 高麗神社

若光没後、始祖“高麗明神”として崇められたのが始まりで、霊廟高麗明神が現在の“高麗神社”です。高麗神社は高麗
王若光の徳を偲び、その霊を祀って建てられたもので、出世開運の神として信仰を集めています。
そのご利益を念じつつ(今更何を?)賽銭少々 二拍一揖。

江戸時代末期から明治初年に建てられた母屋・客殿・納屋土蔵の21棟を石垣が取り囲む堂々かつ神々しき景観は素晴
らしいものです。

A 高麗家住宅
「高麗家住宅」は代々の神主(高麗家の子孫)の住居であるが、実に質素であり少年時代にいつも見ていた庄屋さんの家
とよく似ており、郷愁を憶えるものだった。

高麗家は高麗神社の神職を代々務めてきた旧家で、住宅は境内の隣接地にあります。
建築年代は、慶長年間(1596〜1615)と伝えられています。建物は茅葺きの入母屋造りの平入りです。東日本の民家の中
では古い形を遺している極めて重要な例とされ、昭和46年(1971)6月に国指定重要文化財に指定されました。

高麗家住宅の門構え 高麗家住宅

次に向かうのは聖天院である。聖天院は高麗神社の西側400m程にあり、丘の中腹に建てられていて、道路から良く見
える。

B 聖天院(しょうでんいん) 高麗山聖天院勝楽寺
高麗氏系図に記されている僧・勝楽が 751年に亡くなりその菩提寺として聖雲(若光の子)と高麗氏3代目弘仁が建立し
た高岡廃寺が現在の聖天院に繋がるものと言われています。

参道から見た聖天院 立派な聖天院山門

高麗山聖天院勝楽寺と号し高麗郡の始祖である若光の墓もあり高麗王若光とその一族との深い関わりが窺われます。

聳え立つ聖天院の偉容は見る者に威圧感さえ与える実に堂々たるものです。山門を(有料であり料金所でもある)潜り
抜けると石垣が聳える通路を巡りやがて急傾斜の石段が待ち受ける。

高麗王若光の墓 聖天院前にて

息を切らして本堂にたどり着くとそこに広がる景観は秩父の山並みはじめ武蔵野平野を一望する一大パノラマが広が
ります。聖天院でも集合記念写真をパチリ。何だか人数が少ないようだが?

さて次は、いよいよお楽しみの昼食が待たれる「巾着田」を目指して移動開始だ。
歩を進めること40分、巾着田の曼珠沙華が見えてきた。入場券は日高市在住のJKさんの寄贈であり総勢13名分は
大助かり 感謝 謝謝。
入場するや否や昼食の準備よろしく「高麗鍋」を探し求めて
人波をかき分け右往左往したが見当たらず。

パンフレットの案内にのせられ大いに期待していた、おにぎ
りと高麗鍋の夢は叶わなかった。

しかし 石くれだった河原に腰をおろしコンビニで求めたおに
ぎりとウーロン茶はすききった腹には十分美味。

更なる幸せはJY嬢お手製の漬物の数々。きゅうり かぶ ゴ
ーヤの漬物の美味いこと、おにぎりとの相性もこの上なく近年
こんなにも楽しくて美味しい食事があっただろうかと思われた。

この漬物のふるまいで皆が至福の昼食に遭遇し、今日の道中記が笑いの渦となった。加えて食後のデザートに大きな
茹栗が配られるに至っては もう たまらない(^^♪ 

B 巾着田(きんちゃくだ) 巾着田曼珠沙華公園
昭和40年代後半に巾着田の用地を日高市が取得し、藪や竹林、あしに覆われた現地を整地したところ、9月頃一斉に
曼珠沙華が咲き揃い多くの人の関心を呼びました。秋の彼岸には500万本の曼珠沙華が赤い絨毯を敷き詰めたように
咲き渡ります。

清流高麗川が蛇行した形が巾着に似ていることから巾着田と呼ばれるようになった。春には“菜の花”秋には“コスモス“
の群生が楽しめます。(日高市 巾着田ガイドブック)

巾着田の曼珠沙華(彼岸花) 巾着田の曼珠沙華(彼岸花)

