あれは、大学の卒業式を控えた前日の事だった。 学生でいられるのも、もう終わるんだねなんて感傷に浸っていると隣に居た千歳が前触れもなく、 まるで呼吸するのと同じくらい自然に『結婚しようか』とそう言った。
あの日の千歳の顔を今でも鮮明に覚えてる。
何故なら私たちは忘れてしまえる程思い出の数が多くないから。

(これは、嫌味だ)






今日も何気ないただの一日だった。
与えられた仕事をこなして、たまにお茶くみをして、当番だったから仕事上がる前にトイレ掃除をして。 大分着慣れたスーツで、控えめのヒールでにこにこ笑う。変哲もない、満足もしてない。
そんな毎日が続いてた。

休日になると、友達とショッピングに出かけたり、読みかけの小説を読みふけったり。 ふらっと電車に乗って、知らない街で降りて探索をしてみたり。
毎日が新しいことの連続で、色んな事に一喜一憂していた学生時代の自分が懐かしい。
(そう、もう、ただ懐かしいだけ)

そして今日も何気なくただ終わるのだ。
ひっそりとしたマンションの一角にある自分の部屋の鍵穴に鍵を差し込んでぐっと回す。 バチンと音を立てて錠が外れて、私は軽く首を回した後部屋に入った。
すると、玄関に大きな靴が脱ぎ捨てられている。
それを見た瞬間に、私は今すぐ時間を巻き戻してこの部屋に入る前に戻りたいと願った。 それか、連続している時間の中で、これからこの部屋の鍵を開けるだろう自分に忠告してあげたい。
(入っては駄目、あの男が来ているから)と。

しばらく立ち尽くした後、私は仕方なくヒールを脱いだ。 だってここは私の部屋で、何を躊躇する事もないはずで。

買ったばかりの食品を冷蔵庫や棚に仕舞った後、着替えるために寝室に向かうとそこには一人の男がうずくまっていた。 まるで私のベットが小さいといわんばかりに背中と足を丸め込んで、 自分を抱きしめるみたいに窮屈に眠っていた。

久しぶりに見たその寝顔は、やはり記憶と寸分違わず私の知っている彼であり、 それでいて私の知らない彼だった。
当たり前の事だけれど。
今日ここにいる彼を、だって私は初めて見たんだから。 過去見た彼は、ただの記憶であり幻影であり、現実でありながらそうではない。 ただし、今は触れる。そこにいるから。

(髪、伸びたなあ)

ベットの傍にしゃがみこんで、まじまじと観察する。 しばらくしてから手を伸ばして、頬に触れてみた。 ちょっとカサカサしてて、(ちゃんと栄養とってんのかな)と心配になる。

(ああ、にがくてくるしい)

「おかえり」

目は堅く閉じられたまま、唇だけが動いて音が聞こえた。 私は一瞬びっくりして、それから「こっちのセリフだよ」と呟いた。




『結婚しよう』と言った千歳は翌日、卒業式に姿を現さなかった。 何度も何度もかけた電話は電源が入っていないとか電波が届かないとかで通じなかった。 「まあ、千歳らしいんじゃないか」彼の知人友人は口をそろえてそんな事を言う。 まるでそれが当然であったかのように。
前日あんな事がなければ、私だってそう思っていたかもしれない。
けれど彼は彼らしくない言葉を口にし、そして消えた。
もしかしたらあれは、私に救いを求めていたのかもしれないと悩み後悔し、 けれど普通に生きる事をやめるわけにもいかず、 繋がらない電話に一日一回だけ電話をかけることに決めて私は変哲ない日常に埋没する事に決めた。

それはこんな風に、彼がひょっこり帰って来る時のための準備でもあった。
千歳失踪の日から半年程たった頃、彼は私の前に現れた。 何事もなかったかのように「久しぶりたい」と言って笑いながら。 私も何事もなかったかのように、さもそれが当たり前だというように「千歳」と彼を呼んで、 それから久しぶりに彼に抱かれた。
空白の時間、彼は何人の女を抱いたのだろう、彼にとっては彼女たちと同じように、 私も彼の中を通過していくだけの一人の女なのだろうかと考えながら。

