●事務局だより●


事務局からのコーナーを設けました。当面、エッセイ形式で掲載していきます。どうぞよろしく。

早坂泰次郎の言葉〜『人間関係学序説』のタイトルに込められた思い

 最近、IPR関連書籍を整理していたところ、1981年に川崎書店から発行された【新版 現代人の心理学 早坂泰次郎 編著】が目にとまった。「編著」なので、早坂泰次郎自身の執筆は数章に限られる。それを読み進めていたら、最後の]V章に興味深い文章を見出した。まずは、それを掲載したい。


]V 人間理解とは―終章に代えて [早坂泰次郎]

 本書の各章を通して、読者は心理学にどのようなイメージを抱いたであろうか。心理学は人間理解をめざすといいながら、学べば学ぶほど心理学から人間に関して1つの統一した人間像を得ることは困難になる、という感じを抱く人も少なくないであろう。これはもちろん、心理学が乗りこえなければならない大きな困難であるが、そこには1つの積極的な意味がないわけでもないことを最後に指摘しておきたい。

< 中 略 >

…すなわち、私にとってどんなに確実に感じられる客体の実存も、相互主観的に確かめられなければ、客観的に確実ではないのである。
 私の、客体との主観的出会いは、私以外の人びととの出会いによる相互主観化のプロセスを通じて、はじめて客観的になる。しかしこのことは、逆にいえば、私の対象の意味の把握が、それを通じての客体との主観的出会いの体験が鮮明でないかぎり、相互主観化の、つまり客観化のプロセスもまた、あいまいにならざるをえないことを意味している。真に主観的である―主観主義的であることではない―ことは、客観的であることの、必須の前提である。主観的であることになしに、相互主観的であることは不可能なのである。
 こうした主張は、しばしば誤解されるように、エンジニアリングやコンピューターや数量的表現のもつ合理性を、「客観性」の根拠とみなしがちな現代社会の風潮を否定し、背を向けることではない。I章以来、われわれは折にふれてそのことを明らかにしてきた。この書物は人間理解に関する著者たち1人ひとりの主観的認識の、客観化の試みの証しとして生まれた。その意味ではこの終章は終章であるとともに序章でもあるわけである。



 この書は、『人間関係学序説』が発行された1991年より10年ほど前に発行されたものである。また、人間関係学としてではなく、現代人の心理学としてまとめ上げた書ではあるものの、どちらも「人間理解」の学問と位置付ければ包括して捉えても間違いではないであろう。
とすると、]V章の最後に書かれた「序章でもある」との意味は、如何に人間理解が奥深く、難しいかを物語っていると言える。それでも、それを敢えて書き示すことにより、人間一人ひとりの理解の重要さ、その理解の深淵な奥深さを真摯に捉え、学究しなければという気概が感じられるのだ。


2022.09.13
IPR現象学研究会 事務局


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