鉄剣の銘文 |
表(57字) | 辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意冨比? 其児多加利足尼其児名弖巳加利獲居 其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居 其児名半弖比 |
解釈 | 辛亥年七月中、記す。オワケの臣、上祖の名は大彦。 其の児、宝の宿禰。其の児の名は豊韓別。 其の児の名は高橋別。其の児の名は田崎別。 其の児の名はハテヒ。 |
裏(58字) | 其児名加差披余其児名乎獲居臣 世々為杖刀人首奉事来至今 獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下 令作此百練利刀記吾奉事根原也 |
解釈 | 其の児の名は笠原。其の児、名はオワケの臣。 世々、杖刀人の首と為り、奉事し来たり今に至る。 ワカタケル大王の寺、斯鬼の宮にありし時、吾、天下を左治す。 此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記すなり。 |
解読 |
名前 仮名表記 |
読み 音訓混交 誤字あり |
なまってるなあ 読み換え 誤字あり |
漢字に変換 こんな感じ? |
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1 | 意冨比? | → | オフヒキ | → | オホヒコ | → | 大 彦 |
2 | 多加利足尼 | → | タカリソクニ | → | タカラスクネ | → | 宝(建) 宿禰 |
3 | 弖巳加利獲居 | → | てみカリワケ | → | テイカラワケ | → | 豊韓 別 |
4 | 多加披次獲居 | → | タカヒシワケ | → | タカハシワケ | → | 高橋 別 |
5 | 多沙鬼獲居 | → | タサキワケ | → | タサキワケ | → | 田崎 別 |
6 | 半弖比 | → | ハテヒ | → | ハテヒ | → | ハテヒ |
7 | 加差披余 | → | カサヒあれ | → | カサハレ | → | 笠原 |
8 | 乎獲居 | → | オワケ | → | オワケ | → | オ 別 |
獲加多支鹵大王 | → | ワカタキロ大王 | → | ワカタケル大王 | → | 雄略天皇説 | |
斯鬼宮 | → | シキノミヤ | → | 磯城の宮 | → | 欽明天皇説 |
系図 |
埼玉稲荷山古墳の鉄剣が発見された当時、早速この系図を作ってみました。
残念ながら、雄略天皇説も欽明天皇説もどちらも成立してしまいます。
どちらが正しいか。系図の比較からは判断できません。
鉄剣の系図
① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ オオヒコ─タカラ─トヨカラ─タカハシ─タサキ─ハテヒ─カサハラ─オワケ 天皇の修正系図 ① ② 崇神┬垂仁 ③ └景行┬成務 ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ └仲哀 ├──応神┬仁徳─允恭┬安康 神功 │ └雄略─清寧 ├履中─押羽┬仁賢─武烈 ├反正 └顕宗 └○○─○○─○○─○○┬継体─欽明 ├安閑 └宣化 |
古墳 |
稲荷山古墳と大仙古墳の平面プランが似ているという
指摘があります。
ごめんなさい。指摘した人の名を知りません。
大仙古墳を雄略天皇陵とみれば、無理がありません。
主従関係ゆえの古墳の類似と思われます。
雄略天皇説が正しいかと思われます。
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須恵器 |
稲荷山古墳と大仙古墳からは須恵器が出土しており、年代判定の参考になります。
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大仙古墳が雄略天皇(463~485)の墓なら、その年代は5世紀後半になります。須恵器の年代判定には、田辺昭三氏の編年(右)がよく用いられています。
稲荷山古墳の主オワケは、雄略天皇のもとで手柄を立て、471年に鉄剣を作ったと思われます。その後6世紀初めまで生きたのでしょう。雄略天皇よりも若かったか、長生きだったと思われます。
471年に30才だったと仮定すると、亡くなったのは511年なら70才になります。
471年は、鉄剣を作った年と考えるべきです。死んで埋葬された年は書かれていないので不明です。これを混同してはいけません。
年表にすると、下の通りです。
西暦 | 天皇 | できごと | 須恵器 | |
TK216 | ||||
439 | 允恭天皇 | |||
誉田御廟山古墳 | ||||
允恭天皇の死 | ||||
459 | 安康天皇 | |||
462 | 雄略天皇 | TK208 | ||
乎獲居の活躍 | ||||
471 | 稲荷山の鉄剣 | |||
大仙古墳 | ||||
485 | 雄略天皇の死 | |||
486 | 清寧天皇 | TK23 | ||
491 | 顕宗天皇 | |||
492 | 仁賢天皇 | |||
497 | 武烈天皇 | |||
502 | 継体天皇 | |||
このころ | ||||
510 | 稲荷山古墳 | TK47 | ||
乎獲居の死 | ||||
523 | 百済武寧王の死 | |||
526 | 安閑天皇 | |||
527 | 宣化天皇 | |||
531 | 欽明天皇 | |||
注意 須恵器の年代観は多少大まかにとらえた方がよいようです。確かなことは須恵器間の前後関係だけであり、年代観は他の資料との総合判断になるようですから。
参考 この時代には、百済に武寧王(在位501~523)というたいへん注目される王がいます。461年に日本で生まれた王で、日韓の考古学の世界では、何かと名前の出る王です。
参考まで2 須恵器の時代は金属製馬具なども年代判定に利用されるようで、研究が進んでいます。
白井克也氏のサイト(考古学のおやつ)の管理人著作集にこの時期の編年表が出ています。業績がここに集約されていることでしょう。通説になっていくのでしょうね。
考古学の着実な歩みは、今ここです。いざ謎の4世紀へ!
注意
(2009・5・1)TK23は、年代を少し下げて考えてみましたが、少なくとも475年には始まるという資料もあるようです。そうなると、大仙古墳からTK23の須恵器が発見されないと私の説は成立しません。将来出てくることを期待しましょう。あるいは、10年くらい誤差で吸収されるといいのですが。やっぱり、仁徳天皇陵の周辺は難問だなぁ。
真の仁徳陵、履中陵、反正陵、そして雄略陵はどれでしょう。難問です。次回は、これ、行きましょうか。