それでも「」と私を呼ぶ彼の声は掠れる事も老いる事もなく昔と同じそれだった。
情事の後、きっと眠って目が覚めた後彼はいなくなるのだろうと私は急く様に彼にこの部屋の鍵を渡した。 本物の方を。それがどんな意味かなんて彼にわかるはずは無いし、 それが本物であるだなんて彼の知るところでもないけれど。 毎日スペアキーで暮らす私は、ただ彼がこの部屋を開ける権利を持つ本物の鍵を持っているというだけで、 少し安心できたのだった。



そして、やはり翌日になって彼は居なくなった。
以来、数ヶ月に一回こうして現れる。
それが今日だった。

どこで何をしているかなんて知らない。
私たちはずっと昔から未来の話をしなかった。 今か、それとも過去か、自然と口に出る会話のすべてがそうだった。 彼がどんな進路を望んでいたかなんて、知るよしも無い。それはまた彼にとっての私もそうである。

「お腹はすいてる?」
「ん〜、そんなでもなか」
「そう。元気そうでよかった」
も、前より綺麗になったみたいばい」
「そんなお世辞どこで覚えてきたの?」
「お世辞じゃなかよ」

困ったように眉をひそめて、それからむくりと起き上がって千歳は私にキスをした。 ぐい、と腕を引っ張られてベットに引きずり込まれる。 少し固いベットマットに膝を軽く打ち付けて、ちょっと痛かった。
それよりも苦しいくらいに抱きしめられて、私は泣きたくなった。

「スーツ、皺になる」
「こんくらいで皺になっと?」
「そうだよ。千歳は堅苦しいの嫌いだから知らないかもしれないけど」
「安心したばい」
「一体何に」
のスーツに皺ばつける人、まだおらんとや」

皺の無いピンとした私のスーツを見て千歳は満足そうに笑った。

それは、(皮肉なの?)(安心感なの?)
その疑問を飲み込んで、久しぶりに嗅ぐ彼のにおいを胸いっぱいに吸い込みながら、 涙が出そうな目尻を彼のシャツに押し付けた。 そんな私の髪をくしゃっと撫でて、千歳はもう一度私にキスをした。




あと、どれくらいこんな事が繰り返されるのだろうか。
いっその事、始めから何もかもを決めてしまえばよかった。
月曜日は私が電話をするから、火曜日は千歳が電話してね。 水曜日は私がメールをするから、木曜日に返事をかえしてね。 金曜日はディナーをして、土曜日にはセックスをして、日曜日はゆっくりしよう。 一年後には名前で呼び合うことにして、二年後にはあだ名でもつけようか。 親しみを込めて呼ぶから。
そんな風に。

『結婚しよう』
私の返事は、イエスでもなくノーでもなく、ただ笑う事しか出来なかった。 急にそんな事を言い出すあなたがどうしようもなく不安定で涙が出そうだった。
(未来の話なんて急にしないで)あの頃の私はそれしか考えられなかった。 それは私たちが終焉を迎えようとしているようで悲しかった。
だって今だけで精一杯なのに。



けれど今になって思う。きっと彼は自分がこんな風にしか生きられないことがちゃんとわかっていたのだ。 私たちはきっと愛し合っている。けれど寄り添って生きていくのはとても難しい事だった。
それでも、彼は私と一緒になりたいと思ってくれたのだろう(か)。


(でも、もしそんな約束を取り付けてしまったら)
(もしかしてもう彼は私のところに戻ってこなくなっちゃうんじゃないかって)

今でもどうしようもなく不安で、苦しくて仕方が無いのです。



できるなら、ほんとうは
にっこり笑って頷きたい
(曖昧であれば曖昧であるだけ選択の余地があるのだと、信じていられればそれで良かった)


括弧内副題はAnecdote様より。
最近考えた千歳妄想があまりにそんな感じでした。
それから、ムーミンの名言に「物事は全部曖昧で、それが私を安心させてる」って言うのがあって、
確かに世の中がすべて真実で出来上がっていたらそれは逃げ道も見つからない苦しい現実なんだろうなと。
千歳が自由に生き過ぎて、でも千歳にとってはそれすらも息苦しいんだろうな、
とか思ったら切なくなります。