牧 相信の面影

 

 

 明治時代に別子銅山や市之川鉱山で活躍した人材に「牧 相信」がいる。特に別子では、明治40年に起こった坑夫暴動事件の原因が、彼の断行した飯場改革であると、どの書物にも判を押したようにその当事者として記載されている。また。市之川鉱山では、「市之川共同鉱山」時代に、白目から武丈に抜ける馬車道を切り開いた功績が今も伝えられているなど、この地域の鉱山史を語るのに欠くことの出来ない人物として、研究する者にとって知らぬ人はいないほど有名である。小生は、市之川鉱山の歴史を研究するに当たって、ぜひ牧相信の略歴や写真を入手しておこうと、思い当たる文献を隈なく調べてみたのだが、意外にも一枚の肖像写真も得ることはできなかった。牧は熊本県出身なので、その道の権威書の「土木史研究 第18号」に投稿された市川紀一先生の「明治初期のエンジニア教育機関と熊本出身のエンジニア」を見ても、「彼らの生没も含めて経歴を知り得る史料は見いだせなかった。」とあって、わずかに「(工部大学校)卒業直後に工部省院内鉱山勤務」と記されているに過ぎない。明治から大正にかけての職員だから、住友に写真1枚くらいは保存されているだろうと住友史料館にも照会してみたのだが、遺族の同意がないと開示はできないとのことで、百年前の“個人情報”を盾ににべもなく拒絶された。このように八方塞がりになると、ますます闘志が湧いてくるのが小生の悪い?ところで、ここぞと思う鉱山資料館や教育委員会に片っ端からメールを出し、その甲斐あってか思いがけない収穫を得たので、ここに牧相信の生涯を自分なりに構築して報告したいと思う。ただ、未だ不明な部分も多いので、関係諸氏に訂正と情報提供をお願いする次第である。

 

T.生い立ち

 牧相信は、肥後細川藩の譜代家臣の家柄に生まれた。出生場所は、肥後国飽田郡池田村(現 熊本市京町付近)。牧家は細川ガラシャが輿入れをした近江の“青龍寺城”時代からの家臣と言うから細川家の根本家臣で家格も高く、禄千石が与えられていたという。愛媛では「まきそうしん」と言い習わしているが、元々は「まきまさのぶ」と呼ぶのが正しいらしい。兄に牧相之がいる。地元の名士で、西南戦争で荒れ果てた郷土を立て直すために奔走、有能な人材を育成して、自らも県会議員となって活躍した(「近代肥後人物史」 下田曲水編 大正14年刊)。相信の生年月日は不明であるが、工部寮の入学年齢の規定や、大正10年に六十余歳で死亡したこと(近代肥後人物史)などから、江戸末期の安政後半から文久年間にかけての生まれと推測される。幼少期から兄弟ともに聡明で、家柄も申し分ないことから、特に選抜されて明治6年、東京の工学寮(東京帝国大学工学部の前身)に第一期生として入学した。

 

U.工部大学校時代

 明治6年、相信は、工学寮に選抜試験を受けて乙種入学を許可された。甲種入学は国費学生、乙種入学は通学生、おそらく私費を払っての入学だったと考えられるが翌年からは国費学生に統一された。工部寮には、機械科、化学科、冶金科、鉱山科、造家科など近代国家を建設するための理工学科が創設され、多くの外国傭人が教育に当たった。寮はその後、工部大学校に改組され、さらに多くの学科と入学学生を整えて、国営企業や政府の枢要となる人材育成に力を入れ、彼が卒業する頃には、官学としての基礎が確立された。彼は、明治13年5月に工部大学校第二期卒業生として6年間の学業を終え、直ちに工部省管轄の院内銀山に派遣された。東大には今も彼の卒業論文が残っている。内容はジガー(淘汰機)に関する自筆の英文原稿で、手選に替わる鉱山の近代化を推進するために院内、佐渡鉱山に初めて導入された。彼が院内銀山に派遣されたのも、こうした理由に依るものかもしれない。なお、当時の大学の様子は「工部大学校史料」(国立国会図書館 デジタルライブラリ公開)に詳しく、口絵に各期卒業生の集合写真も掲載されているが、第一期、第二期生のそれは何故か欠如している。当時の写真の普及率から見て仕方がないとは思われるが残念でならない。