こうして曼珠沙華を満喫した公園を後にし、県道15号(川越日高線)にでる。天神橋と鹿台橋の間にある最終訪問先の
「高麗郷古民家」を訪ねた。

C 高麗郷古民家 (旧新井家住宅)
敷地内には、江戸時代末から明治時代前半に建てられた母屋と客殿を中心に納屋と2棟の土蔵があり 通りに面した
箇所には人目を引く石垣や白壁が築かれ、高麗郷の美しい景観を創り出しています。

高麗郷古民家の石垣と白塀 高麗郷古民家

敷地内に「シラカシ」(白樫)と呼ばれる古木があり往時を偲ばせます。鶴瓶井戸、納屋、竈と土間など時代を感じるず
っしりと重量感のある古民家です。

時刻は15時30分。今日の楽しい探究訪問の旅は終わりました。将に≪渡来から未来へ≫の高麗の里と秋の妖花 
曼珠沙華の園を満喫した一日でした。

                                                        投稿担当  前田 静男


9月16日 史跡探訪第2回目 吉見町の史跡を訪ねる

日時:2014年9月16日(火) 快晴
参加者数:11名

今回のコースは、
吉見百穴(スタート)−岩室観音−松山城址−大沼−天神沼−息障院−横見神社−フレンドシップ・ハイツよしみ(昼食)
−八丁湖−黒岩横穴群−吉見観音(安楽寺)−北向き地蔵−吉見百穴(ゴール) の周回コースである。
コース地図は コチラ を参照下さい。

8月実施予定であった第2回目探訪が順延され本日となった。今日は絶好探訪日和になった。
快晴に恵まれワクワクドキドキのスタートとなる。

吉見百穴・埋蔵文化センター前からのスタートであるが、参加者全員が見学経験有りとのことで、百穴・埋蔵文化セン
ターの見学はカット(入館料節約?)となった。9時30分スタートする。

@ 吉見百穴
古墳時代後期(6〜7世紀末)の横穴墓。丘陵の台地斜面を掘削した墓群。
現在確認される横穴の数は219基といわれる。

吉見百穴入口にて 吉見百穴

吉見百穴から緩やかな登坂を数百メートル先にある岩室観音に向かう。
この佇まいは時代を感じさせるに十分な寂穆としたものである。

A 岩室観音
弘法大師が観音像を彫刻しこの岩室に納めたと伝えられる。
ここにある石仏群は四国八十八箇寺を模したもので、ここにお参りすれば四国八十八箇寺詣でと同じ功徳があると
されている(ナカナカ簡便)。

岩室観音堂 観音堂の2階拝殿

岩室と同じ丘陵に残る松山城跡に歩を進める。歩を進めると言ってもこの城跡への登り下りは難敵である。
皆様足元にはとくとご注意あれ。

B 松山城跡
比企丘陵の先端に築かれた北武蔵地方屈指の平山城。雑木林におおわれた城跡は本丸・物見櫓等の平場や空堀り
が状態良好に保存されています。平成20年(2008)「比企城館跡群」の一つとして国指定史跡となる。

松山城址本丸跡 松山城址の碑

松山城跡を後にして、足元注意の下り坂に歩を進めること10分。平坦な小道に出て大沼(百穴湖)、天神沼を眺め
ながら点在する民家の細道を縫いながら山根古墳・久米田神社の森を友として息障院へ。

大沼 天神沼

C 息障院(伝範頼館跡 でんのりよりやかたあと)
息障院一帯が源範頼の居館跡と伝えられている。範頼は源頼朝の弟で平治の乱後、岩殿山(岩殿観音)に逃げ延び
成長した。源頼朝が鎌倉で勢力を得て以降、その地域一帯を御所と呼び吉見氏と称し範頼から5代の間この地に住
まいしたと伝えられている。  県指定旧跡

息障院 息障院前の空堀跡

往時を偲ばせる息障院を後に、横見神社を経て豊かに実る田園風景、目を上げれば遥かに秩父連山を望みながら

  ほっとする  秋風吹いて  穂が乱れ
  輩が     往けば耀く  稲穂道
  友と行く   取り巻く畦道に  輝る穂波


息障院から500m程北に歩くと、右手にこんもりとした鎮守の森が見えてくる。ここに横見神社がある。

D 横見神社
横見神社は和銅年間(708-715)の創建と言われているが確証はないようである。この神社は吉見町の町名のルーツ
といえる神社である。この地は、平安時代から明治二十九年までは「横見郡」に属していたが、以降比企郡吉見町と
なる。今日では「横見」の名を残しているのはこの神社だけである。
かって、「横見」を「吉見」と書いて「よこみ」と読ませていた時期があったようであるが、長い年月の間に「よこみ」が
「よしみ」と呼ばれるようになったようである。

