青春日記 : 「英語よもやま話し」

小学校の時、東京から北海道に引っ越しました。
その時、ローマ字をすべて、一切忘れてしまいました。

神戸の中学校に入学してから、英語の授業が始まりました。
先生は細ぎすのお年を召した女性で、いつも和服姿でした。

先生はいつも、英語で話しかけ、生徒たちに英語に親近感を持ってもらおうと、お考えのようでした。
1学期の成績は良かったのですが、2学期からは、だんだん分からなくなってきました。

そこで、友達の紹介で、英語の塾に行こうと決心しました。
塾の先生は、神戸市内の貿易会社に勤務されている方だったと記憶しています。
その塾に行きだしてから、やっと、日本語と英語の違いが日本語を通して分かるようになり出しました。

中学校3年で、大阪に引越した後も、近くの京都市外語大学生がアルバイトでやっていた塾にいきました。

そのおかげかどうか、大阪市の英語も模擬テストで2位の成績をとりました。

高校に進学し、(スレスレで通過)今度は、English Speaking Society ESS部に入部しました。
テスト用紙には書けても、いざ英語で話すとなると、なかなかうまくいきませんでした。
2年生になって、投票で、部長になってしまいました。
他校との交流もあり、私が挨拶をしなければなりませんでしたが、しどろもどろで、みんなの嘲笑を買ってしまいました。
その交流会のあと、部員からつるしあげをくいました。
悔しかったです。

大学に進み、アルバイトをして、貯めたお金を元手に、イギリスへ行こうと思っていました。アルバイト先の新聞記者のひとの関係者がイギリス留学をしたというので、その人からイギリスの住所を聞き、英字新聞の小さな広告で、格安航空券(南回りのパキスタン航空)を手に入れ、なんの疑問も抱かず羽田を旅立ちました。

その頃、五木寛之さんの「青年よ荒野を目指せ」などという本があり、高校時代の悔しさを晴らさんと、海外をめざしたのでした。

羽田で、パキスタン航空の旅客機に乗ったとたん、自分のボストンバッグが見当たらないことに気づきました。そこで、スチュワーデスに「わたしのボストンバッグが見つからない。」と英語で言おうとしましたが、英語が出てきません。マイ ボストンバッグとだけしかいえませんでした。
なんと find out ファインド アウト という英語すら出なかったのです。

イギリスのヒースロー空港に到着し、バスで、何とかウォータールー駅まで行き、サザンプトン行きの列車に乗り、タクシーで、貰った住所の家までようやくたどり着きました。

ドアをノックして、日本からやってきました。と告げると、そのおばさんは、困った顔をして、主人が昨年亡くなったので、今は、外国人留学生を受け入れてはいない。
といったらしい様子で、その言葉自体はっきり一語一語解かってはいませんでしたが、とにかくダメだということでした。
下宿先の許可も連絡もしないで、イギリスまで行ってしまったのです。
若いからだったのか、馬鹿なのか。

息子さんが、安宿まで、送ってくれました。
明日なんとか他を当たってみるということでした。

宿は2人部屋で、既に中年の男性がいました。
その人は、ロンドンの下町のコックニー アクセントという、オーストラリアやニュージーランドで話されているひどい訛りで、私に話しかけるのですが、全くわかりませんでした。
ただ、一言、ディボース(離婚)という言葉だけわかったので、ああ、この人はりこんして、来たんだなと思いました。そのほかはあまり解からず、生半可な相槌を打っていました。


イギリスでの第1夜が明けました。

安宿とはいえ、こじんまりとした、白を基調としたダイニングで、朝日の木漏れ日が差し込んでいました。

初めての朝食です。

さすがイギリス、定番のベーコンエッグ。

午前中に、留学生を引き受ける団体の事務所に行きました。

デスクの向こうには、金髪のキリッとした女性。インタビューの後、2、3箇所電話を入れてもらい、受け入れ先がきまりました。

サザンプトンはイギリス南部の港町です。

車に乗せてもらって行ったので、詳しくは分かりませんが、山の手の方でした。

迎えてくれたのは、笑顔の素敵な、おばさんでした。名前をメアリードハティ さんといいました。

ご主人はイギリス中部の街にある建設会社の重役さんで、週末だけ帰って来ていました。

子供は4 人いまして、長女、次女、三女、長男の順でした。

ドハティ さんは、国語(英語)の教師を以前していたことがあって、変な抑揚(イントネーション)が無くて、とても聞き取りやすかったです。

でも、考えてみると、わざとゆっくり、丁寧にしゃべってくれたのかも知れません。

ドハティ さんに、私の今までの経歴や英語をしゃべれるようになりたいと、渡英の目的を話しました。

それから、しばらくは午前中1〜2 時間の講座(レッスン)があり、午後は日本から持ってきた文法の問題集を初歩からもう一度やり直すという生活が続きました。

休みの日には、近くの広場(サンクチュアリィ)鳥獣保護区にいっては、ドハティさんの長男とサッカー(イギリスでは、サッカーのことをフットボールといいます)をしたり、ボール投げをしたりして、一緒に遊んでいました。