 

     

                           (牧相信の大学卒業論文、「会誌 院内銀山 第30号」 吉田国夫氏論文より転載)

 

V.院内銀山時代

 院内銀山での彼の事蹟は、「会誌 院内銀山 第30号」の「みゆき坑の官員たち −福島晩郎と牧 相信」(吉田国夫)に詳しい。小生の文章もほとんど吉田氏の論文に依っている。秋田県湯沢市の院内銀山は、江戸時代から藩主の佐竹氏によって稼行されてきたが、明治に入り官営のモデル鉱山として生野銀山とともに国家管理の下で開発が進んだ。明治5年には、かのゴットフレーも来山し、明治8年から官営鉱山となった。彼が赴任した明治13年頃は官営とはいえ、まだまだ江戸時代の旧弊が蔓延り、老獪な鉱山師の群れが羽振りを利かせる旧態然とした有り様で苦労も多かったと思われるが、同期の松下親業(製錬課)と力を合わせて銀生産の増強に尽くした。赴任当時は七等技手として年俸30円を国から支給されている。そうした中で、院内銀山は、明治14年9月21日に明治天皇の行幸を賜るという、この上ない名誉となる一大イベントを迎えたのである。

 

 

 明治天皇は、有栖川宮熾仁親王と北白川宮能久親王を供奉されて5番坑に入坑し、実際の採鉱現場や選鉱所、製錬所などを天覧された。東京神宮外苑の「聖徳記念絵画館」には、その模様を伝える「山形秋田巡幸鉱山御覧」(五味清吉作、古河虎之助寄贈)が常設展示されている。今まさに坑道に入ろうとする軍服姿の明治天皇が中央に在し、手前でカンテラを見つめるのは薩摩精忠組の志士で当時の工部大輔 吉井幸輔(友実)である。両者の間で頭を下げる人達は、おそらく院内銀山の要員で、この中に牧相信も居たことだろう。採鉱に関しては彼が実質の最高責任者であるから、天皇のご下問にも答えるなど、生涯最高の栄誉と緊張で身も震えながら、天にも昇る気持ちであったに相違ない。この5番坑はこの後、「御幸坑」と改称して閉山後も整備され、当日の9月21日は現在も「日本鉱山記念日」に制定されている。

 こうした若き日の精力的な活動と喜びの日々とはうらはらに、明治19年12月には、生後五ヶ月の愛児「八郎」を失うという悲しみにも遭遇している。「会誌 院内銀山 第25号」の「院内銀山墓碑地図」(渡部和男氏)には、鉱山近くの立石下墓地に「故八郎之墓(正面) 明治十八年十二月十二日歳五月(右面) 熊本県肥後国飽田郡池田村牧相信長男(左面)」の墓標があることが記載されている。おりしも院内銀山は前年の明治17年に国から古河市兵衛に払い下げられており、相信も次の職場を求めて奔走していた時期だけに、息子の死は東北の冬よりも冷たく彼の心を吹き荒んだことだろう。渡部氏も、「彼が去った後は詣る人もなく、生後五か月の乳児は一人淋しく苔むした墓の下に眠って来た。」と哀悼の辞を捧げてその論文を締めくくっている。

 ちなみに冒頭の肖像写真は院内銀山時代の牧相信。鼻筋の通った美男子だが“肥後もっこす”らしい頑固な気難しさも兼ね備えているようだ。鉱山支配人のご子孫の家に大切に保存されていた集合写真を転写、修正させていただいたもので、院内銀山研究家の渡部和男氏から提供を受けた貴重な写真である。伏してお礼を申し上げる次第である。

 