横見神社鳥居 横見神社(古墳の上にある)

丁度12時に、本日の昼食を予約しておいた「フレンドシップ ハイツよしみ」レストランに到着。
皆がテーブルに向かい お茶を入れる者 弁当を配る人 それぞれが準備作業に掛かった 将にその時、突如として
大激震「震度5!」の大地震に見舞われたのです。

茶碗を片手に配膳中の者はよろめき、椅子にかけてる人も膝を震わせる大騒動のとんだ一幕。それでも皆、地震を肴に
楽しく食事を頂けたのは幸いでした。

フレンドシップ・ハイツよしみ 食事前の様子 この後地震!

午後のスタートは八丁湖巡りの人、レストラン周辺散策の人に分かれて始まりました。

E 八丁湖
湖周約2キロ。よく整備されておりウォーキングやジョギングコースも設定されている。さざ波と周りの木々は緑豊かな
公園である。春は桜、秋には紅葉が楽しめる。驚いたのは個人資産との由。

  八丁湖  巡る足取り  秋の小波

公衆トイレのある場所から少し、山側に登った所に「黒岩横穴群」がある。

八丁湖を巡る 八丁湖の「黒岩横穴群」

F 黒岩横穴墓群
古墳時代後期〜終末期(7〜8世紀初め)に造られたと考えられています。
現在は30数基の横穴が確認されるのみですが、一帯の斜面には、吉見百穴を超える500基以上が埋蔵していると
推測されているようです。

案内板が無ければ近所の裏山のように見えた黒岩横穴群を後に吉見観音へ

G 吉見観音(安楽寺)
岩殿山安楽寺は坂東11番の札所で古くから吉見観音の名で親しまれてきた。1200年程前に行基菩薩が観音像を
安置したのが始まりとしている。

先の息障院でも触れた源範頼が幼少期に身を隠した寺としても知られています。現在の本堂は約320年前の寛文元
年に再建されたものです。その様式は禅宗様式と和様式を交えた五間堂の平面を持つ密教本堂で、内部の色彩文様
と共に江戸時代前期の様式を保持している。
また三重塔は約350年前の寛永年間に築造され本堂同様江戸前期の様式を保持し堂々たる佇まいである。

吉見観音 吉見観音の三重塔

吉見観音で無病息災などそれぞれがお願いごとを祈願した後終点に向けた約3キロのウオーキングを開始。
途中 八坂神社・北向地蔵・龍性院などの史跡を覗きながらの散策になった。

八坂神社 北向き地蔵

周りの稲田は刈り入れが終わり稲わら干しを済ませたものや、刈入れ前で倒れかかったものもある。
いずれも秋の日差しを浴びて清々しい。

ややお疲れ気味の者もいるが総じて元気。いよいよスタート地点(探究の旅の終点)へ。
14時15分 無事スタート地点の吉見百穴・埋蔵文化センター前に到着する。

探究の小旅行は終わったが、吉見百穴近くのマクドナルド店へ移動し本日のあれこれを賑やかに 釜櫃しく繰り広げ
て散会。次が待ち遠しい♪♪

                                                        投稿担当  前田 静男


6月27日 史跡探訪第1回目 高坂岩殿観音と周辺の史跡を訪ねる

6月27日(晴) 「てくてく史跡クラブ」第1回目探訪会が行われました。
部員皆さんの要望で、まずは東松山市周辺の史跡を訪ねようと言う事になり、その第一弾として「高坂地区の史跡探訪」
を行うことになりました。

今回のコースは、自分の足で見て回るというポリシーに従って、コース地図に示すように、10km程のコースを設定しま
した。高坂駅からバスに乗り、「大東文化大学前」で下車。ここから徒歩で探索をスタートしました。
コースの探訪先は以下の通りです。 わずか10km程で、これだけの史跡や見所がありました。