日本を出たのが9月の中下旬だったと記憶しています。

未だ、そんなに寒くもなく、緑もそこかしこにあり、町並みや、公園の広場はとでも綺麗でした。

そんな日々が1ヶ月ほど続いたでしょうか。

ドハティ さんから、外国人留学生のための英語の授業がサザンプトン大学であるから、行ってみないかといわれ、断る理由もないので、参加することにしました。

授業の内容および、テキストは日本の中学校程度のものでした。

そうすると、日本は内容的にはだいぶ進んでいると感じました。しかしながら、こと話すとなると別問題です。

そのクラスには、いろんな国から英語を学びに来ていました。

ドイツからの女性、スウェーデンからの女性、デンマークからの女性、などなど。

どうしてか、男性のことは記憶にないのです。

ドイツの女性は、ドイツ人らしく、なかなかしっかりした人でした。

スウェーデンの人は、気は小さいが、優しそうな人でした。

デンマークの人は、小柄で、はにかみ屋さんでした。

クラスで一度、国会議事堂に日帰りの修学旅行にいきました。

先生とクラスの全員で行き、案内係の人が、先生に「生徒のひとたちは私の言うことが分かるのでしょうか?」と訊きますと、先生は胸を張って「ハイ、モチロンです。」と答えていましたが、私には案内係の人の言葉はチンプンカンプンでした。

クラスの試験があるという日が近づいていました。

気候はだんだん寒くなり、緑から黄色の世界へと変わっていきました。

そんなある日、いつもの広場で走ったり、遊んでいましたが、少し風邪気味になりました。

そこで、日本から持参していた風邪薬と頭痛薬とを両方一緒に飲みました。

後で、聴いた話ですが、私が夜中、辞書を片手に持って、ドアを開けようとしていて、私は、クラスの試験があるから、行かなくちゃ、行かなくちゃ、行かなくちゃと玄関ドアのノブをガチャ、ガチャと廻していたそうです。



話は、相前後しますが、ドハティさんの家に、何年来の友人のような、年は20代後半のイタリア人の女性が、今年もやってきました。その人は、小柄で、目がとても大きく、黒色(ダークアイズ)で、片方の脚が不自由な人でした。ところが、この人は喋り方もソフィア・ローレン風でチャキチャキのローマっ子?のようでした。バイタリティに溢れ、自分の障害なんか一切気にせず、大きな目に力が漲っていました。

ある日、家に帰ると、門には黒塗りのシトロエン(フランス製)がとまっていて、ドアを開けて入ると、居間にはお客さまがいる様子。

ドハティ さんの喋り方が普段とは違います。

「ただいま」というと、ドハティさんは、普段より(よそいきの)声音が高い声で、「ヒロさん、フランスからお客様です。ご挨拶をなさいませ。」てな、調子でいうものですから、私も「ハウ ドゥ ユ ドゥ。 日本から英語を学びに来ました。」と言ってお辞儀をし、笑顔で愛嬌をふりまいて、長居は無用と、その場を退散しました。

キッチンにいたイタリア人の人に、一体何事?と訊くと。

フランスの航空会社でエアー・アフリック(アフリカ航空)というのがあって、そこの会社で、グランド・ホステス(地上勤務)をしている人が、エアー・ホステス(スチュワーデス)になりたいので、英語を学びに、両親ともども挨拶に来たのだと。

隙間からもう一度覗くと、フランス人の紳士が深く、淑女が浅くソファーに腰を掛け、横には髪の長い金髪のパリジェンヌのような、妖精のような人が座っていました。

そうこうしているうちに、ご両親は車で、ドーバー海峡を目指して帰っていきました。

妖精のようだと思った人は、後で、ゆっくり見てみると、実際は大柄で、肩幅が広く、がっしりとした体格でした。しかし、鼻筋がシューーーと伸びて、目は大きく、澄み切った湖のような薄い青色をしていました。

なんだか、私の心がゆっくりと、でも着実に動いたような気がしました。(ああ、青春!)