W.藤田組時代

 院内銀山が払い下げとなり、長男を失うという悲劇に見舞われた相信は新天地を求めて、明治20年に大阪の藤田組に入社したようである。同じ古河鉱業の足尾銅山に移ったという論文もあるが、ごく短期間のため実際に足尾に赴いたかどうかは不明。足尾に残る彼の足跡や写真を地元に照会してもみたが、お返事は頂けなかった。藤田組総帥の藤田伝三郎は長州の産。長州出身の新政府要人に取り入ってのし上がって行った御用商人だが、自滅した山城屋和助などと違うところは、途中から自活できる地道な鉱山業に転向して時勢を鋭く見据えながら名門企業にまで発展させた気骨と並外れた才能の持ち主であったことである。市之川鉱山には、明治13年頃から経営参加をしたが、これは藤田組が鉱山経営に参画する端緒でもあった。明治17年になると、市之川鉱山は坑法違反の廉で全て愛媛県に没収され藤田組にその全ての経営を委ねさせるという、いわゆる「お山騒動」の後始末を藤田組が請け負うこととなった。同じ頃、藤田組は小坂鉱山や大森銀山(石見銀山)の払い下げも受けており、その資金は長州毛利藩から20万円の借金をして賄っている。おそらくこの資金がなければその後の発展もなかった訳で、伝三郎は毛利藩へのこの恩義を終生忘れることはなかったという。

 牧相信が入社した明治20年は、そうした鉱山経営を多岐に亘って拡張している最中であった。最初から市之川鉱山の採鉱に携わったかどうかは定かではないが、明治22年に至り、愛媛県は藤田組の市之川鉱山請負を一方的に解消し、再び地元有志による共同経営に方針転換した。その時の訴訟記録である「市之川鉱山処分」(続資料集 市之川鉱山 伊藤 勇編)に彼の名前を見ることができる。明治23年1月の藤田組から共同鉱山への譲渡の復命書に「・・翌廿七日 藤田伝三郎代理人 木村復次 牧相信 及関係人 河端熊助ヲ召喚シ略受渡ノ順序ヲ定ム・・」とあるのがそれである。受け渡しの代理人というからには、実際の鉱山経営に携わっていたとするのが妥当であろうが、これ以上の資料は今のところ確認できていない。しかし、僅か2年ながら、当時“坩堝”のような活況を呈する市之川鉱山経営に参画した経験が、数年後、再びこの地に帰ってくる要因となったことは充分にあり得るのではないだろうか。

 市之川鉱山を撤収した後、彼は明治25年に同じ藤田組の大森銀山に赴任したと、先の吉田論文には記載されている。「工部大学校六回生の大原順之助が技師長を勤める大森銀山に赴任した。後輩大原との葛藤は知る由もない。」とあるように、民間を渡り歩いたために次第に出世道から取り残される自分に焦りを感じる心情は充分に察することができる。このことが起因となって藤田組を去ったとも考えられる。この件についても、石見銀山資料館に照会しているが、牧相信なる人物は聞いたことがないので調査してみるとのお返事であった。

 

X.市之川鉱山時代

 吉田論文が正しければ、牧相信は、明治27年から「市之川鉱山株式会社」と社名を変更した市之川鉱山に就職したことになっている。以後、会社が不況で解散となる明治35年まで鉱山経営の中枢で活躍したと思われるが、残念なことに当時の記録や事蹟は何も残っていない。ただ、鉱山跡に残る「伊藤武平翁頌徳碑」の碑文に「所長 牧相信」とあることや、伊藤勇先生が“テープ起こし”をされた鉱山座談会(資料集 市之川鉱山)の中に「牧相信さんですか。ええ、これらも皆、牧さんの設計の坑道じゃ。もう古いものよ、この粗坑道ちゅうのは。」・・とか、「あれや、お前、今の道路は牧さんの時分にやったんじゃ。牧相信さんいう人の時分に。」などの会話で断片的な業績が伝わっているだけである。今はこのテープ自体も、保存されているはずの西条市立郷土博物館から紛失したままになっているのは信じ難い杜撰さである。こんなことで、地元は市之川鉱山を次世代に本当に伝えていくことができるのであろうか?・・

 まあ、それはともかく、他の市之川鉱山の記録類も全くと言っていいほど現存していない。何度も休山と倒産を繰り返した事情で致し方ないのかもしれないが、四国鉱山誌(四国通産局編 昭和32年)には、「大正年間までは、(大生院郷土誌などに)記載されていたが、昭和以降の詳細記録は、昭和20年、終戦時に紛失、あるいは焼却したものと思われ、ほとんど判明せず、概要については、坑夫頭をしていた矢野弥蔵氏談話による。」とあるくらいだから、今後の研究はさらに困難となっていくであろう。今のうちに現存資料の所在を確認、確保し、新しい史料発見に期待するのみである。彼は地元民の中にあって孤軍奮闘したが、全くの孤独という訳ではなく、同じ藤田組にいた春原隈次郎が、会社撤退後も近くの古川土場のアンチモニー製錬所を独立存続させていたのでいろいろと相談できた可能性はある。共同鉱山時代は反射炉の特許を巡って双方の会社は激しく対立したが、明治27年以降に和解に取り付けたのも牧あってのことであったかもしれない。順風満帆に見えた市之川鉱山時代も、日清戦争後から続く不況で明治35年に会社が倒産解散の憂き目に遭い、再び職を求めなければならない事態に陥ったのは彼の不運としか言いようがない。運命に翻弄される我が身を嘆きつつ、憮然と住み慣れた市之川を去っていったことだろう・・