「大東文化大学前」−埼玉平和資料館−六面幢−岩殿観音堂−鐘楼−百観音−仁王門−岩殿観音参道−阿弥陀堂
の板石塔婆−弁天池(鳴かずの池)−足利基氏館跡−米山薬師堂−えんま堂−彫刻の道−高坂駅−(昼食)−東光
院−東光院下の泉−高済寺下の泉−高済寺−石橋と石橋供養塔−八王子道の道標−「高坂駅(ゴール)」   

コース地図(地図をクリックで拡大) 埼玉平和資料館

平和資料館で、戦中戦後の歴史を学び、資料館横にそびえる展望台に登ると、この時期にしては珍しく肉眼で「東京ス
カイツリー」がカゲロウのように見えていました。
物見山公園を散策しながら、岩殿観音の入口に出る。岩殿観音に行く前に、県史跡の「六面幢*1」に寄ることにする。

 *1:「六面幢」の幢(どう)の原義は仏堂を荘厳する「はた」の一種で、方形または多角形(六角、八角など)の笠
    の各辺から布を垂らしたものである。この形を模して石で造立したものを石幢という。(ウィキペディアより)

大東文化大学の北側辺りからそこそこ下ると、辿り着いた僅かな平地にひっそりと六面幢が立っています。
左側崖にある洞窟は、比企能員の妻が隠れたという言い伝えが有ります。

県史跡「六面幢} 岩殿観音堂

来た道を戻り、岩殿観音に行きます。大イチョウの根っこの凄さに驚きながら、岩殿観音を参拝しました。今年は丑年
で、観音さまは総開帳の年にあたります。岩殿観音の本尊「千手観音」も開帳されていました。
境内には、絵馬堂、四国八十八箇所の石仏八十八体などが有ります。境内西端に県指定有形文化財の梵鐘と、市指
定有形文化財の鐘楼があります。

鐘楼と梵鐘 2体組で並ぶ百観音

鐘楼の裏から、西側の高台に登ります。ここには、西国33観音、坂東33観音、秩父34観音合わせて百観音の石仏
百体があります。斜面に数段に分けて2体組で並んでいます。

この高台の頂上にはお地蔵さんが2体あり、その前に置かれた石に直径15cm程度の穴が空いてます。言い伝えに
よると、この穴から地獄からの声が聞こえるそうです。
早速、Mさんが穴に耳と近づけました。”Mさん聞こえましたか?”、”まだ、お迎えには早い!と言ってました。”(笑

お地蔵さんと地獄への穴 仁王像 正法寺

参道階段の途中に仁王門と運慶作と言われる仁王像があります。仁王像を軽く叩いてみるとプラスチック製かな?
という音がしました。これ、本物かな・・・・?。

門の北側に正法寺(しょうぼうじ)があります。山号は巌殿山。坂東三十三札所の十番札所である。
岩殿観音は、正法寺の観音堂なのです。

最近、屋号を復活させたという長い参道を辿ります。昭和の初期まではかなりの賑わいであったと言われていますが、
現在は、宿屋もお店も無くなっています。ただ1軒、「畳屋」屋号が現在も畳屋をやっているようです。

阿弥陀堂の板石塔婆 弁天池(鳴かずの池)

九十九川にかかる「惣門橋」を渡ると参道の外です。その先、左側斜面の墓地の中に、市内で二番目に高いという
「阿弥陀堂の板石塔婆」があります。

その向かい側の池は、坂上田村麻呂の悪龍退治の伝説がある「弁天池」で、別名 「鳴かずの池」と呼ばれています。
本当にカエルの声はしないかな〜と、皆さん耳をすましていました。
池の中にある弁天堂の弁天様は、紅をさしている可愛らしい弁天様です。何故か、カエルの置物が沢山ありました。

左側に「高坂カントリークラブ」の丘陵を見ながら東に行くと、左側斜面に「足利基氏館跡」があります。
西側の端には空堀と土塁が、東側には空堀跡が残されれています。しかし今は、標柱と案内版があるだけです。

この頃になると、日差しが強くなり日陰を選んで歩くようになってきました。皆さんの足も重くなってきたようで、前と後
の間が開くようになってきた。

足利基氏館跡 米山薬師堂

関越沿いにある「米山薬師堂」では、体の悪いところが良くなりますようにと、皆でお参りをしました。
この先、高坂駅までは高坂の彫刻通りとなっていて、高田博厚氏の彫刻が32点並んでいます。