それからは、家の中に大きな妖精がいるものですから、ドハティさんの方も忙しくなり、私は私で、サザンプトン大学に行きました。

そんなある夜、ドハティさんが今晩は夜の時間が1時間長くなるといい、家中の時計を1時間前に戻して廻りました。これが、冬時間の始まりの日でした。

ホームシック

クラスの試験

大きな妖精で

心が不安定だったのかも知れません。

・・・・・



真っ暗な闇の中、千メートルの頂上へ浮き上がったかと思いきや、

今度は千メートルの谷底へ、また千メートルの頂上、、、谷底、、、頂上、、、谷底、、、、、

そんな感覚に襲われながら、救急車で病院へ。

目を開くと、灰色がかった白い天井、私は白いシーツにつつまれ、ベッドの上。

これから、英語の勉強が、大英帝国のコモンウェルス(連邦共和国)「君臨すれど、統
治せず。」からこられた看護婦さんたちと始まったのでした。



さて、入院生活が始まりました。

微熱がつづき、窓の外は曇り空。

遠くに見える高いポプラの樹から、木の葉がみるみるうちに少なくなっていき、

何だか、「最後の一葉」のお話のようで、心細い日々が続きました。

病名は「マナジャイティス」、辞書で調べると、「脳髄炎」。

何で、こんな病気に。

そういえば、調子が悪くなる前に、居間のソファーに座り、テレビを観ていたら、テレビの側の窓際に置いてある植木鉢が、アルバイトをしていた新聞社の記者さんの顔になって、微笑んでいたことを思い出しました。

手術はしなくてもよいとのことで、投薬で治そうとのこと。

看護婦さんはアフリカから来た人たち。

みんな真面目で、厳しいけれど、心優しい方たちばかりでした。

そんな折、クラスの3人娘(ドイツ、スウェーデン、デンマーク)がお見舞いに来てくれました。

いろいろ話をしているうちに、下宿先にフランスからの女性(大きな妖精)がいると、いいましたら、みんな口をそろえて「フランスの女性はどうしようもない。」と表情も露に非難ゴウゴウ。何か歴史的なものを感じました。

ところで、入院費用はどうなったと思いますか?

すべて無料でした。

これは、社会保障が充実していて、「ソシアル・メディスン」という制度のおかげで、医療費は全額無料とのことでした。

大変助かりました。

2〜3週間で、熱もだんだん平熱に近づき、クリスマス前には退院できることになりました。



クリスマス・イヴには、長女のボーイフレンドも参加して、室内を飾りつけ、家族全員が集まり、クリスマス・プディングという大きな硬いケーキと、七面鳥をみんなで食べました。

その夜は、近くの教会にでかけ、賛美歌を歌いました。(実は、口をパクパクさせていただけでしたが・・・)

・・・・・

その頃、テレビでみたこと

アン皇女の結婚式。

クイズ番組で、日本人のLとRの発音がなかなか出来ないことを英語で、ラレーションという。

原油価格が暴騰し、日本では、トイレット・ペーパーがなかなか手に入らないということ。



年が明けて、そろそろ日本に帰る日が近づいてきました。

薬局で、薬を貰って、帰ることになっていましたが、薬局の店員さんは、それが無いと言っていると、ドハティさんに言いますと、ドハティ さんは、私に怒って、「自分の大事な、大事な薬でしょ。何でもっと強く言わないの。」と言われ、再度、薬局へ行き、店員さんに喧嘩ごしで、自分でもどうしてこんなに早く沢山しゃべれるのか不思議でしたが、口論をしていると、店長さんが出てきて、訳を話すと、奥から薬を持って来てくれました。

人間、必死になると、とてつもないことが出来るみたいです。

火事場の馬鹿力?

短期間では、ありましたが、密度の濃い留学体験でした。



中3の時に、両親が離婚し、父は高1の時に亡くなり、私にとっては、2番目だけれども、唯一の母が、羽田に迎えに来てくれていました。

病院での心細かった日々が走馬灯のように駆け巡り、母の姿を到着ロビーに見つけたとたん、涙が溢れ出し、肩を抱き寄せ、他の人の迷惑も帰り見ず、その場で立ちつくし、大泣きに泣いてしまいました。


これにて、お開きです。


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