 

                      (藤田組時代の春原隈次郎。DOWAホールディングス 提供)

 

Y.別子銅山時代

 明治35年から、別子に就職する明治39年に至る経歴は不明である。「住友別子鉱山史」には、「九州の炭坑から招かれた」の一文があるので、市之川を離れた後しばらくは、故郷に近い九州で活躍していたのかもしれない。さし当たって、長崎市文化財課に問い合わせてみたが、当管内に該当する人物なしとのことであった。明治39年3月に別子銅山採鉱課主任として着任。直ちに山中の飯場改革に取りかかった。このあたりの断行は、同じ帝大出のエリート特有のひ弱な弱腰よりも、院内や市之川で叩き上げられた“肥後もっこす”の剛胆さが会社に買われたのかもしれない。着任から4ヶ月後には、早くも牧相信暗殺計画が練られたというが、そんな脅しもモノともせず、ピンハネで稼いでいた坑夫頭や請負人を次々に解雇し、坑内役局を坑外に移して、坑夫の割付けを採鉱課直轄にしようとした。しかし、それだけが暴動の原因かと言えばそうではなく、根底には不況による一般の坑夫、負い夫の生活逼迫があったことを忘れてはならない。坑夫の代表が会社に交渉に行けば即解雇されてしまうというのでは、集団で行動するしかないではないかというのが、暴動後に裁判にかけられた被告達の言い分である。こうした労使交渉の欠如した感覚は、当時の住友要人達がまだまだお大尽風を吹かせて下々の生活を慮らなかった証拠でもあり、先に起こった足尾暴動に啓発された各新聞はいっせいに住友側の非道さを論うのであった。「そもそも牧相信は旧熊本藩士たる剛胆無敵の性格なるも、実に知恵のなき男にして、いわゆる猪武者なり。・・約言すれば、傭人を優遇して坑夫を酷使する、これ暴発の一因なり。」「・・我ら新聞記者に向かって「牧さんの御改革の御方針は・・」云々と語りて平然たり。いやしくも外来の客に向かって自己の業務のことを「わが課長さんの御改革の御方針・・」と云う、痴に非ずんば狂、その思慮の幼稚なること三尺の童子と相選ぶ所なし。・・平素好んでかかる言辞を弄せしむる牧相信その人の馬鹿さ加減も、もって想像するを得べし・・」(海南新聞記事 「別子銅山・瀬戸内海 真鍋鱗二郎著 讃文社刊 昭和63年」となかなか手厳しい。この時の暴動に関しては、また改めて小生の「ジローくんの日記帳」に、当時発行された現場の生々しい絵葉書とともに紹介する予定であるが、世論は暴動よりも、軍隊まで繰り出して力で“天子様の赤子たる”民衆を鎮圧した住友への非難の方に向けられたのである。鷲尾勘解治は、この暴動を目の当たりにした反省に立って、「上下円融」という独自の哲学で、さらに大きな大正期の労働運動を乗り越え、空前の繁栄で鉱山をひとつに纏めていくことになるのである。その「鷲尾勘解治自伝」(益友会刊 昭和56年)には、「明治四十年十月に別子鉱業所に赴任した所、新居浜では支配人 中田錦吉さんは、親切にお迎え下さって・・ご家族同様に温かくお世話になった。・・副支配人は久保無二雄さん、牧相信さん、松本順吉さんのお三人であった。中にも中田さんと久保さんからは、鈴木さんと同じように親切にして頂いた。」と何となく牧相信には距離を置くモノの言い様である。その後、鷲尾は3年間に亘り別子内外の坑内作業を自主的におこない、作業効率化を図って東延のある坑道改修を採鉱課上部に上申した。「・・然るに奇怪にも私に対して直接には一言の反対もないのに、課内に非難反対の空気が多く、しかも相当に上局まで達している模様であった。果然、某副支配人から工事の計画書を出せとのご命令があった。・・ご覧になって、これは君の想像に基づいて出された結論であると言われて、可否については一言も言われないのであった。・・当時若い血気旺んな私は、住友に入社以来初めてのこの摩擦にあって、実に不愉快千万であった・・」と、儒教や仏教の教えを散りばめた鷲尾の文章にしてはかなり激しい怒りの表出である。同時期に当たる大正2年の「大阪鉱務署管内鉱区一覧」には、別子鉱業所支配人 久保無二雄、技師 牧相信(採鉱)、中村啓二郎(製錬)とあるので、おそらく某副支配人というのは、牧のことであろう。まあ、坑夫の訴えを無きものにした彼にしてみれば、“自疆舎”なる私塾で坑夫を勝手に教育して、やれ環境改善だ、やれ作業能率化だと労働問題に種を播くような鷲尾の行為を苦々しく思っていたに違いない。こうしてみると、牧は暴動後も左遷や降格などをされることもなく、技師長兼副支配人として別子銅山に君臨していたようだが、これも、鈴木馬左也や久保無二雄など、懐の深い同じ東大出身者の庇護あってのことで、住友幹部にとっては、下に妥協しない頑固で冷徹な人柄がむしろ歓迎されていたのかもしれない。