高坂駅には、12時を少し回った時間に到着。早速、本日予定していた蕎麦屋「朝日屋」に入る。
丼からはみ出す程大きな特大エビが2匹乗っている天丼を注文する。これは、お薦めである!
1時間ほどゆっくりしてから、重い腰を上げて午後の探訪にはいる。

まずは、高坂台地の東端に出て、比企33観音の18番札所になっている「東光院」に行く。
つづいて、東光院裏の崖下にある 「東光院下の泉」に寄る。この泉は現在でもかなりの水量で湧いているが、泉には
鯉が飼われているので、さすがに飲む気にはならない。

崖線に沿って北に行くと「高済寺下の泉」に出る。この泉は一時埋め立てられそうになったが、何とか残されたもので
ある。東光院下の泉、高済寺下の泉は、「高坂七清水」と呼ばれている泉群の内の2つである。

東光院下の泉 高済寺下の泉

高済寺(高坂館跡)に寄る。ここは、本日の目玉の一つで、かって江戸氏の流れをくむ高坂刑部の館があったと伝えら
れる場所である。その後、名門扇谷上杉一族の出といわれる加賀爪氏の館となった。

現在も、館の面影が残されていて、高済寺の西側には高い土塁が残り、土塁の外側にはかなりの規模の空堀も残って
いる。土塁の北と南の端は古墳を利用した櫓台だったようだが、今では、北の櫓台跡には「加賀爪氏累代の墓」、南の
櫓台跡には「城山稲荷の祠」が建てられている。
この様な、立派な土塁や空堀などを見ると、当時の権力者の力が伺えるようである。

高済寺北の櫓台(加賀爪氏累代の墓) 石橋

続いて高済寺北側の崖線下にでる。ここには、「石橋」と「石橋供養塔」がある。
この石橋は「八王子・日光道」が松山方面に抜ける「高坂の渡し場」の手前の水路に往時の姿のまま残されているもの
です。材質は板石塔婆と同じ緑泥片岩で、長さは約370cm、幅約150cmの一枚板で、裏側には世話人12人の氏名が
刻まれている。

また、石橋供養塔は橋の新設や架け替えに際し、橋が長く使えるように、通行人の安全を祈って造られたものである。
冷たい風が吹き出してきて空模様がおかしくなってきた。

この石橋に続く道が、かっての「八王子・日光街道」である。この道は八王子同心が交代で日光の警備に着くために歩
いた道です。
高坂の駅の方に道をたどるとT字路に突き当たる。この右側に「塚田屋」があり、塚田屋の南側かどに立派な「八王子道
の道標」がある。反対側には拝礼供養塔もある。

ここで、雨がパラツキ始めた。一応、本日の探索は全て終わったので、皆急いで高坂駅まで戻る。
3時前に、全員事故もなく、第1回目の探訪は無事終了した。お疲れ様でした。

                                                           担当幹事 原 善明


7月19日 専科6期「てくてく史跡クラブ」の紹介

史跡を訪ね、歴史を学ぼうという同好の氏、15名が集まって「てくてく史跡クラブ」を結成いたしました。
自分の足で歩いて、史跡や神社・仏閣を訪ねようというのが、クラブ名の由来です。
歩くことで、路傍の石碑・石仏と出会い、古(いにしえ)の人々の文化や生活に思いを至します。
また、道すがらの風景は、心を癒してくれる一服の清涼剤となることもあります。
これから、みんなで歴史探索の旅を始めたいと思います。
●活動方針
 ・クラブ員を3班に分け、順番に史跡巡りの幹事を行う。
 ・登校日のクラブ活動は、探訪先の提案と絞り込み、また、探訪先に関するの座学勉強会をおこなう。
 ・史跡巡りは、原則授業のない週の金曜日とする。但し、必要に応じて金曜日以外にも実施する。
 ・当クラブは、県内の探訪を主目的とするが、要望があれば県外にも広げる。
 ・探訪先の名物や美味しい食べ物を楽しむ。
私達は、「楽しく歩き、楽しく学び、美味しいものを楽しもう」をモットーに活動致します。

史跡クラブの皆さん(平和資料館前にて)

                                           てくてく史跡クラブ部長 木沢健治


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