ユウジは絵がうまかった。 中学の頃は美術の授業でクラスメイトの誰かを被写体にした人物デッサンの時間が必ずあったけれど、 その評価は必ずAがついて返ってきてた。 私はユウジのクロッキー帳を覗き込んでは「うまいねえ」と呟いた。 ユウジも私のそれを覗き込んで「お前のは幼稚園児のらくがきやな」と毒を吐く。

いつか、ユウジのクロッキー帳に私がえがかれたらな、と思ってた時期もある。
けれど私は結局、ユウジに「私もかいてよ」と言い出す事も、 美術の時間被写体として立候補する事もなく月日は流れた。
(結局は、好奇心よりも防衛心が勝ったのだ)

だって、ユウジ視点の私が暴かれるなんてきっと耐えられない。







夜中になってふと目が覚めた。
夏の暑苦しさと体のべたべたさがあいまって不快だ。
張り付いた前髪を掻き分けながら手探りで携帯を探す。 パカリとあけて時間を見ると、午前3時を回ったところだった。 携帯の明かりが照らし出した周囲の中で、ユウジは私に背中を向けて呼吸で僅かに身体を上下させてた。
起こさないようにそっとベットから抜け出して、キッチンへ向かう。
コップに水を注いで、一口飲むとカラカラになっていた喉が潤されるのと同時に吐き気が襲ってきた。 夕ご飯なんてそんな食べすぎたわけじゃないのに、と思いながら「う」と水道に向かって前かがみになると、 浮かんできたのは先ほど見たばかりのユウジの背中だった。
結局、何も吐き出す事は出来ずただ口の中が多少すっぱくなっただけだった。

「は」と息を短く吐いてコップ片手にその場にぺたんと座り込む。
痛烈にフラッシュバックしてくるのは、熱に浮されながら無意識に私の名前を呼んでしたり顔をするユウジだった。 その瞬間また体中が圧迫されるような嘔吐感。
じわりと涙が浮かんで、額にいやな汗をかいた。

「何しとんお前」

暗闇に多少慣れてた目が捉えたのは、ユウジの人影だった。
部屋とキッチンをまたいでる扉に手をかけて立ち、少し遠くにいる私を見下ろしてる。
その表情まではわからない。

「べつになんも、喉渇いただけ」
「へえ」

ユウジは無音で私の隣に腰をおろして、私の手からコップを奪い取った。
飲むのかなあと思ったらそれは床に置いて、ゆらりと私の唇を奪った。
ユウジのあったかい舌がぬるりと私の口の内の入ってきて、私はやはり苦しくなってぐいとユウジを押し返した。 むせかえる酸の感覚に、「うえ」と嗚咽を漏らす。

「具合悪いん隠すな」
「…悪いん、ちゃう、多分、一過性や」
「悪いのに一過性もクソもないわボケ」

そう言ってユウジは私の額の汗を指先で掬った。
その指先は思いのほかひやりとしていて気持ちよかった。 その事をユウジに伝えると、「お前の頭が熱いんじゃ」とツッコミが返ってきて、 そこで初めて自分が発熱している事に気付かされた。

(でも違う、この吐き気の原因は身体の不調なんかじゃない)

私がベットに戻るとユウジは服を着て何かゴソゴソと動き回っていた。 チャリ、という金属音が聞こえて(外に出るのだろうか)と思うとやはりそうで、 「大人しゅうしとけ」とだけ残して彼は廊下の向こうに消えた。

ユウジのにおいいっぱいの部屋で一人になった病人の私は、その心許無さに少し泣いた。

(どうしたいのかわからない)
ユウジの事を考えて、ユウジの事を思いながら私は吐き気に耐えるのだ。
それは今に始まった事じゃない、ただ今は身体が弱っているからいつもより激しいのかもしれないけれど。




暴かれるのが怖いと言うのは、逆に言えば相手を暴くのも怖いということ。
自分が心を開かなければ、相手も応えてはくれないとはよく言ったものだと思う。
その、ジレンマに私は陥ってしまっている。
それも、倦怠期がどうとかそういう次元を超えて最初からそうだった。

まるで雪がどんどん降り積もって見慣れた景色を覆い隠していくのに似ている。 だから最初から見えていない部分はずっとわからないまま。
この雪は、溶けない雪。

ユウジの中にももしくは同じように雪が降り続けているのかもしれない。
(彼にはどんな私がうつっているのだろうか、果たしてそれは私なのだろうか)





「泣く程寂しかったんかい」

暗闇の中に聞こえた声に意識が現実に引き戻される、 私はさっきまで自分の作り出した幻想の中の雪原に立ってユウジの事を探してた。
もう少しで見えなくなってしまう(あるいはもう見えていない)、ユウジの事を。

「あんな、溶けない雪がな、」うわ言のように頭の中にあった言葉をぽつぽつと呟くと、 コンビニのビニール袋をかさかさいわせたユウジが「溶けへんならそれ、雪とちゃうわ」 と言って私の額にひえぴたを貼り付けた。
(ああ、確かにそうだ)
(じゃあこれは、灰なんだろうか)
(ユウジへの燃え尽きた想いが灰になって降り積もっているんだろうか)

そうだったら、いいかもしれない。
(盲目になってるだけだって、思えるから)

「ユウジ、」
「あん?」
「すき、すき」
「病人がうわ言で何言うねん。意識はっきりしとる時に言えアホ」



ねえ、でもこういう時の方がちゃんとした本音なんだよって気付いてるよね。
好きだ、と言ってくれるかわりに「」と私の名前を呼んだユウジの声は少しだけ震えてた気がする。 それは私の頭がぐるぐるしてて勘違いかもしれないけれど、 軽く握ってくれた手がしっとりと私に安心感を与えてくれた。


溶けることのない雪
un flocon de neige ascendant dans le ciel