 

                 (大正4年の第四通洞開通記念写真。果たして牧相信は、この中に居るのだろうか?

 

Z.晩年

 牧相信が、いつ頃、住友を退職したかは明らかではないが、大正7年の「大阪鉱務署管内鉱区一覧」には、所長 久保無二雄、主任技師 磯野寅、漆野佐市郎 と彼の名前は消えているので、この頃までに已に住友を去っていたことがわかる。まだ五十歳代後半になったばかりの働き盛りだが、伊庭貞剛以来、「老人の跋扈」を嫌う社風に従っただけかもしれない。その後は、兵庫県武庫郡魚崎村字横屋(現 神戸市東灘区)に自邸を構え、大正10年1月に享年六十余歳で死亡したことが「近代肥後人物史」に記されている。晩年の資料が何か残っていないかと思い、神戸市東灘図書館に照会を試みたが、あいにく平成25年9月に新築移転したばかりで業務多忙のため、未だ望みを果たせていないのが残念である。せめて彼の墓標くらいは確認しておきたいものだ。一方、「会誌 院内銀山 第30号」の吉田論文には、「明治三五年六月 京都市上京区に転居し、大正十年(1921)この地で逝去した。」とあるが、別子赴任のことを考えると、「近代肥後人物史」の方の記載が正しいと思われる。

 

 

 

 以上、牧相信の生涯について、小生が今までに知り得た範囲で簡単に纏めてみた。吉田国夫氏は、その論文を「牧相信の鉱業人としての足取りは平坦ではなかった。しかし、彼が黎明期の院内鉱山に近代化のともしびを掲げたことは鉱業史にとどめて置きたい。」と締めくくっているが、確かに多くの鉱山を渡り歩く流浪の半生は、当時の東大出のエリートとしては特異な部類に属したことは否めない。しかし、別子への招聘も最初から飯場改革を彼に任せようという上部の意図があっただろうし、採鉱効率を上げるために坑夫を抑圧するそうした辣腕も、荒々しい共同経営の市之川鉱山で培った長い経験から体得した彼なりの解決法であったに相違なく、ただ機械や技術を導入するのではなく、“猫に鈴を付ける”汚れ役を見事に果たし真の鉱山近代化に自分が貢献したことに存外満足していたのではないか?! その意味では静かな晩年がいかにも彼には似つかわしく、“我が事成れり、以て瞑すべし”という心境であったのかもしれない。

 

 (稿を終えるに当たり、「院内銀山異人館」の小松様には、多くのご教示を賜り伏してお礼申し上げます。また、牧相信の写真をお送り頂いた渡部和男先生には、別子の牧相信についても詳細なデータをお送り頂き感謝に堪えません。ご研究の益々のご発展を心よりお祈り申し上げます。今後とも、よろしくお願い申し上げます。)